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愛のかたち  作者: 高山 由宇
第3部
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第7話 新たな道に向かって

 高校生活もあと数ヶ月で終わろうというある日、陽の心は、これ以上ないほどの衝撃に打ちのめされていました。

「ねえ、ハッチ、聞いた?」

 話しかけてきたのは、クラスが違っても変わらずに仲良しのほのかちゃんです。いつもと違って、その時のほのかちゃんは強張った表情をしていました。陽も、自然と表情が固くなります。そして、息をひそめるように、ほのかちゃんの次の言葉を待ちました。

「サットね、妊娠しているんだって」

「……え……?」

 なかなか言葉が出てこない陽の様子に、ほのかちゃんが続けます。

「ハッチは、サットがエンコーしていたって、知っていた?」

 こくりと、陽がうなずきました。

「その相手との子供……らしいんだけれど」

 さらなる衝撃が、陽の胸を貫きます。

 気がつくと、陽は走っていました。ばたばたと、大きな音を響かせながら。廊下に出ていた生徒たちは、その音にこちらを振り向き、そしてみな、驚いた表情を浮かべつつも一様に道を譲ってくれました。途中、

「こら! 廊下を走るな!」

という威厳ある先生の声が聞こえた気がしましたが、この時ばかりは陽を止めるには力不足だったようです。そうして陽は、目的の教室へと辿り着いたのでした。

「あ、あの!」

 息を弾ませながら、廊下側の席にいた生徒に尋ねます。

「……美里ちゃんは、いる?」

 教室の中を見回しながら尋ねる陽に、その生徒は首を振って答えました。

「いないよ。先生に呼ばれて出て行った」

「……どうして?」

 拳を、ぎゅっと胸に押し当てます。ばくばくと激しく動く鼓動は、走って来たからというだけではないでしょう。抑えようとすればするほど、高鳴る心音はまるで耳元で聞こえるようです。

「妊娠したからじゃないの?」

 それは、「あそこに新しいお店ができたらしいよ」とでも話すような、軽い口調でした。

「妊娠って……みんな、知っているの? 先生が言ったの?」

「ううん。でも、みんな噂しているから」

「噂……」

「ハッチ」

 すぐそばで上がった声に、陽は弾かれたようにそちらに顔を向けました。陽をそう呼ぶ人は限られています。今、先生に呼ばれて教室を出て行ったという美里ちゃんか、もしくはほのかちゃんだけです。振り向けば、心配そうにこちらを見つめるほのかちゃんの目とかち合いました。

「ハッチ、行こう」

 ほのかちゃんが陽の手を軽く引きます。なかば放心状態の陽は、その力にすら抗うこともできず、ほのかちゃんに導かれるままに自分の教室へと戻って行ったのでした。

 陽のクラスの前まで来ると、ほのかちゃんが口を開きました。

「サットね、クラスの子に話しちゃったんだって」

 何を、などと聞かなくても、それだけで理解するには充分です。

「……その子が、言いふらしたの?」

「……たぶん」

「……ひどい」

 言ってから、ずきりとした重い痛みを感じました。何かが、胸に突き刺さったような痛みです。

「……ひどい」

 再び口にすると、ほのかちゃんはさっと目を伏せました。きっと、陽の目に溜まった涙を見たからでしょう。

「確かに、それはひどいと思う。けれど、妊娠が事実なら、いずればれたよ。卒業までの間、隠せるはずがなかったとも思う」

 それを聞くと、陽は何も言わず、ほのかちゃんの前から去りました。

 「あ……」という声が背後で聞こえたような気はしましたが、この時ばかりはもう何も聞きたくないという思いが先行し、振り返ることができなかったのです。

『ひどいよ……』

 自分の席に着いたあとも陽は考えます。

 ひどい。

 美里ちゃんの妊娠が学校に知れ渡ったと知った時、胸に沸き起こった言葉。

 けれども、ひどいのは一体誰なのでしょうか。陽には、この言葉を向けるべき相手がはっきりとしませんでした。

『サットは妊娠していることを知って、たぶん、一人で抱え込むことができなかったんだ。だから、クラスメイトに話してしまったんだ』

 なら、ひどいのは、美里ちゃんの重大な秘密を人に話してしまったクラスメイトでしょうか。

『サットの信頼を裏切った……。確かに、その子はひどいと思う。けれど……』

 その子一人をひどいと思うのは、何かが違うような気がしたのです。

『サットは、どうしてその子に話したんだろう』

 仲良しだったのかなと思いましたが、本当に仲が良かったなら、絶対に秘密は守るはずです。

『私なら、絶対に話したりしない』

 陽は、強い意思を持ってそう思いました。

『……そうか。……いなかったんだ……』

 陽の瞼が、また熱を持ち始めました。

『サットには、友達がいなかったんだ……』

 陽にとってのほのかちゃんのような、あるいは美菜子ちゃんのような、本当に美里ちゃんを心配してくれるような友達が、彼女にはいなかったのです。

 美里ちゃんは、出会った時から少し浮いている子でした。周りの空気が読めず、わがままなところもありました。一年生の終わりには、流行を追うあまりに道を踏み外していると思ったこともあります。

