第5話 神様の決めごと
三学期が終わる頃、エイミーはオーストラリアへと帰って行きました。
「ハッチ、それどうしたの?」
隣からほのかちゃんが声をかけます。どうやら、陽の手の中にある封筒を見ているようです。
「エイミーからもらったの」
「手紙?」
「うん」
「何て書いてあるの? 読んだ?」
「まだだよ。だって、英語なんだもの」
「英語?」
「あとで調べて読むよ」
「そっか。でも、返事は書けないね」
「あ、それは大丈夫だよ。住所ね、教えてもらったから」
「え、書くの? エアメール?」
「うん!」
そう答えると、陽はエイミーからの手紙を胸に引き寄せ、優しく抱きしめたのでした。
エイミーが帰国して間もなく、陽は思いも寄らない光景を目にしました。
それは、陽がいつものように学校へ行こうとして家を出た朝のことです。
隣の家の前を通りかかった時、隣人が二人で庭に出ていました。陽は、挨拶をしようと口を開きます。しかし、声を出すことはできませんでした。なぜなら、隣人は体を寄せ合い、抱きしめ合って、互いに唇を合わせ始めたからです。
もちろん、隣人は二人とも女性です。
何度も会って言葉をかわしている陽が、見間違うはずはありません。
驚きのあまり立ち止まって凝視していると、隣人のうちの一人と目が合ってしまいました。
「あら、陽ちゃん。今から学校なの?」
髪の長い女性が声をかけてきました。あまりにも自然な会話に陽の方が驚いていると、
「もしかして、吃驚させちゃったかしら」
と申し訳なさそうに言ってきたので、
「いえ……」
とだけ返しました。この時の陽には、これが精一杯の対応だったのです。
「どうしたの、陽?」
朝からどこか元気のない陽を心配するように、美菜子ちゃんが声をかけてきました。
「具合でも悪いの?」
「そんなこと、ないよ」
「ふうん」
「本当になんでもないの。……えっ、星!?」
陽は、美菜子ちゃんからの手紙をまじまじと見つめています。
「うん」
「なにこれ! すごい!」
「今回は、だいぶ難しいよ」
「やってみるね」
「うん。わからなかったら、聞いてね」
「大丈夫だよ! きっと折れるようになるから」
「うふふ。わかった。ねえ、ところで、陽。次の休日なんだけれど、予定ある?」
「特にないよ。なんで?」
「なら、これに行かない?」
そう言って美菜子ちゃんが鞄から取り出したのは、遊園地のチケットでした。
「あ、それ。この間オープンしたばかりのところだよね。どうしたの、それ?」
「お母さんがね、福引で当てたみたいなの」
「へえ。お母さん、くじ運いいんだね」
「うん。それでね、お母さんが陽と行ってきたらってくれたの」
「そうなの?」
「だから、一緒に行かない? オープンしたばかりだし、週末だし、たぶん混むとは思うんだけれど」
「ポスターを見たよ。広々としていて、綺麗だなって思っていたの。一緒に行ってもいいの?」
「もちろん! じゃあ、決まりね」
こうして、二人は週末に遊園地へと行く約束をかわしたのでした。
「わあ! 広そうだね」
「やっぱり、人が多いね」
約束の週末、陽と美菜子ちゃんは遊園地に来ていました。まだ開園前だというのに、ゲート付近は人でひしめき合っています。
「親子連れが多いね」
「カップルも結構いるよ」
美菜子ちゃんの言葉に辺りを見回すと、確かにそれらしい組み合わせが多いことに気づきます。
「ここね、ジェットコースターとお化け屋敷が目玉なんだよ」
「絶叫系が目玉なの?」
絶叫系があまり得意ではない陽は、思わず肩をすくめました。
「うん! でもね、お化け屋敷は、ただ怖いだけじゃないの」
「どういうこと?」
「恋人同士の愛を確かめ合える仕様になっているみたい」
「なに、それ?」
「さあ? よくはわからないけれど、お化け屋敷を出るまで、男の人が女の人を守り通せたら愛が証明されたことになるんだって。パンフレットに書いてあったよ」
