第1話 女の子と白猫と野良犬
片翼の紳士からもらった望遠鏡を使う機会は、すぐに訪れました。
「あ、ねこちゃん!」
一匹の白猫が目の前を走り去っていきます。それを見た女の子は、追いかけるように川原をあとにしました。
「ねこちゃん」
白猫は、ついてくる女の子を警戒するように耳を立てながら走り続けます。
「まって」
もちろん、待つ気配はありません。疲れて息の上がってきた女の子が、
「まってったら!」
と勢いよく目の前の尻尾をつかんだ時、
「ぎにゃあ!」
というけたたましい叫び声を上げた白猫に、右手の甲を引っかかれてしまいました。赤い筋が三本、女の子の白い肌にくっきりと浮かび上がります。
「うわあん!」
大泣きする女の子を尻目に、白猫は急ぎ足で去っていきました。
「うわあん! どうしてえっ?」
女の子は、痛さとびっくりしたのとで、大声を上げて泣き続けました。
女の子には、どうしてもわからなかったのです。白猫が、あんなにも怒りをむき出しにした理由が。
「どうしてえっ?」
女の子は虚空に問いかけます。
「なでたかったのにい!」
そうです。女の子はただ、白猫を撫でてやりたかっただけだったのです。
いつまでも泣き続ける女の子。
ふと、その胸が白い光を放ち出しました。そして、光は見る間に形をとりはじめます。
女の子の胸から突き出るように現れたのは、片翼の紳士からもらった、長い長い望遠鏡でした。
望遠鏡は、どんどんどんどん伸びていって、ついにレンズの先は地平線の向こうに隠れてしまいました。
女の子は、突然現れた望遠鏡を不思議に思いながらも、目の前のレンズに目をあてました。すると、これまた不思議なことに、レンズの向こうには先程の白猫の姿が映し出されたのです。
「ねこちゃん!」
女の子は、びっくりしながらも手を伸ばします。ですが、もちろん白猫には届きません。また、望遠鏡を目から離せば、白猫は見えなくなりました。首を傾げつつ再びのぞくと、そこには先程と変わらない白猫の姿があったのです。
「ねこちゃん」
呼びかけますが、女の子の声は届いていないようでした。
「あれ? なにかをさがしているみたい」
それまでは気がつきませんでしたが、こうして遠いところから観察してみると、確かに白猫は何かを探しているように見えます。その時です。
『どこにいるの?』
女の子は顔を上げました。辺りを見回しますが、誰もいません。
「だあれ?」
呼びかけてみても、何の反応もありませんでした。
「へんなの」
そうつぶやきながら、もう一度望遠鏡をのぞき込みます。
『出てきてちょうだい』
気のせいなどではありません。確かに声が聞こえます。それも、すぐ近くから聞こえてくるのです。けれども、顔を上げて辺りを見渡しても、女の子の他には誰もいませんでした。そして、再び望遠鏡をのぞいた女の子は、あることに気がついたのです。
猫です。
白猫の口元が動くたびに、耳元で……いえ、心に直接響くように声が聞こえてくるのでした。
注意深く観察していると、また白猫の口元がもごもごと動きました。
『お願い、出てきて。私の子供たち』
「こねこだ!」
女の子は思いました。先程の白猫は母猫で、きっと子猫とはぐれてしまったのでしょう。
「……ねこちゃん」
涙がひとつ、女の子の頬を流れました。
あとからあとから、とめどなく流れていく涙。女の子は、泣きながら思い出していました。
「……おかあさん……っ」
そうなのです。
女の子もまた、子猫と同じ、迷子だったのでした。
女の子は、子猫を探す母猫を見てお母さんのことを思い出したのです。
「ねこちゃん……」
ずきりと、右手の甲が痛みました。白猫にひっかかれた傷です。それを見つめながら、女の子はまた涙を流しました。
「ねこちゃん……はやく、みつけてあげてよお」
女の子は、わあわあ泣きながら走り出しました。