 そう……。陽は、気づいていたはずなのです。

 美里ちゃんが友達を作ることが苦手だということに。

 美里ちゃんにとって、友達と呼べるのは陽とほのかちゃんぐらいしかいなかったということに。

『私とほのちゃんは進学クラスで、サットだけが就職クラスだった……』

 二年生に上がる時、そのようにクラス替えが行われました。けれども、教室は同じ階に存在します。同じ進学クラスであっても、陽とほのかちゃんとは別々の教室です。それでも、二人は休み時間になるとよく会って話をしています。別々のクラスになったからと言って、美里ちゃんと話せないということはなかったはずなのです。

『……手を放したのは、私だ……』

 援助交際をしていることを自慢げに話していた美里ちゃん。もしかしたら、あの時、美里ちゃんは陽に助けを求めていたのではないでしょうか。そう思うと、胸の奥が、鷲づかみされたように痛みました。

『もっと、しっかりと話を聞いてあげるべきだったのかな……』

 ぽたりと滴が落ち、陽は机に突っ伏しました。

『だとしたら、ひどいのは……私だ』

 ずきんずきんと、どんどん大きくなる胸の痛みを感じながら、美里ちゃんのこれからを案じ、陽は涙を流したのでした。


 美里ちゃんは、退学処分となりました。

 事情を知っている生徒たちは、みな、口をそろえて「当然だよね」と話しています。一人として、彼女を擁護する声は聞こえてきません。

「サット」

 美里ちゃんが先生に連れられて行ったあの日、校長室から出てきた彼女に声をかけました。こんなふうに話すのは、実に二年振りのことです。

「……何、しているの? 今は授業中でしょ」

「うん。サボっちゃった」

 美里ちゃんを取り巻く靄は、二年前よりももっと濃く、重いものへと変わっていました。

「へえ。ハッチがサボリ、ね。優等生が、意外だねえ」

「私は優等生じゃないよ」

「……目、赤いけど。なんで?」

 指摘され、慌てて目に手を当てました。引いたと思っていた熱が、美里ちゃんを前にまたぶり返したようです。

「サット……」

「用がないなら話しかけないで。もう帰るから」

「帰る……?」

「そう。帰るの」

 そう言って横を通り過ぎようとした美里ちゃんの腕を、

「……待って!」

 陽は思わずつかみました。驚いたように振り返る美里ちゃんは、

「何なの? 離して!」

と強い口調で拒みますが、その一瞬、彼女を取り巻く靄が確かに引いたのです。それに気づいた陽は、美里ちゃんにこう告げます。

「メールして」

 その瞬間、美里ちゃんはぽかんとした表情で陽を見つめました。

「一年生の時にアドレスを交換したでしょ? あまり使ってなかったけれど」

「なんで、今さら……」

「だって、サットは、高校で初めてできた友達だもの」

「……」

「しかも、教室に入ってからじゃなくて、登校途中のバスの中で出会ってたんだよ」

「……それが、何なの」

「何かあったら、メールしてよ。どんなことでもいいから。待ってるからね」

 その言葉に、美里ちゃんが答えることはありませんでした。けれども、

『こういうことだったんだ……』

 陽はそう思いました。

 美里ちゃんの体を覆い尽くすほどに濃く広がっていた靄ですが、今は綺麗に晴れています。それどころか、ひと筋の白い光が美里ちゃんの頭上から伸びていました。

『お母さんの言った通りだったのかもしれない……』

 「寂しいのかな」と、お母さんは言っていました。陽から美里ちゃんのことを聞いただけで、その時にはすでに、お母さんには美里ちゃんの心の状態がわかっていたのでしょうか。

『私にはわからなかった。……わかろうとしなかったんだ』

 こんな簡単なことだったのに……そう思いながら、学校を出て行く美里ちゃんのうしろ姿を、見えなくなるまで目で追い続けたのでした。


 美里ちゃんが退学となってほどなくのこと。陽のクラスでも問題が沸き起こりました。

 みやびちゃんが学校に来なくなったのです。

 聞いた話では、男に貢ぐために親の金に手を出したとのことですが、ただの噂話に過ぎないと、陽は気にもとめていませんでした。ですが、一週間ほどののち、何事もなかったかのように登校して来たみやびちゃんが口にしたひと言に、陽は唖然とさせられたのです。

