第6話 命を繋ぐ
三年生の春、陽のもとに、オーストラリアに帰国したエイミーから手紙が届きました。
陽は、胸を躍らせながら封を切ります。そして、辞書を片手に読み始めたのですが、読み進めれば進めるほどに陽の表情は暗く沈んでいきました。
エイミーからの手紙には、オーストラリアでは同性婚がついに認められたと綴られていたのです。
エイミーはそれに対し、「我が国もひとつ前進した」というような、とても前向きな感想を述べていました。けれども、陽の心は、どうにも腑に落ちない感情に満たされていたのでした。
『世界が認めようとも……か』
陽の脳裏に、遊園地で見かけた男性の言葉が蘇ってきました。
『世界が認めようとも、神様は認めていない……』
男性は、そう言っていました。陽はその言葉に、妙に納得がいったことを憶えています。
神様は、きっと、世界の大勢に従うものではないのです。世界こそが、神様に従うものでなければいけないのです。なぜなら、世界も、この地球も、人類すらも、神様の創造されたものであるからです。神様が、よりよくなるように、より美しくなるように、より豊かになるようにと願われて創られたものであるからです。
そして、男女を創られた神様が、同性愛を認めることはないでしょう。
「これは、現代病ね」
ふと顔を上げると、お母さんがテレビを観ながらつぶやいていました。陽もそちらに目を向けます。そこには、同性婚が認められたことに湧くオーストラリアの同性愛者たちが映し出せれていたのです。
「……現代病?」
「同性愛がこれほどまでに騒がれるようになったのって、ここ数十年のことだと思うのよね。昔も一部にはそういう人たちがいたとは思うけれど、国として認めてしまうほどたくさんいた時代は、それほどないのじゃないかしら」
「エイミーもね、手紙でそのことに触れているよ」
「そういえば、エイミーの母国はオーストラリアだったわね」
「うん。エイミーはね、これは前進だって書いているの」
「……前進、ね」
「エイミーは、世界の常識に近づいたと思っているみたい」
お母さんは苦笑します。
「それが世界の常識になったら、世界は滅んじゃうわね」
「ねえ、お母さん。隣のお姉さんたちのこと、知っている?」
そう尋ねられ、陽の言いたいことを察したように、お母さんはまたも苦笑をこぼしました。
「ええ」
「はるかさんと菜々緒さんも、その現代病にかかっちゃっているってことなのかなあ」
「そうね。きっと、そう長くは続かないと思うわ」
「そのうち別れるかもしれないってこと?」
「お隣のことはわからないわ。そうじゃなくて、同性愛とか同性婚とか、そういうの。長続きするとは思えないもの」
「病気、だから?」
「そうね。それに、こんな状況を長くお許しになるわけがないと思うのよ」
陽は顔を上げます。その目は、「誰が?」と語っているようでした。
「神様が、ね」
首を傾げる陽の表情がおかしかったのか、お母さんは笑って答えました。
「神様は、きっとお認めにはならないから」
「……どうして? 同性で好きになることは、なんでいけないの?」
「好きにもいろいろあるけれど、結婚したいなって思う相手は異性じゃないといけないと思うのよ。人には、命を繋ぐという使命があるからね」
「命を、繋ぐ……?」
「昔ね、お母さんが言っていたの」
「お母さん……? あ、おばあちゃんのこと?」
「そうよ。この世にはね、みんな修行のために生まれ変わって来ているんだって。みんな、一人びとりがね、それぞれに問題集を持っていて、魂を今よりも輝かせるためにこの世で修行しているのだと言っていたわ」
「へえ……」
「使命は人それぞれだけれど、ほとんどの人に共通した使命があるの。それが、命を繋ぐということ。だから、その使命から逃れようとする今の風潮を、神様がお許しになるはずがないのよ」
「おばあちゃん、そんなこと言っていたんだね」
「陽のお父さんが亡くなった時にね」
「……お父さん……?」