「ふうん。中で、そういうイベントが起こるっていうことなのかな」
「たぶん、そうなんじゃない?」
「それ、友達同士で入ったらどうなるの?」
「さあ? 入ってみる?」
「どうしようかな。まずは、いろいろ見て回ってから考えよう」
「そうだね」
そう話すうちに、開園時間になりました。
ゲートが開かれます。
待っていた人々は、まるで水を得た魚のように、勢いよく遊園地の中に吸い込まれて行くようでした。
「あ、ジェットコースターだ! 大きいねえ」
園内に入るなり、美菜子ちゃんが声を張り上げます。美菜子ちゃんは絶叫系のアトラクションが大好きなのです。
「……あれ、回転しているよ」
「うん! しかも、うしろ向きに走っているね」
おどろおどろしいものを見るように語る陽とは対照的に、美菜子ちゃんは瞳をきらきらと輝かせています。
「ねえ、美菜子。もしかして、あれに乗りたいの?」
「今はいいよ。だって、絶対に並んでいるもの」
「今は」という言葉に、少しばかり陽の表情は強張りました。
「あ、美菜子。観覧車に乗らない?」
「観覧車?」
「観覧車に乗って、上から園内を見渡してみようよ」
「……まあ、観覧車なら空いているかもね」
陽と美菜子ちゃんは、手始めに観覧車乗り場を目指しました。
「次はどうする?」
観覧車は比較的空いていました。並んでいる人のほとんどが、小さな子連れの家族かデート中のカップルだったのです。そして、絶叫系が好きな美菜子ちゃんにとっては、十五分もかかってゆっくりと動く箱の中に閉じ込められているというのは、だいぶ退屈だったようでした。
「……いいよ、美菜子の好きなところに行こう」
「本当に?」
陽がなかば諦めたように肩を下ろすと、美菜子ちゃんは顔を輝かせて辺りをきょろきょろと見回します。
「陽、あれにしよう!」
何かを見つけたらしい美菜子ちゃんが、陽の手をつかんで走り出しました。陽は、なかば引きずられるようにして、美菜子ちゃんのあとを追って走ります。
「……美菜子、待って」
「え、なに?」
「ちょっと、待って。どこに行くの?」
「あれだよ!」
美菜子ちゃんが指差した方には、ジェットコースターがありました。
「あれ、乗るの?」
「うん!」
「で、でも、ちょっと待ってったら」
「え? だって、好きなところに行っていいって言ったでしょ?」
「う、うん、いいよ」
「なら……」
「いいけど、もう少しゆっくり行こうよ」
元気いっぱいな美菜子ちゃんとは対照的に、陽は、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しています。それに気づいた美菜子ちゃんは、ようやく立ち止まりました。
「陽、大丈夫?」
「……うん」
「もう息が切れたの?」
「最近、運動不足だから」
中学生の頃はテニス部に所属していた陽ですが、高校生になってからは特に決まった部活に所属していませんでした。いわゆる、帰宅部員だったのです。
「ごめん、陽。ちょっと急ぎすぎちゃったね」
二人は、歩いてジェットコースターまで向かうことにしました。
「あ、ここだよ。目玉のひとつ」
その途中、長蛇の列を築いているアトラクションが目につきました。
「うわあ、雰囲気あるね」
列は、西洋風の墓地の間をずっと先まで伸びて、長い蔦の張った黒い洋館の中まで続いていました。
「ここがお化け屋敷?」
陽の問いかけにうなずくと、美菜子ちゃんは目を輝かせて、
「あとで来ようね」
と言うので、陽はこくりとうなずきました。陽としては、ジェットコースターよりはお化け屋敷の方が、まだ耐えられるような気がしていたのです。
「あ……」
「え、何?」
列を眺めていた陽の目が、ある一点で止まりました。それを不審に思った美菜子ちゃんが、陽の視線を追って目を向けます。すると、
