第3話 優等生の憂鬱
「陽ちゃん、一緒に帰ろう」
昇降口まで来た時、背後から声をかけられました。志乃ちゃんです。
「今日から部活がないから、早く帰れるね」
はしゃいでいる志乃ちゃんに、
「でも、もうすぐ期末試験だよ」
と告げると、
「やめてよお。せっかく忘れていたのに」
と渋い顔で返されました。
二学年に上がっても、志乃ちゃんとは同じクラスです。真尋ちゃんは別のクラスになってしまいました。部活も、陽と志乃ちゃんは同じテニス部に所属していますが、真尋ちゃんはバレーボール部です。
それでも、三人は今も変わらずに仲良しのままでした。
中学生となって間もなくの頃、志乃ちゃんは、服装や髪形を生活指導の先生によく注意されていました。それが、今ではすっかり模範的な生徒です。……少なくとも、見た目だけは。
「あれ……それ、本?」
志乃ちゃんは、陽の手にした物に気づき首を傾げます。
「うん。今から返しに行くの」
「返しにって、図書室に?」
「そうだよ」
「でも、図書室は二階でしょ?」
靴を履いて外に出ようとする陽を追い、志乃ちゃんも上履きから靴へと履き替えました。
「もうひとつあるでしょ?」
「えっと……あ、旧校舎? あそこにもあるの?」
「うん、あるよ」
旧校舎は、おもに三年生が生活する空間です。コンクリート造りの新校舎と違い、壁や床、机や椅子もすべて木製の上、日当たりが悪いのかいつもどんよりとした暗い空気に包まれているのが印象的でした。ですから、そこに好んで足を踏み入れる生徒はほとんどいません。
「どうしてそんなところで借りたの?」
志乃ちゃんがあからさまに顔をしかめます。
「おもしろそうなのがあったから」
「……ふうん。本を返しに行くだけ?」
「ううん。今日はね、ちょっと勉強してから帰ろうと思っていたの」
さらにしかめっ面を濃くする志乃ちゃんに、
「志乃ちゃんも一緒に勉強する?」
と尋ねた途端、
「しない!」
と即答されてしまいました。あまりの即決ぶりに、
「はは……」
と乾いた笑いをもらしつつ、二人は校庭で別れたのです。
旧校舎の図書室は、新校舎の図書室の三分の一ぐらいの広さしかありません。その蔵書も、新校舎に比べると古くて小難しいものが多く並んでいました。
受付で本を返却した陽は、そのまま入り口付近の席に着きます。ふと顔を上げると、奥の席に見知ったうしろ姿を見つけました。
『あ……如月君だ』
如月君は、二年生になった今も、陽のクラスの学級委員長です。
『如月君も旧校舎で勉強していたんだ……』
広々としていて明るい新校舎と比べて、旧校舎は全体的に日当たりが悪く、じめっとした重い空気が流れていました。そのため、授業中以外は、三年生であっても新校舎をおもな生活スペースとして使用する生徒が多く、旧校舎の最奥に位置する図書室にはほとんど人が寄りつかないような状態でした。
ですが、陽は、この閑散としていて静かな図書室に居心地の良さを感じていました。もしかしたら、如月君もそう感じていたのかもしれません。彼の勉強を邪魔してはいけないだろうと考えた陽は、あえて声をかけることはしませんでした。
『……これ、どう解くのかな……』
教科書を開いて三十分ほどが経ちました。陽は今、連立方程式の練習問題を解いているところです。解き方が載っている頁にまで戻り読み返してみましたが、なかなか理解できません。
「……ふう」
思わずため息が漏れました。陽は両腕を上げると、大きく伸びをします。その時、如月君が視界に入りました。
『如月君なら、わかるかな』
勉強のよくできる如月君ですが、中でも数学が得意だと記憶していました。
陽が席を立つと、それとほぼ同時にがたりと音がしました。視線の先では、如月君も同じように席を立ったようです。そして、振り返った如月君と目が合いました。
「あ……」
声をかけるタイミングを失い、陽は俄かに口籠ります。
「一ノ瀬も試験勉強?」
向こうから声をかけられ、陽はこくりとうなずきました。
「如月君も?」
「うん。数学の復習をしていたんだ」
「数学? 如月君、得意なのに」
「……べつに、得意ってわけじゃないよ」
「え……そうなの?」
『……しまった!』
陽は思いました。