「陽はまだまだ小さかったからね。幼い陽を抱えて、これからどうしようかなって悩んだ時期もあったのよ」
そう笑って話すお母さんの言葉を、陽はとても意外な思いで聞いていました。
『お母さんも、そんなふうに悩むことがあるんだ……』
当然と言えば当然でしょう。お母さんは、陽よりもずっとずっと長く生きているのです。けれども、陽にとっては、やはり意外でした。お母さんが何かに思い悩んでいる姿を、一度だって見たことがなかったからです。
一方の陽はといえば、常日頃からあらゆることに心を動かしています。よく壁にぶつかっては、そのたびに悩んでいます。それを解決に導いてくれるのが、たいていお母さんからの言葉なのでした。
「おばあちゃんがね、解けない問題集はないって言ったのよ」
「……」
「人は生まれてくる前に、みんな一冊の問題集を持って来るらしいの。人生の途中で出遭うさまざまなトラブルは、たいていがその人の魂を磨くために用意されている問題なんですって。そして、神様は解けない問題は出題しないそうよ」
「……解けない問題は、ない……」
「それを聞いたらね、なんか吹っ切れちゃった。いつまでも落ち込んでいたらだめ、強く生きないとってね、勇気が湧いてきたのよ」
お母さんの言葉を聞きながら、陽の胸は温かくなりました。それと同時に、さまざまな思いが渦を巻き始めたのです。
はるかさんと菜々緒さんのこと、遊園地での男性の言葉、同性婚が認められたというニュースの内容、それからエイミーの手紙……。
陽は、複雑な面持ちでエイミーからの手紙に視線を落としました。そして、思い出したかのように、その続きを読み始めたのです。
「聞いてよお。昨日の夜さあ、彼氏とセックスしてたらオヤジに見られちゃってえ」
登校してくるなり声を上げたクラスメイトに、陽はぎょっとして目を向けました。
「ええ? どこでしてたの?」
話しかけられたクラスメイトは、それに対して平然と言葉を返しています。
「近所の公園だよ」
「そんなところで? やばいじゃん!」
きゃはははという笑い声を聞きながら、陽には何がおかしいのかまったくわかりません。会話の内容に反射的に彼女たちを見てしまった陽ですが、あまり見ていてもいけないような気になって目を背けようとしました。
「……えっ?」
思わず、再び彼女たちをまじまじと見つめてしまいます。
「なに?」
「オカアサンも興味あるの?」
目が合ってしまいました。彼女たちがにやにやと厭らしい笑みを浮かべて、陽を見ています。特に仲が良いわけではないのですが、クラスの中心人物であるりんちゃんの影響で、陽はほとんどのクラスメイトに「お母さん」と呼ばれていました。
「ええ? オカアサンが? マジで? 意外なんだけどお」
「もしかして、オカアサンってムッツリ?」
かあっと一気に顔が熱くなるのを感じ、
「……違うよ!」
思わず大声を上げてしまいました。すると、彼女たちは先程以上のテンションできゃはははと笑うので、陽は今度こそ彼女たちに完全に背を向け、机に突っ伏します。
『……熱い……』
陽は頬に手を当てながら思いました。それは、彼女たちの話す内容に対する恥かしさのためでもあるでしょう。また、自分がその話に興味を示したと思われたことに対する怒りのためでもあったかもしれません。けれども、それだけでもないのです。
陽は、見てしまったのです。
……見えてしまったのです。
『……あれは、なに? あれは、人じゃない。人の顔じゃなかった。あれは……あの動物は……』
ふと、顔を上げました。
『……犬だ』
ようやく納得のいく回答に行きついた陽は、そっと自らの頬に手を当てました。もう、そこに先程までのような熱は感じられません。
『あの子の顔、犬みたいだった……』
公園でセックスをしたと語っていたクラスメイトの顔……。陽には、一瞬だけ、彼女の顔と犬の顔とが重なって見えたのです。
『だって、彼氏と彼女でしょ? 恋愛に、それは、つきもの……なんじゃないのかな……』