その間も望遠鏡は手放しません。時折立ち止まっては望遠鏡をのぞき込み、望遠鏡をしばらくのぞいていたかと思うとまた走り出します。
そして、ついに、
「ねこちゃあん!」
女の子は、白猫を見つけました。
一瞬、ちらりとこちらを見た白猫ですが、すぐにすたすたと駆け出してしまいました。
「まって!」
女の子も走ります。けれども、白猫は構うことなく先を急ぎます。
「まってよ!」
ずっと走ってきた女の子は、力尽きたようにその場に膝を着きました。
「まって……」
それでも、女の子は白猫に声をかけ続けます。
「……いっしょに、さがしてあげるから……」
――聞こえたのでしょうか。
女の子がそう言った時、白猫が踵を返してこちらに向かってきました。そして、それまでまるで無関心だった白猫が、女の子の目の前で止まり、こちらをじっと見つめています。
「ねこちゃん、こねことはぐれちゃったんでしょ?」
こくり、とうなずいたように見えました。
「いっしょにさがそう」
すると、白猫は背を向け、すたすたと歩き出します。途中、立ち止まっては振り返り、また歩き出すという動作を繰り返しました。そのしぐさは、まるで「ついてこい」と言っているかのようです。
「ねこちゃんはあっちね。あたしはこっちをさがすから」
その言葉に従うように、白猫は女の子の指し示した方向である、道の左側を探すように歩き出しました。
「こねこちゃあん」
道の右側を探しながら、女の子は子猫を呼び続けています。ひとつ目の道が終わり、ふたつ目、そしてみっつ先の道まで行きました。けれども子猫はいません。
「ねえ、ねこちゃん。こっちでいいんだよね?」
尋ねながら振り返った時です。左側の道を探しているとばかり思っていた白猫の姿は、どこにもありませんでした。
「ねこちゃん?」
呼びながら辺りをきょろきょろと見渡します。
「どこにいったの?」
猛烈な不安が女の子を襲います。
「ねえ! ねこちゃあん!」
半泣きになりながら叫んだ時です。猫の叫び声が聞こえました。
尋常ではない様子の声に、女の子は涙を引っ込めて白猫の姿を探します。そして、すぐそばの曲がり角を曲がった時、そこに白猫を見つけました。
白猫は、全身の毛を逆立てています。その目の前には、白猫よりも三倍ほども大きな野良犬が立っていました。全身を黒い毛に覆われており、その目だけがぎらりと光っています。唸り声を上げる口元からは、鋭い牙がのぞいていました。
女の子は、震える足を引きずるように、一歩、また一歩と後ずさります。白猫を見つけた喜びよりも、自分よりも大きな野良犬への恐怖心の方が勝ったためです。
後ずさりながら曲がり角を曲がり、来た道を戻ろうとした……その時でした。
白猫が再び叫び声を上げたのです。
白猫は、自分よりもはるかに大きな野良犬に対して、果敢に挑もうとしているようでした。
女の子は、足を止めて白猫を見つめます。そこで、あることに気がつきました。それは、野良犬の後ろにいる存在です。
小さな二匹の猫が、白猫と野良犬の様子をうかがうように視線を動かしていました。そのうちの一匹は、白猫によく似ています。
「もしかして……」
女の子は、胸に手を当てました。すると、白い光とともに望遠鏡が伸びてきます。女の子がそれをのぞき込むと、
『その子たちから離れて!』
白猫の叫びに合わせるように声が聞こえてきました。
野良犬が唸ります。
『なんだ、お前は』
そんな白猫と野良犬を、二匹の子猫はただ眺めていました。
『喧嘩を売っているのか?』
凄みながら、野良犬が一歩つめ寄りました。
『その子たちをどうしようというの? その子たちから離れて!』
白猫はその場から一歩も動かず、負けじと言い返します。
「あ……」
思わず声が漏れました。子猫たちが、一歩ずつ前に踏み出してきたからです。