突如、如月君の背後に、暗くて重い歪みを感じたからです。
「……ね、ねえ!」
今見たものを打ち消そうとでもするように、陽は声を張り上げて言います。
「もしよかったら、連立方程式について教えてもらえない?」
「……いいよ」
陽の態度を訝しんでいたようですが、如月君は快く受け入れてくれました。そこで、陽は教科書とノートを手に如月君の席に移ります。
「あ、如月君も連立方程式の勉強をしていたんだね」
ちょうど同じ頁を開いていたことに、陽は驚きの声を上げました。
「あれ? お菓子作りの本」
数学と理科の教科書に挟まるようにして、その本は置かれていました。
「本当にお菓子作りが好きなんだね」
だんっと、重い音が狭い図書室に響きます。
「あ……ごめん」
目を見開いて固まっていると、散らばった教科書を如月君が拾い集めていました。どうやら、参考書やら教科書やらを木造の床に落としてしまったようです。
「あ、大丈夫?」
手伝おうとかがんだ瞬間、
「いいよ、一人で拾えるから」
ぴしりと、強い口調で払いのけられてしまいました。
「あ……そう?」
「うん」
拾い終えると、如月君は何事もなかったかのように席に着きます。
「それで、どの辺がわからないの?」
「え、あ……うん」
あまりにも普段通りの振る舞いに、先程、一瞬だけ感じた刺々しさは気のせいだったのだろうかと思いながら、陽は如月君の前の席に着いたのでした。
三十分程勉強を教わった陽は、如月君にお礼を言って図書室を後にしました。
部活動のない校庭はがらんとしていて、活気がなく、どこか寒々しさを感じます。
「あ……テニスボール」
校門のすぐ脇にはテニスコートがあります。普段は鍵がかかっていて入れないようになっているのですが、そのコートの中に黄色いボールがひとつ転がっていたのです。
「……しまい忘れちゃったのかな」
陽は、テニス部員としてボールを拾いたい気持ちはあったのですが、鍵がかかっていてはどうしようもありません。
「明日、先生にでも報告しよう」
そうつぶやきながら、校門を出たのでした。
五分程歩いた頃、交差点に差しかかりました。そのすぐ近くに、小さな空き地があります。そこにうずくまる小さな背中が視界に入りました。
『あんな小さな子が一人で……』
もしかして、具合が悪いのかなと思った陽は、
「……大丈夫?」
と声をかけました。すると、小学校低学年ぐらいの男の子が、顔を上げてこちらを見上げてきます。その後、興味がないとでも言うように、すぐにうずくまる姿勢に戻りました。その様子に、具合が悪くてうずくまっていたわけではないことを知り、ひとまずはほっとしました。
「ねえ、もう帰らなくていいの?」
このまま立ち去るのも何か釈然としないものがあり、陽は尋ねます。
「もう遅いんじゃない? おうちは近いの?」
「ううん」
地面に伏せたまま、男の子は答えました。
「なら、帰った方がいいよ。お母さんが心配しているんじゃないの?」
「しないよ」
「え、どうして?」
「だって、ママはぼくがここにいるのしらないもの」
「黙って出てきちゃったの?」
「ママはいつもおそいんだもの。ぼくはいつも一人なの」
「……そうなんだ」
「うう……もう、かけない!」
男の子が唐突に起き上がりました。
「何をしているの?」
「これ! かけないの!」
男の子が勢いよく伸ばした手の中には、茶色の石が握られていました。そして、男の子がうずくまっていた辺りのコンクリート地面には、引っ掻いたような傷が無数についていたのです。
「もしかして、チョーク石を探しているの?」
尋ねると、男の子はきょとんとした表情でこちらを見つめてきます。
「地面に何か書きたいんでしょう?」
力いっぱいに男の子がうなずきます。
「それじゃあ、この石はだめだよ。白っぽい石を探さないと」
「白い石?」
「うん。この辺にあるのかはわからないけれど」
そう言って周囲を見回すと、茶色い石の間に乳白色の石を見つけました。
「あ、これ。きっとこれだよ」
「ほんとう? それ、かける?」
「たぶんね」
そう言いながら、陽はその石を使い、地面に一本の線を引きました。
「わあ!」
男の子から感嘆の声が上がります。
「あげる」
陽の手からチョーク石を受け取った男の子は、
