第3話 笑う巨大な靄
二学期が始まるとすぐに、陽のクラスに転入生がやってきました。
「前田ほのかです」
そう自己紹介をした彼女は、すらりと背が高く、一七〇センチ近くはあるだろうと思われました。
「よろしくお願いします」
そう言ってお辞儀をした時、セミロングの髪がばさりと顔にかかりましたが、彼女はそれを払おうともしません。ただ、目を伏せ、うつむいたままに先生の言葉を待っていました。
『暗い感じの子だな……』
それが、陽のほのかちゃんへの最初の印象でした。
「よし、それじゃあ、一ノ瀬の前の席に着きなさい」
先生に突然に名前を呼ばれ、陽はびくりと肩をはね上げます。その時、先生の指差した方向に目を向けていたほのかちゃんと、ばちりと目が合いました。
「一ノ瀬はこのクラスのホームルーム委員だからな。何か困ったことがあったら何でも聞くんだぞ」
先生の言葉にうなずくと、ほのかちゃんが陽の前の席に座ります。陽に軽くお辞儀をしながら。それを見て、陽も軽く頭を下げました。そして、にこりと笑いかけながら顔を上げた時、視線を感じたのです。
ちらりと目だけでそれを追うと、美里ちゃんがじっとこちらを見ていました。ただ、その視線が向けられているのは、陽ではありません。美里ちゃんは、陽の前の席に着いたほのかちゃんを見つめていたのです。不思議に思っていると、休み時間に入ってすぐに美里ちゃんが動きました。
「ほのかちゃん。中山美里だよ。よろしくね」
うしろの席の陽や隣の席の美穂ちゃん、前の席のりんちゃんよりも先に、まるで飛びつくように声をかけてきたので、周りのクラスメイトたちはみんな驚いてしまいました。ほのかちゃんもびっくりしたようで、
「よ……よろしくね」
とだけ、引き攣った顔で答えています。しかし、美里ちゃんはほのかちゃんの表情の変化には気づいていないようで、なおも変わらない調子で話し続けました。
「ねえ、どこの高校からきたの?」
「柴田にある高校だよ」
「女子高?」
「ううん。共学。公立だったから」
「え、いいなあ! 共学、いいじゃん。なんでわざわざ女子高にしたの?」
「え……うん、まあ……」
「せっかく公立に入ったのに、わざわざ私立に入り直すなんて。もしかして、ほのかちゃんの家ってお金持ちなの?」
「……そんなことはないよ。普通の家……」
「絶対普通じゃないよ! お金持ちじゃなかったら、そんなことできないもん。うちなら絶対無理だと思う」
美里ちゃんの質問責めに耐え切れなくなったのか、ほのかちゃんはついにうつむいてしまいました。そして、そのままくるりと陽の方を向くと、
「……一ノ瀬さんっていうの?」
と苦笑いを浮かべながら尋ねてきたのです。その目は、明らかに、横にいる美里ちゃんを見ないようにしようとしているようでした。
「うん。一ノ瀬陽っていうの。ほのかちゃん、よろしくね」
「うん、よろしくね」
それを皮切りとして、りんちゃんや美穂ちゃん、博美ちゃんなどが一斉にほのかちゃんに話しかけました。ほのかちゃんは、それに丁寧に答えていきます。
ほのかちゃんがにこやかに笑っているのを見て、陽もどこかほっとしました。と、その時、ぴりりとした冷たい空気を感じたのです。
ふと目を向けると、そこには取り残されたように美里ちゃんが立っていて、どういうわけか陽を睨みつけているようでした。
「ねえ、ハッチ」
自分の席に着いた美里ちゃんが、隣の席の陽に話しかけます。
「……なに?」
「見て、これ」
そう言って見せられたのは、高級ブランドの財布でした。
「買ってもらっちゃった」
「買ってもらった……?」
首を傾げていると、
「パパに」
すかさずそう言われました。
「パパって……サットのお父さん?」
「違うよ」
美里ちゃんは、何がおかしいのか声を上げて笑います。
「パパって言ったらパパだよ。本当のパパじゃなくて」
「……どういうこと?」
「だからあ、パパに買ってもらったんだってえ」
にやにやと楽しそうに語る美里ちゃんから、陽は思わず目を背けました。突然に目を背けたのは失礼だったかなと陽は思いましたが、美里ちゃんはそれすらも楽しんでいるように笑い続けています。そんな美里ちゃんを、陽は再び見ることができませんでした。
『……どうして……?』
ちらりと美里ちゃんに目を向け、すぐにそらします。
『なんで、見えるの……?』
美里ちゃんの頭上には靄がかかっていました。その靄は、赤やピンクや紫などが混ざり合い、黒っぽくなって美里ちゃんを覆っています。
美里ちゃんの顔を見ようとすると、周りの靄が邪魔になるほどです。
それどころか、靄にも目があるようで、美里ちゃんと目が合うと靄の中のモノとも目が合ったように感じてしまうのです。それに耐えかね、陽は目をそらしてしまったのでした。
「陽ちゃん」
重い空気に圧し潰される寸前で救いの声が聞こえてきました。反射的に顔を上げると、茉奈ちゃんと伊代ちゃんが真面目な顔でこちらを見つめています。この二人は、陽たちのグループの中でも特に仲良しなのでした。