それは、まるで野良犬の真似をしているかのように女の子には見えました。
「……まって!」
手を離すと、光の筋となった望遠鏡が、女の子の胸の中に吸い込まれるように収まりました。
女の子は駆け出します。
そして、勇敢にも、白猫と野良犬とが対峙しているところへと飛び込んだのです。
「だめ! まってえ!」
よほどびっくりしたのでしょう。睨み合うのも忘れたように、白猫と野良犬が一斉に女の子の方を振り向きました。
「まって、ねこちゃん、ちがうの!」
女の子は白猫に懸命に話しかけます。
「ね? そうでしょう? わんちゃん」
野良犬にも語りかけます。
「わんちゃんは、こねこをいじめていたんじゃないのよ」
通じたのでしょうか。白猫は、先程よりも落ち着いた様子で女の子の次の言葉を待っています。
「ねこちゃんとはぐれちゃったこねことね、わんちゃんはいっしょにいてくれたの。ね? そうでしょ?」
野良犬は、まるで照れくさいとでも言うように、ふいっとそっぽを向きました。子猫たちは、そんな野良犬の太くて頑丈そうな足に頬ずりをしています。
子猫たちのそんな姿を見た白猫は、耳を垂れさせ、肩をすぼませた様子で野良犬に歩み寄りました。そして、その場に行儀よく座ります。それは、まるで正座でもして謝っているかのようでした。
うつむいている白猫の顔に、野良犬が鼻をすりつけます。望遠鏡をのぞかなくても、女の子にはなんとなく伝わりました。今回、白猫の勘違いから喧嘩になってしまいましたが、そんな彼女を野良犬は快く許してあげたのです。
「よかったね、ねこちゃん」
女の子がにこりと笑うと、白猫がこちらに向かって歩いてきました。
「え、なに?」
疲れてへたり込んでいた女の子は、動くこともなく、その大きな目だけをぱちくりとさせていました。そんな女の子の周りをぐるりと回ったあと、白猫は女の子に体を擦りつけます。
ぴりりとした痛みが走りました。
驚いて見ると、白猫が女の子の右手の甲を懸命に舐めていたのです。そこは、先程、白猫に引っかかれたところでした。
「うん、いいよ」
女の子は言います。
「もうだいじょうぶだよ」
そう言って白猫の頭を撫でてやると、白猫はにゃあとひと声鳴いて女の子に背を向けました。そして、子猫を引き連れて去っていきます。野良犬も、別の方向に歩いて行きました。
それぞれの後ろ姿を見つめながら、女の子はまた一人ぼっちになってしまいました。再び、もの悲しい気持ちが胸をしめつけます。知らず知らず、忘れていた涙が込み上げてきました。
その時です。
「陽ちゃん!」
ぱっと顔を上げました。すると、向こうの通りから、手を振りながら駆けてくる女の人の姿があるではありませんか。
「……ああっ!」
ひとつ叫び声を上げると、女の子も走り出しました。
「おかあさん!」
向こうからやってきたのは、女の子のお母さんでした。
「もう、急にいなくなっちゃって……。陽ちゃん、どこにいっていたの?」
きっとあちこち探したのでしょう。お母さんはひどく疲れた様子でした。そして、女の子はお母さんの足にしがみついて泣きじゃくります。
「おかあさん!」
そんな女の子の頭を、お母さんは優しく撫でてあげました。
「もうすぐ日が暮れるわよ。さあ、帰りましょう」
お母さんが女の子の右手を握りました。
「あら? 怪我したの?」
女の子の右手の甲を見ながら尋ねます。
「うん」
「猫にでも引っかかれた?」
「うん」
「まあ……痛かったでしょう?」
「うん」
「……どうしたの?」
お母さんが女の子の顔をのぞき込みました。
「なんだか嬉しそうね」
ふふふと、女の子が笑います。
「何かいいことでもあったの?」
また、ふふふと笑いました。そこで、お母さんも笑いました。
お母さんと女の子は、笑い合い、そして手を繋ぎ、沈む夕日を見つめながらおうちに帰って行ったのでした。