「ありがとう!」
元気いっぱいにお礼を言うと、再び地面に張りつきました。
「ねえ、それあげるから、もう帰ったら?」
陽の言葉に、男の子はお絵描きをしながら首を振ります。
「ううん、かえらない」
「どうして? もう暗くなるよ?」
「だって、おにいちゃんをまってるんだもの」
「……お兄ちゃん?」
「うん」
「お兄ちゃんって、どこにいるの?」
「あそこだよ」
男の子が指した方向には、陽の通う中学校がありました。
「お兄ちゃんって中学生なの?」
「うん」
「そうなんだ。私もそうなんだよ」
「ふうん」
「お兄ちゃんは何年生なの?」
陽の質問責めに、お絵描きに夢中になっている男の子は気のない返事を繰り返します。
「ねえ、お兄ちゃんって何年生?」
「……二年生」
「え、本当? なら、私の知っている人かも……」
その時です。
「海音!」
鋭い声が聞こえました。
その声に、あれほど夢中になっていたお絵描きをぴたりとやめた男の子は、顔を上げて立ち上がります。
「……おにいちゃん」
「だめだろ。こんな時間に外にいたら」
陽は、その声を知っていました。つい先程まで、近くで聞いていた声です。
「……如月君」
「一ノ瀬……」
陽も驚いていますが、如月君もいくらか驚いているようにこちらを見ています。
「一ノ瀬が、なんで一緒に?」
「遅くに一人でいるから、ちょっと心配で……」
「……そうか」
「……」
「……ありがとう」
そう言うと、如月君は海音君の手を引いて、夕暮れの道を帰って行ったのでした。そのうしろ姿を見つめながら、
『如月君って、あんなふうに声を張り上げたりするんだ……』
と陽は思いました。
クラスメイトと接する時、如月君はとにかく優しいのです。どんな時も、彼は分け隔てなく親切で、みんなに慕われています。陽は、誰からも彼の悪口を聞いたことがありませんでしたし、彼が怒った姿を見たこともありません。彼の一番の印象を上げるなら、それは「穏やか」ということに尽きるでしょう。
ですが、時折、如月君の周囲には影が見え隠れしています。最初に感じた時には気のせいかとも思いましたが、先程、図書室でも歪みを感じました。
『……もしかして、弟をいじめてたりとか、してないよね……?』
家に帰り着いてからももやもやとする気持ちを抱えていた陽は、嫌な思考に行きつき、ぶんぶんと首を振ってその思いを追い出そうとしました。けれども、一度芽生えた考えは、なかなか引っ込んではくれません。
『如月君、ストレスとかあるのかなあ』
学校での優等生ぶりを思うに、その皺寄せが幼い弟に向かっていてもおかしくない……そんな思考に陥り、再び頭を振って考えを追い出します。
『そんなわけがない。それじゃあ、この間観ていたドラマの世界じゃない……』
しばらく悶々としていた陽ですが、ひとつ大きく息を吐くと、
「……よし!」
かけ声とともに、胸に両手を当てました。
白い光が迸ります。
どこまでもどこまでも伸びて行く光のあとに、長い長い望遠鏡が現れました。陽は、如月君のことを思い浮かべながら、望遠鏡をのぞき込みます。そうして見えたのは、如月君と海音君の姿でした。
「あ……あれは……」
思わずつぶやきました。
望遠鏡の向こうでは、海音君が嬉しそうにはしゃいでいます。そのきらきらとした大きな瞳の先には、皿に乗せられた可愛らしいお菓子がありました。それは、如月君が持っていたお菓子作りの表紙に載っていたものと同じものです。
「そっか。弟のためか……」
陽はひとつ息を吐き出すと、ふふと笑いました。
ほっとしたのです。
それと同時に、杞憂に囚われていた時間を恥ずかしく思いました。
『そうだよね。あの如月君が、弟をいじめたりなんて、するわけがないよね』
そう思いながら、如月君の作ったお菓子を口いっぱいに頬張る海音君と、それを見守る如月君の二人を微笑ましく見つめていた陽は、そっと望遠鏡から目を離しました。
ほのかに温もりを得た胸の中に、またひとつ重くなった望遠鏡をしまい込みます。その時、
「陽、ご飯よ」
下の階からお母さんの声が聞こえてきました。
「はあい!」
陽は明るく答え、ベッドから飛び降りるようにして部屋を出て階段を下りると、お母さんの待つリビングへと駆け込んだのでした。