「陽ちゃん、ちょっと来て」
呼ばれて、教室の端まで連れて行かれます。その間も、美里ちゃんはずっとこちらを見ています。振り返って確認まではしていませんが、重くて冷たい空気を背中に感じ続けていたのです。
時折、背後から靄が追って来ているように感じ、何度か手で払いました。
「……? 陽ちゃん、どうしたの?」
「虫でもいた?」
二人には見えていないのでしょう。陽は、
「……ううん」
と首を振ると、
「どうしたの?」
と、呼び出した理由を尋ねました。
「あ、うん。あのね。美里ちゃんのことなんだけれど」
伊代ちゃんが口を開きます。
「さっき、パパに買ってもらったって言っていたでしょ?」
「あ、あの、ブランドの財布?」
「うん」
「サットは、本当のパパじゃないって言っていたよね。どういうことかな」
「うん、それね……」
伊代ちゃんは目を伏せ、うつむいてしまいました。そんな彼女に代わり、茉奈ちゃんが続けます。
「いーちゃんね、見たんだって」
「なにを?」
「美里ちゃんが、おじさんと歩いているのを」
「……それが、パパ?」
「うん。だけど、お父さんじゃないと思うって言っていたよ。ね?」
茉奈ちゃんに促され、伊代ちゃんは顔を上げました。
「うん。なんかね、腕を組んだりして、お父さんに接する感じじゃなかったの」
「それで、さっきの発言でしょ?」
茉奈ちゃんの表情は真剣です。
「あれは、たぶんやっているよね」
「……なにを?」
「だから、エンコーだよ」
より一層声を落として話す茉奈ちゃんに、
「……エンコー?」
陽は首を傾げます。
「援助交際だよ」
「援助、交際……」
「おじさん相手に恋愛の真似事をするんだよ」
「……サットは、年上が好みってことかな」
「そういうことじゃないでしょ」
呆れたようにため息をつく茉奈ちゃんに、陽は申し訳なさそうにうつむきました。
「おじさんは、お金持っているからね」
「お金? それじゃ、お金が目当てってこと?」
「そうだよ。おじさんの恋愛を援助するから、援助交際って言うの」
「なに、それ……。だめだよ、そんなの」
「うん。そうだね。私も、いーちゃんだって、だめだと思っている。でも、たぶん、美里ちゃんは……」
「それを、やっているの?」
「……だと思う」
「どうして?」
「だから、お金が欲しいから、じゃない?」
「お金のために?」
「あとは、ちやほやされたいから、とかかな。まあ、でも、なんでそれをやるのかなんて、私にもよくわからないよ」
「ハッチ」
話に夢中になっていると、突然耳元で声がして、陽は思わず肩を跳ね上げました。
「何を話しているの?」
振り向くと、そこには美里ちゃんが不敵な笑みを浮かべて立っています。美里ちゃんの顔の脇で、漂っている靄も同じように笑った気がしました。
「……それじゃ、陽ちゃん。またね」
茉奈ちゃんと伊代ちゃんがそそくさと去って行きます。それを見つめている美里ちゃんに、陽は神妙な面持ちで尋ねました。
「サット……エンコーしているの?」
「うん、しているよ」
平然と答える美里ちゃんに、陽は驚きを隠せません。そんな陽を見て、美里ちゃんはまたもにやにやと笑いました。
「……どうして、そんなことするの?」
「だって、お金もらえるし」
「お金のためにやっているの?」
「そうだよ。ただのバイトじゃん」
「バイト……?」
「うちの学校、私立のくせにバイトしても大丈夫だもんね」
「それは、学校が認めた生徒で、学校が認めた仕事内容だけだよ。サットは届けを出しているの?」
「出すわけないじゃん」
「それは、サットだって認めてもらえないってわかっているからでしょ。それは、バイトじゃないよ。そんなの、やったらだめだよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「なんでだめなの? 私はお金がもらえて嬉しいし、相手だって喜んでいるよ。だからお金くれるんだもん。みんなが幸せなのに、なんでだめなの?」
「幸せ……?」
「ねえ、ハッチさあ」
美里ちゃんがぐいっと距離を縮めてきました。そして、耳元で囁くように、
「それって、妬みじゃないの?」
と言ったのです。
「……え?」
陽が目をぱちくりさせていると、美里ちゃんはまたも厭らしい笑みを浮かべています。美里ちゃんがそうすると、彼女を取り巻く靄もまた、同じようににやりと笑うのです。
「私がお金になるバイトを見つけることができたから、羨ましいんでしょ?」
「……羨ましい……?」
「そうだよ。だって、普通は買えないでしょ。あんな高級ブランド。それに、みんな私に優しくしてくれるしね」
「……みんなって、一人じゃないの?」
「違うよ。今は三人だけど、もっと増やすつもり」
「どうしてっ? そんなにお金に困っているの?」
「別に困ってないけど、あったらあったでいいでしょ?」
