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愛のかたち  作者: 高山 由宇
第2部
12/23

第4話 兄と弟

 夕食を終えて部屋に戻った時には、もう九時を回っていました。

海音(かのん)君はもう寝ちゃったかな』

 陽は、なんとはなしに望遠鏡を取り出すとのぞき込みます。その瞬間、思わず息を呑みました。

「え……ちょっと……っ」

 驚きのあまりに声まで漏れ出てしまいました。

「こんな時間に……」

 陽は望遠鏡をしまうと、急いで階段を駆け下ります。

「どうしたの、陽?」

 お母さんが顔を出しました。

「あ、あの……ちょっと、コンビニまで行って来るね」

「え、こんな時間に? 明日じゃだめなの?」

「う……」

「陽?」

「……」

「……そう。なら、三十分で戻りなさいね」

「……うん!」

 お母さんに見送られながら、陽は自転車に跨ると、夜の暗い道を走って行きました。


 陽が目指しているのは如月君の家です。陽の家から、自転車で五分ぐらいの距離にありました。

『海音君……』

 走りながら、陽は先程の光景を思い出していました。

 つい先程、望遠鏡をのぞいた時、もう眠っているかと思った海音君はまだ起きていました。そして、如月君に激しく叱られていました。

 原因は、陽のあげたチョーク石です。

 海音君が、チョーク石を使って黒画用紙に何かを書いていたのですが、その画用紙は如月君の物だったのです。

 その日、学級委員長である如月君には、みんなとは別に宿題がありました。それは、クラスで決めた班ごとの役割分担を画用紙に清書することです。白マーカーを使って綺麗に清書を終えたその画用紙に、海音君が落書きをしてしまったのでした。