公園っていう場所がいけなかったのかなあなどと考えていると、始業のチャイムが鳴り、ほどなくして先生が教室に入って来ました。
陽のクラスには、「お嬢」というあだ名の生徒がいます。
長くてストレートな髪の中央には、いつも大きなリボンの髪飾りをつけています。そのことから、彼女のことを「リボンちゃん」と呼ぶ人もいました。
けれども、「お嬢」であれ「リボンちゃん」であれ、それが親しみを込めて呼ばれているものでないことには、陽も気づいています。
「ねえ、知っている? あの子、社長令嬢らしいんだよ」
「時々、リムジンで送り迎えされているよね」
「でも、変なの。修学旅行、あの子来なかったよね?」
「本当はお金ないんじゃない?」
「リムジンだって、ただの見栄なんじゃない?」
陽は、三年生になって初めて彼女と同じクラスになりましたが、彼女は学年でも有名なようです。しかし、良い話はほとんどなく、耳にした噂はどれも彼女を蔑むものばかりでした。
『噂や見た目で判断したら、だめだよね』
真尋ちゃんの言葉がよみがえります。あの時は、噂なんてあてにならないなあと、そう思ったことを憶えています。
けれども、見ていると、彼女には友達と呼べる人が本当に誰もいないようです。
『……寂しいのかなあ……』
そんなことを思っていると、彼女と目が合いました。
『あ……』
嫌な予感が一気に押し寄せてきます。彼女は、まるで獲物を見つけた蛇のように目を細めると、つかつかとこちらに向かって歩いて来たのです。
「陽ちゃん」
ぴんと、糸を張り詰めたような声に緊張が走ります。
「あ、えっと……」
名前を呼ばれたからには名前を呼び返したいと思うのですが、咄嗟のことに彼女の名前が出てきません。
『あ……なんだっけ? お嬢、ちゃんはおかしいし……。えっと……』
「みやび」
陽の心を知ってか、教えてくれたみやびちゃんに陽は微笑みかけました。
「あ、そうだったね。みやびちゃんって、なんかお嬢様みたいな名前だね」
みやびちゃんは、目をさらに細め、口の端を持ち上げます。
「うん。うちのパパ、社長だもの」
「あ……そう、らしいね」
「うん、そうよ」
会話が終わってしまい、陽は少しばかり焦りました。
『……話しかけてきたのは、みやびちゃんだよね……?』
話の核心が見えずに重い沈黙に耐えていると、
「私、彼氏ができたの」
と、突然に何の脈絡もない話が飛び出してきました。
「あ、そうなんだ。良かったね」
当たり障りのない言葉で祝福すると、みやびちゃんはまたも目を細め、口角を上げ、
「ええ、そうでしょう?」
と抑揚のない言葉を紡ぎます。そして、再び沈黙に襲われました。
「彼、大学生なの」
これで話は終わりかと思いきや、まだ続けるつもりのようです。
「……そうなんだ」
「そう。年上なのよ」
「……へえ」
「包容力があるのよ」
「あ……大人、なんだね」
「ええ、そうなの。彼からしたら、同じ歳の子なんてみんな子供だわ」
そして、沈黙が流れます。
「彼、頭もいいの。医学部に入っているの」
「……そう、なんだ」
「将来は医者よ」
「すごいね……」
「結婚したらパパの会社を継いでもらいたいけれど、彼が医者になりたいならそれも仕方ないかなって思っているの」
陽は、咄嗟に自分の頬を抓りました。顔が引きつっていくのがわかったからです。けれども、幸か不幸か、みやびちゃんには気づかれていないようでした。
「結婚なんて、そこまで考えているんだね」
「もちろんよ。パパがね、付き合うなら真剣に付き合いなさいって言うの。私と付き合うなら、結婚前提じゃないとね」
「へえ……」
「だから、私は彼を助けてあげているの」
「……助ける?」
「そうよ。医者って、なるまでにはお金がかかるらしいの。だから、今は私が彼を支えてあげているの」
「え……支えるって……」
――どうやって……? そう尋ねようとした時、次の授業の開始を知らせるチャイムが教室中に鳴り響いたのでした。