「やめなよ! 今なら、まだ間に合うから……っ」
そう言ってから、陽は自分の言葉に違和感を覚えました。
『……間に合うって、なに……?』
「あはは、やっぱり嫉妬じゃん。羨ましいなら自分もやればいいのに」
声高らかに笑う美里ちゃんの背後で、黒々とした靄も大口を開けてゲラゲラと笑っています。また、先程までは美里ちゃんの周りにだけ浮いているように見えていたのに、いつの間にかその姿も大きくなり、背丈が天井にまで届くほどに伸びていたのです。
『……だめ……っ、堕ちる……!』
瞬間的にそう思った陽は、思わず美里ちゃんから目をそらしました。その時、ちょうど休み時間終了のチャイムが鳴ったのです。美里ちゃんは、どこか勝ち誇ったような表情で、肥大化した靄を引き連れながら自分の席に着いたのでした。
「どうしたの、陽」
翌朝、一緒に電車に乗り込んでから何も話さずに考え込んでいる陽に、美菜子ちゃんが心配そうに声をかけました。
「具合でも悪いの?」
「あ、違うよ。サットのこと考えていたの」
「何かあったの?」
「うん。……エンコーしているんだって」
「えっ?」
「サットもね、スマホを買ってもらってから出会い系にはまっていたみたいなの。やめるように言ったんだけれど……」
「聞くわけ、ないよね。エンコーするような人が、友達からやめなって言われたってね」
「やっぱり、そうなのかな」
「うん。むしろ、拍車がかかるかも」
「拍車?」
「うちの学校にもいるのよ。友達ってわけじゃないんだけれどね。でも、その子の友達が心配してやめなって言ったら、喜んじゃって」
「どうして?」
「さあね。もしかしたら、自分は流行に敏感だとでも思っているんじゃないのかな。ほら、陽の友達のその子も、ネットニュースをよく見ているんでしょ? 不倫だとか、そんな話ばかり追っていると、それが当たり前みたいに思えてきたりするんじゃないのかな。そういう行動に出ない人が遅れているんだ、みたいな感じで」
「……お母さんにも言ってみたんだ」
「その子がエンコーしているって?」
「うん。お母さんはね、寂しいのかなって言っていたよ」
「……寂しい?」
「うん。サットは母子家庭だから。お父さんがいない寂しさを、同じ歳ぐらいの男の人で埋めようとしているのかなって」
「……へえ。私は両親がいるからわからないけれど、そういうこともあるのかな。なら、陽も、そう思ったりするの?」
「え、私……?」
「陽は、エンコーなんかしないとは思うよ。ただ、お母さんの言葉から考えるとね、年上の人に惹かれたりするのかなって思ったの」
「私は……たぶん、ない。だって、寂しくないもの」
「そうなの?」
「うん。なんかね、お父さんがいないっていう感じがしないんだもの」
「……へえ? そうなんだ……」
その時、電車が大きく揺れました。
「わ、びっくりした。大丈夫?」
「うん、大丈夫。今日の運転は荒いねえ」
陽が、飛ばされそうになった美菜子ちゃんの腕をつかみながら声をかけると、美菜子ちゃんは冗談めかしてそう言返しました。
「あ、次の駅だね」
美菜子ちゃんが言います。
「……やっぱり、心配なの?」
うつむいたままの陽を前に、美菜子ちゃんも心配そうな表情を浮かべています。
「……サットがね、何でバイトをしたらだめなのって言うの」
「バイトって、エンコーのこと?」
「相手も喜んで、自分もお金をもらえて嬉しい。みんなが幸せなんだからいいでしょって」
「幸せ……」
「私ね、それに対してどう返したらいいかわからなくて……」
「うん」
「お母さんに言ったの」
「……お母さんは何て言っていたの?」
「幸せじゃないって。それは、みんなが不幸せになる道だって」
「みんなが、不幸せ?」
「相手の人には家庭があるから、続けていたらその家庭を崩壊させるかもしれない。奥さんはもちろん、子供も傷つくでしょ? そうなったら、サットはその人たちの恨みも買うことになる」
「だから、みんなが不幸せになるってことか」
「うん。でもね、それだけじゃなくて」
「他には何があるの?」
「何よりも、魂を貶めることはやったらいけないんだって」
「……魂?」
「もしもね、ばれることがなかったら、奥さんや子供は傷つかないし家庭も守られるかもしれない。でも、相手とサットの魂には大きな傷が残るんだって。結婚っていうのは、神様の前で誓いを立てて夫婦となることだから、それを引き裂く人にも、一方的に破棄する人にも罪があるって言うの」
「……」
「神様に祝福されないような関係はいけないんだって」
「……へえ。陽のお母さんって、なんかすごいね」
「……だから、やめさせないといけないのに。今なら、まだ間に合うと思ったのに……」
「……陽?」
「私ね……サットから、手を放してしまったの……」
その時、がこんと車体が大きく揺れました。急ブレーキの音とともに停車すると、降車側のドアが開きます。アナウンスが、陽たちが降りる駅に到着したことを告げていました。