「あら、陽ちゃん」
列の中の一人に声をかけられました。それをきっかけとして、その近くにいた数人が陽たちに視線を送ります。
「やあ、陽ちゃんも来ていたんだね」
「あ、お隣の……」
陽に声をかけてきたのは、隣の家に住んでいるはるかさんと菜々緒さんでした。二人の隣には、見たことのない男性と女性がいます。陽が会釈をすると、その二人も返してくれました。
「私たち、同じ大学に通っているんだ。この間ね、ようやくレポートを書き上げたから、みんなで息抜きしようってことになってさ。四人で遊びに来たんだよ」
そう語るはるかさんの腕に、菜々緒さんがしがみつきます。
「そうなの。ダブルデートをしましょうってことになったのよね」
「あ、そうなんですか……」
「もしかして、陽ちゃんたちもデートかな?」
はるかさんの突拍子もない言葉に、陽は大げさなまでに首を振りました。
「いえ! 違いますよ!」
すると、菜々緒さんがくすくすと笑い、
「はるか、よしなさいよ」
とはるかさんを諫めます。
「ごめんなさいね、陽ちゃん。はるかったら、ほんの冗談のつもりなのよ」
「あ、冗談……」
「そう。からかっているだけなの。ごめんね」
「いえ……」
そう返したものの、この時の陽は、なぜだか無性にいたたまれない気持ちになっていました。
「陽……?」
不思議そうにこちらをうかがっている美菜子ちゃんを見て、無意識のうちに美菜子ちゃんの袖口を握り締めていたことに気づいた陽は、
「……行こうか」
と美菜子ちゃんに一声かけると、軽くお辞儀をして、美菜子ちゃんの手を引きながら足早にその場を離れたのです。
「ねえ、ダブルデートってどういう意味かな?」
美菜子ちゃんの問いかけに、陽は立ち止まりました。そして、振り返ります。
その時、グループの中のただ一人の男性と菜々緒さんが、とても仲良さそうに話をしている様子が見えました。
『あ……』
陽は、目を背けます。
しばらくして、再びそちらに目を向けると、それは、やはりはっきりと見えています。
『望遠鏡もなく、こんなにはっきり見えるのは初めてかも……』
はるかさんと、その友人の女性の頭上に、靄がかかっているのが見えました。
それは、おそらく「嫉妬」のためです。
陽は、これまでの経験から、靄が見えるということは、そこに強い念いがあるからだと気づいたのです。
陽が見てきた靄は、大体が灰色か黒色をしていました。黒色の中にも、赤が混ざったり紫が混ざったりすることがありますが、その色が念いの方向性を示しているのではないかと、陽は考えました。そして、その濃度と広がり方により、念いの深さを知ることができると思ったのです。
灰色の靄は、日常に溢れています。黒色の靄は、満たされない思いに満ちている人に現れるようです。
黒い靄を放置しておくと、良くないモノを呼び寄せてしまうということも知りました。そして、呼び寄せられたモノが靄の中に入り込むと、靄の中の暗い念いを餌に、靄を増幅させるのです。
そうなってしまうと、周りの人が心配して忠告したとした言葉であっても、その人には曲がって聞こえるようになるようです。
悪は善に、善は悪に……。
そう映るようになってしまった人を正しい方向に導くのは、困難です。
たまに、靄の代わりに白い光をまとっている人を見かけることもあります。この場合も、濃度や広がりによって念いに差があるようです。
けれども、靄と違うこととしては、白い光を放つ人の傍に行くと、心がぽかぽかとして温かくなるということです。
今、陽の目の前に現れている靄は、これまでに見たことのない色をしていました。
はるかさんの頭上には濃い紫色の靄がかかり、友人の女性の頭上には、白い光の中に赤みがかった靄が薄く見え隠れしているのです。
紫は「嫉妬」の色。赤は「怒り」の色。
陽に、はそういう認識がありました。