『私のせいだ……』

 ぎりりと唇を噛みしめます。

『早く見つけないと……』

 如月君の家が見えてきました。家の前に誰かがいます。ブレーキをかけると、

「……一ノ瀬?」

と声をかけられました。暗がりのために顔が見えませんでしたが、その声は紛れもなく如月君のものです。

「こんな時間に、どこに行くんだ?」

「如月君こそ、どうしたの? もしかして、誰かを探しているの?」

 如月君は目を見開きました。

 そうです。陽は、望遠鏡で見ていたのです。如月君に叱られた海音君が、泣きながら家を飛び出して行くところを。

「なんで……」

「……なんとなく。誰か、探しているようだったから」

「……弟だよ」

「海音君? こんな時間に、いなくなっちゃったの?」

「俺が怒鳴ったんだ。そしたら、出て行った」

「如月君が怒鳴るなんて……。海音君、何をしたの?」

「……たいしたことじゃないよ」

 そう言って、如月君は持っていた画用紙を差し出しました。

「これ、今日、先生から宿題を出されていたよね。そっか、海音君に落書きされちゃったんだね」

 陽は、受け取った画用紙を眺めます。暗がりに、白い文字が浮かび上がって見えました。

 綺麗な文字が並んでいるのは、如月君が丁寧に清書したものでしょう。それを裏返すと、そこには大きく波打つような文字が浮かんでいました。

 それを目にした陽は、如月君の目を見て言います。

「海音君を探そう」

「……もちろん、探すよ」

「一緒に探そう」

「え、なんで? 一ノ瀬には関係ないだろ?」

「そんなことないよ。これ、チョーク石でしょ? 私があげたの、海音君に。喧嘩の原因を、私が作っちゃった」

「……そんなこと、関係ないよ。一ノ瀬のせいだなんて、思っていない」

「でも、早く見つけた方がいいでしょ? 手分けした方が早く見つかるよ」

「……一ノ瀬は、なんでここにいるんだ?」

「え、私は……」

「どこかに行くつもりだったんじゃないのか?」

「……ううん。私は、家に帰るところだったの」

「……家に?」

 如月君は、ちらりと陽の背後を見たようでした。

「一ノ瀬の家って、こっちだったか?」

「……遠回りして帰ろうと思っていたの」

 苦しい言い訳のように聞こえたかもしれません。けれども、それ以上如月君が何かを尋ねてくることはありませんでした。

「ねえ、如月君。海音君が行きそうなところに心当たりはない?」

「今日、海音と会っただろ? 中学校に近い、あの空き地にはよくいるよ」

「他には?」

「あとは、近くの公園」

「公園?」

「あ、ほら、一ノ瀬の家の前にあるだろう?」

「あ、あそこ? それから?」

「……そのくらい、かな」

「そう」

「海音は、俺のあとをよくついてきていた。通学路も覚えている」

「それじゃあ、中学校に行くまでの道にいるかもしれないね」

「うん。でも、そっちは俺が行くよ。一ノ瀬は家の前の公園を見に行ってくれないか。そして、もしもそこにいたら、悪いけど保護してもらいたい」

「……うん。わかった」

 そうして、如月君も自転車に乗ると、中学校に向けて走り出しました。

 一人になり、陽は考えます。

 如月君は、公園を見て来て欲しいと言いました。陽は、それに対して了承の意を示しました。しかし、それは時間の無駄になるような気がします。なぜなら、陽は家から直接如月君の家に向かって来たからです。

 如月君の家まではまっすぐの一本道。途中で海音君らしい男の子も見かけませんでした。

『たぶん、海音君は公園には行っていない……』

 そう思った陽は、他の道を行くことにしました。

『中学校の近くの空き地は、きっと如月君が見て来るはず……』

 他には何か言ってなかったでしょうか。陽は、如月君の言葉を思い返します。

『海音君は、如月君のあとをついて回っていたんだよね。通学路も覚えているって……。それって、如月君が小学校の時からそうなのかな』

 海音君は小学生なので、今では海音君の通学路でもあるでしょう。

『私は、小学生の頃、どうしてたかなあ』

 陽は、自分に照らし合わせて考えてみることにしました。

『あ、そうだ。小学校に行く道に河原があったよね。私は、何かあるとよくそこに行ったなあ』

 そうです。陽は、そこで片翼の紳士と出会い、望遠鏡を託されたのでした。

 渡された時には、手を放した瞬間に飛んで行ってしまいそうなほどに軽やかだった望遠鏡ですが、のぞくたびに重みが増し、今では陶器製のマグカップほどの重さになっていました。

『海音君って空き地が好きなのかな。だとしたら、あそこにも興味があるかもしれない』

 目的を定めた陽は、自転車のペダルを力いっぱいに踏みます。そして、懐かしいあの場所を目指したのでした。


 涼やかなキンヒバリの声が鼓膜をくすぐります。その音色を辿って行くと、懐かしい川原に着きました。

 街灯もない闇の中、キンヒバリの鳴き声と、草花が擦れ合う音、そして川のせせらぎの音だけが聞こえます。

 ぐるりと辺りを見渡しますが、真っ暗で何も見えません。空を見上げてみると、重い雲が垂れ込み、月の光を完全に遮ってしまっていました。

「……海音君」

 か細い声が、吸い込まれるように闇の中に消えて行きました。どこからも反応はありません。肌寒さと不気味さとで、ぶるりと体が震えました。

「海音君……いないの?」

 返事がありません。当てが外れたのでしょうか。他を当たろうと自転車に乗ろうとしたその時、

「……まってえ……っ」

 闇の中から、微かに、声が上がりました。

 怯え切ったような、それでいて安堵したような、涙混じりのか細い声です。

「……海音君?」

「……うん」

「そんなところで何しているの? 帰ろうよ」

「う……」

「どうしたの? 海音君」

 海音君の姿はいまだ見えません。声だけを頼りにきょろきょろしていると、

「……こわいいっ」

という震えた声が聞こえてきました。

「こっちにおいで。こっちの方が明るいよ」

「むりい、いけないよお!」

 恐怖のあまり、身動きがとれずにいるのでしょう。仕方がないので、陽が海音君の方へと行くことにしました。しかし、そうは言っても、この闇の中をどこに向かえばよいのか陽にもわかりません。