「彼の夢を叶えさせてあげたいの」

 そのあとには、「何がいけないの?」とでも続きそうな感じでした。

 噂は、本当だったのです。

 聞けば、みやびちゃんの彼氏は医大に通いながら音楽活動もしているようなのです。

「医者でミュージシャンよ。素敵でしょ?」

と笑うみやびちゃんに、陽はなんと答えたものかと考えます。

『だって、まだ医者でもないし、ミュージシャンとして売れてもないんだよね……?』

 医大生が全員医者になれるわけではないでしょうし、医者になることだけでも大変なことぐらい、高校生の陽にだってわかります。

「夫の夢を全力で支えるのが妻の役目でしょ」

 そう話すみやびちゃんの目を見た陽は、

『あ、これは違う……』

 瞬間的にそう思いました。

 夫を支えるとか、夫の夢を応援するとか、献身的な妻を演じている自分に陶酔しているのだと、陽はそう思ったのです。

「その彼と、結婚するっていう話になっているの?」

 陽が尋ねると、みやびちゃんは顔をしかめました。

「それは、まだ」

 みやびちゃんが続けます。

「だって、私はまだ高校生だもの。少なくとも卒業してからじゃないと」

「進学は? もうすぐ卒業だけど、みやびちゃんも入試を受けていたでしょ? どこに進学する予定なの?」

「……もちろん、受けていたわよ。ちゃんと合格ももらっていた。でも、やめたの」

「……やめた? 進学を?」

「そうよ。考えてみればね、大学なんて行く必要ないのよ。だって、私は結婚して専業主婦になるんだから」

「専業主婦って……彼氏もまだ学生なんでしょ? どうやって生活するの?」

「……そんなこと! 陽ちゃんには関係ないでしょ!」

 陽としては心配して尋ねたのですが、みやびちゃんの怒りに触れてしまったようです。その後、みやびちゃんは怒りの毒を撒き散らしながら、自分の席へと戻って行きました。

『難しいね……』

 席に着いてからも怒りが治まらない様子のみやびちゃんを横目に、陽はふうっとため息をもらしました。

 友達だとしてもあまり深く追及するのは良くないと思い、陽は美里ちゃんから距離を取っていました。その結果、美里ちゃんは寂しさを募らせ、満たされない思いを援助交際という形で相手の男性に埋めてもらおうとしたのです。そして、卒業を間近に控えながら、彼女は退学となりました。

 その時の過ちを繰り返したくないという思いから、陽はみやびちゃんの深いところまで分け入ってしまったのか、その後、みやびちゃんは陽を避けているようです。

 陽としては、卒業前にわだかまりを作りたくはなかったのですが、陽と話すことをみやびちゃんが望んでいないようにも見えて、無理をするのはやめようと思いました。

『みやびちゃんとは、時間が足りなかったのかもしれないね……』

 みやびちゃんのことを、陽は、どことなく美里ちゃんに似ていると思っていました。だから、友達として何か力になれないかと思っていたのです。

 けれども、それには、美里ちゃんとみやびちゃんとでは決定的な違いがありました。

 友達となった時間と、友情の深さです。

 美里ちゃんは、高校生になって初めてできた友達であり、一年生の頃はよく一緒に行動していました。一方のみやびちゃんは、三年生になってからの友達です。しかも、ずっと一緒にいるわけではなく、時々話す程度の友達なのです。

 陽はその後、ついにみやびちゃんと話すことなく卒業を迎えることとなりました。


「ハッチ、卒業おめだとう!」

「ほのちゃんも、卒業おめでとう!」

 高校三年間だけでもいろんな友達ができました。みんな、それぞれに良い人たちばかりでした。けれども、その中にあって、親友と呼べるのはほのかちゃんだけです。

「そして、第一志望突破、おめでとう!」

「ほのちゃんもね! おめでとう!」

 陽もほのかちゃんも、今年の春から第一志望の四年制大学に通うことが決まっていました。

「別々になっちゃうけれど、メールしてね」

「うん! あ、そうだ。エイミーから手紙が届いたんだよ」

「エイミーから? なんて?」

「エイミーね、大学で彼氏ができたんだって! 喜んでいたよ」

「そうなんだ! いいなあ。どんな人なんだろうね」

「ふふふ。今度聞いてみるね」

「うん。聞いたら教えてね。また、絶対に会おうね」

 陽とほのかちゃんは手を取り合い、そしてぎゅっと抱きしめ合いました。

 途端に、三年間のいろんな思い出が込み上げてきます。

 視界がぼやけました。

 けれども、滴となって溢れ出すことだけは、なんとか堪えます。

 ほのかちゃんが手を振りました。陽は、ほのかちゃんに負けないほど、大きく手を振ります。そして、

「またね!」

 そう言うと、これ以上ないほどの満面の笑みを湛えながら、陽は新たな道に向かって一歩を踏み出したのでした。

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