『二人とも、たぶん嫉妬しているんだよね。菜々緒さんと男の人が話しているから。恋人を取られたような気になって……。なのに、どうしてかな……』
同じ「嫉妬」なのに、なぜ見えている色が違うのでしょう。黙り込んだ陽を見て、
「どうしたの?」
美菜子ちゃんが心配そうに声をかけます。
「あ、ごめん……」
一瞬、美菜子ちゃんの存在を忘れてしまっていたことに気づき、陽は振り返って謝りました。その時です。怒声が上がりました。
驚いて振り向くと、お化け屋敷の方がざわついています。
「お前たちは、いったい何を考えているんだ?」
はるかさんたちのすぐうしろに並んでいた初老の男性が、怒鳴っています。その視線の先には、はるかさんたちがいました。
「あれ、陽の知り合いでしょ? 何があったんだろう」
美菜子ちゃんの言葉に、陽も心配になりました。けれども、陽に何かができるとも思えず、この時は、ただ遠くからことの成り行きを見守ることにしたのです。
「お前たち、女だろう? 女同士でベタベタと……」
初老の男性が言います。それに対し、はるかさんが反論しました。
「女同士だから何だって言うんです? 私たちは、ちゃんと愛し合っているんですよ」
「愛だと?」
「失礼ですが、古い考えだと思いますよ」
「なに?」
「今時、男女でないと恋愛してはいけないなんて古すぎます。そんなこと、いったい誰が決めたんですか? 相手を好きになることに、男も女も関係ないでしょう」
「関係あるだろう。そんなことが許されては、人類が滅ぶぞ」
「では、あなたは、人類のために私たちに犠牲になれと言うんですか?」
「何を言っているんだ。お前たちが、今、こうして生きていられるのはどうしてだか考えたことはあるのか。ご両親がいたからだろう? 親御さんに感謝しているなら、そんな自分勝手な行動はとれないはずだ」
「私たちが付き合っていることが、親に感謝していないということにはならないでしょう。親はただ、たまたまストレートだったというだけですよ。それに、世界的に行っても、同性婚は認められつつあるんです」
「嘆かわしい」
初老の男性は、深いため息とともに項垂れました。
「今、お前たちのような同性愛が流行っているのは知っている。これは、心の病気だ。お前たちは、今、病に冒されているだけだ。早く目を覚ませと言っているんだ」
「病気だって? 随分な言い草じゃないか。だから、これは世界的にも認められてきているんだって……」
「世界が認めようとも、神が認めておらん!」
ひと際大きな声に、辺りは一瞬にして静かになりました。
「男女でないと恋愛してはいけないなど、いったい誰が決めたのかと言ったな。神様だよ。男女を創造された、神様が決めたんだよ」
話を聞いていた陽は、長い間喉に突っかかっていたものが、やっと胃の中に下って行くような気分になりました。
この時、陽はようやく得心がいったのです。
『同じ嫉妬でも色が違ったのは、そういうことだったんだ……』
同性愛者であるはるかさんと、異性愛者である友人の女性とでは、靄の色に違いがありました。
『普通の恋人同士なら、多少の嫉妬は神様にも認められているっていうことなのかな』
「ねえ、陽」
考えに耽っている陽を、美菜子ちゃんが現実に引き戻します。
「あの人たちって、もしかして……レズなの?」
言うつもりのなかった事実を知られてしまい、陽はなんとも言えない苦笑いを浮かべました。
「うん……そう、みたいだね」
それだけを告げると、美菜子ちゃんも察したようで、
「……それじゃあ、行こうか」
と陽を促します。必要以上に踏み込んでこない美菜子ちゃんの優しさを感じ、陽はにこりと笑いました。すると、美菜子ちゃんもにこりと笑い返してくれます。
二人は手をつなぐと、ジェットコースターを目指して仲良く歩き出したのでした。