「海音君、どこ?」

 陽は声をかけ続けました。

「海音君」

「こっちだよお」

「こっち?」

「はやくきてよお」

「大丈夫だよ、もう近いから」

「……はやくう!」

「あ、いた」

 陽は、うずくまっている海音君の肩に触れました。すると海音君は、陽の足にしがみつき、わあわあと声を上げて泣いたのです。

「海音君、大丈夫?」

「ううっ……」

「こんな時間に、こんなところに来たらだめじゃない。如月く……お兄ちゃんも心配していたよ」

「だって……だってえ……っ」

 ぐずぐずと泣きじゃくるので、陽はしばらくの間、海音君の頭を優しく撫でてあげました。

『……弟って、こんな感じなのかなあ』

 そう思って撫で続けていると、しだいに海音君も落ち着きを取り戻してきたようでした。

「もう、大丈夫?」

「……うん」

「それじゃあ、帰ろうか」

 そう言って海音君の手を取ったのですが、

「いや!」

と弾かれてしまいました。

「え……どうして?」

「だって、おにいちゃんが……」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんはもう怒ってないし、海音君のことを心配しているんだよ」

「でも……」

「本当だよ。だから、帰ろう?」

「だって、ぼく……」

 ほろりと、乾いたはずの涙が、再び海音君の瞳から零れ落ちました。

「ぼくは、おにいちゃんをよろこばせてあげたかったんだ……っ」

「……うん。そうだよね……」

 陽はうなずきながら、如月君の持っていた画用紙を思い浮かべました。

 如月君の綺麗な字体の裏側には、大きく波打つ文字で、「いつもありがとう」と書かれていたのです。

「……かけなければよかった……っ」

 大粒の涙を流しながら、海音君が言います。

「ただの石ころだったらよかった……。かけない石ならよかったのに。こんなもの、もういらない……!」

 海音君が放り投げた何かが、闇に吸い込まれるように消えました。その後、ぽちゃんという水音が上がり、これまで以上に大きな海音君の泣き声が辺りに響き渡ります。

「……海音君」

 どう慰めたらよいのか考えあぐねていると、唐突に空が晴れました。雲の切れ間から、まん丸のお月さまが顔をのぞかせています。煌々とした光が、陽と海音君の上にも降り注ぎます。泣き腫らした目をこれ以上ないくらいに見開いて、海音君は川原を見つめていました。

「うわあ……!」

 海音君から感嘆の声が上がりました。先程まで闇一色だった川が、月の光を受けてきらきらと輝いているのです。

「ほしだ! ねえ、あれ、おほしさま?」

「確かに、きらきらしていて星みたいね。でも、星は空に浮かんでいるんだよ」

「ほしがうつっているんじゃないの?」

「月の光がね、川の水に反射して星みたいに見えているの」

「……ふうん」

 陽は、石ころをひとつ拾い上げました。それを、下手投げで川に投げ入れます。水面を二度跳ねたあと、その石は川の底へと沈んでいきました。

「あ! 二回跳ねた!」

「いまの、水きり?」

「そうよ。知っているの?」

「うん! ぼくもやりたい!」

 そこで、陽は手探りで平べったい石を探すと、それを海音君に渡してあげました。

「やり方はわかる?」

「うん! おにいちゃんがやっていたから! おにいちゃんは五かいくらいできるんだよ」

「五回も? へえ、すごいのね」

「うん!」

 そう言って勢いよく海音君の手を離れた石ころは、一度も跳ねることなく水底に沈んでしまいました。

「……あれ?」

 きらきらと輝く川面を不思議そうに見つめる海音君。と、その時です。背後から、何かが飛んできました。

 それは、水面を、一回、二回、三回と跳ね、七回目を跳ねる前に力尽きたのか、水底へと沈んでいったのでした。

 驚いて振り向くと、そこには如月君が立っていました。

「すごい! 六かいはねた!」

 海音君が川面を見つめながらはしゃいでいます。

「……すごいよ、如月君」

 陽も目をぱちくりさせていると、石を放った本人も驚いている様子で、

「……新記録だ」

とつぶやいていました。

「いつまでも何をやっているんだよ」

 呆れたような声に、海音君は途端に身を縮めます。それを見た陽は、

「ごめんね。今、帰ろうとしていたところだったの」

と言い、海音君の手をぎゅっと握りしめました。

「別に……一ノ瀬が謝る必要はないよ」

「ううん。如月君が心配しているの知っているから……ごめんね」

「……ああ」

 そう答えながら、如月君が歩み寄ります。そして、海音君の頭をぽんぽんと撫でました。

「ほら、帰るぞ」

「……おにいちゃん……」

「もう寝る時間だろ」

「……おこってない?」

「……ああ」

「ほんとう?」

「……ごめんな」

「え……?」

「怒りすぎた。あんな画用紙一枚、明日、また先生からもらって来るよ」

 その言葉を聞くと、海音君は陽の手を振り解き、如月君にぎゅっと抱きつきました。それを、如月君は優しく抱き止めてあげます。

 一件落着したようです。

 二人の兄弟を見つめながら、陽も自分のことのように喜んでいたのですが、ふとあることを思い出しました。

「あ……っ、たいへん!」

 突然慌て出した陽に、如月君が目を向けます。

「ねえ、如月君、今何時?」

「え……十時過ぎだけど」

 如月君の腕のデジタル時計が淡い光を放っていました。

「……早く帰らないと!」

「あ……そうだよな。もう、だいぶ遅い時間だ」

「うん。それに、約束していて……。出て来る時にね、お母さんから三十分で帰るように言われていたの」

「それは……悪かったな」

「ううん。海音君が見つかって、本当に良かった」

「送ろうか?」

「え……っ?」

 胸の高鳴りを感じました。

 けれども、それはほんの一瞬のことです。

「ううん、いい。如月君も、早く帰った方がいいよ」

 そうして、如月君たち兄弟と別れて家に帰り着いた頃には、約束の三十分は(とお)に過ぎ、家を出てから一時間近くが経っておりました。

 もちろん、お母さんはご立腹です。家に入るなり、盛大に叱られました。けれども、事情を説明すると、

「海音君が見つかって良かったわね」

と、一緒に海音君の無事を喜んでくれたのでした。


「それ、私が持って行ってもいい?」

 教壇の上の教材が入った箱に手をかけようとしていた如月君に、陽ははにかみながら声をかけました。

「え……どうして?」

「だって、如月君には約束があるでしょ?」

 如月君は、放課後に隣の席の男子生徒に勉強を教える約束をしていたのです。陽は、昨日、偶然にもそのことを知ったのでした。

「だから、これは私が運んでおくね」

「……いいよ。これは、俺の仕事だから」

 最後の授業で使った教材を片付けるようにと、先生が学級委員長である如月君に指示をしたのです。如月君はそのことを言っているのでしょう。けれども、陽も引き下がりません。

「如月君って、みんなのリーダーだよね」

「え?」

「一年生の時から、如月君は生徒会役員で、クラスの学級委員長だもの」

「……うん」

「リーダーが、何でもかんでも自分でやらなきゃいけないってことはないと思うの」

「……」

「私は、如月君ほど勉強もできないし料理もできないし……。如月君の代わりに海音君と一緒にいてあげることもできないけれど……でも、これを片付けることぐらいはできるよ」

「……」

「他のみんなだって、如月君に頼って欲しいって思っているかも」

「……そうかな」

「うん。だからね、もっと楽になってもいいと思うの」

 その時、如月君の頭上で、何かがぱっと弾けたように見えました。その後、ほのかに白い光が立ち昇ります。

 ……いえ、そのように、見えたような気がしました。

「わかった。それじゃあ、頼んでもいいか?」

「うん、いいよ」

「ありがとう……一ノ瀬」

 そう言うと、如月君は約束をしていた男子生徒のもとへと歩いて行きました。その足取りは、まるで羽でも生えたかのように軽やかです。

 時折、如月君の周りには、まとわりつくような黒い靄が見えることがありました。けれども、少なくとも今は、その面影がまるでありません。

 ふと、窓から光が差し込みます。

 光の加減でしょうか。西日に照らされた如月君の背中には、芽吹いたばかりの若葉のような、小さな羽がそよいでいるように見えたのでした。

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