第2話 志乃ちゃんの家出
一年生も三学期へと入りました。
志乃ちゃんは、もうずっとお父さんと口を利いていないそうです。
「誰かに話した?」
二人きりになった時に志乃ちゃんがそう聞いてきました。
「何を?」
「ほら、前に話したでしょ」
「えっと……」
「あいつのことよ」
「……不倫、しているってこと?」
「そう。話した?」
「話さないよ」
「話してないの? 本当に?」
「だって、誰にも言わないでって言っていたでしょ」
「お母さんにも?」
「うん。話してないよ」
「……ふうん」
陽は、首を傾げました。志乃ちゃんの様子が、納得いかないような、どこか腑に落ちない感じだったからです。
『約束を守ったのに、どうして……?』
陽には志乃ちゃんの心がわかりません。
『もしかして、言いふらして欲しかったのかな』
けれども、それで志乃ちゃんが得をするようなことはないように思えました。嫌いなお父さんを貶めることはできるかもしれませんが、それと同時に、それは志乃ちゃんの不名誉にもなるからです。
その日の放課後、陽は図書室へと足を向けました。
放課後の図書室は閑散としていて、カウンターの中に図書委員が数人いるだけです。
陽は端から本棚を見て回り、中学三年生向けの棚の前で足を止めました。そして、手を伸ばし、一冊抜き取ります。
その本の表紙には、「思春期の心と体のバランス」と記されていました。
『……思春期っていうのかな。志乃ちゃんみたいなの』
ぱらぱらとめくっていた手を、あるページに差しかかったところでぴたりと止めます。
『女の子は特に、父親を一人の男性として意識するようになり、避ける傾向になりやすい、か』
そこに書かれていた一文を読み、陽はぱたりと本を閉じました。
『志乃ちゃんの言っていることが本当かはわからないけれど……お父さんがいたら、私も志乃ちゃんみたいになっていたのかなあ』
陽には、お父さんと過ごした記憶がありません。
『お父さんがいるだけで……それだけで、いいように思うのになあ』
お父さんがいても、志乃ちゃんのようにお父さんを嫌いと思って過ごすようになるなら、どちらが幸せなのかわからないなと思いながら、陽は手の中の本を眺めていました。その時です。
「保健体育の予習?」
不意に声をかけられ、陽は驚いて振り向きました。
「れ、蓮音、君」
高鳴る心音を耳元に聞きながら、陽はようやく言葉を紡ぎます。それと同時に、手にした本を胸に隠すように抱きしめました。いけないものを見ていて、それを咎められたような心持ちになったからです。けれども、蓮音君は何でもないことのように、
「二年先の予習なんて、すごいね」
と言って、図書室の扉から最も離れた、本棚の陰に置かれた一人用の席に着きました。陽は本を棚に戻すと、なんとはなしに蓮音君について行きます。
「……これ、まだ習ってないよね?」
机の上に置かれた本を見て尋ねると、
「うん。二年生で習う範囲だからね」
と返されました。
「さすがだね」
「……さすが?」
「うん。さすが、学級委員長だなあって」
「……別に、たいしたことはしてないよ」
「そう? でも、二年生の予習をしているなんて、やっぱりすごいと思う」
「すごいのは一ノ瀬さんだよ。三年生の予習をしていたじゃないか」
陽は頬に熱を感じながら、
「あ、あんなの、予習なんかじゃないよ」
と、心なしか上擦った声で答えます。
「あれはね、ちょっと気になることがあって調べていただけなの」
そう言いながら机の上に目を落とした時、意外なものが目に飛び込んできました。
「……お菓子作り……?」
それは、可愛らしいお菓子作りについて書かれたレシピ本でした。
「蓮音君、お菓子を作るの?」
「うん。たまにね」
「すごい! 私も、小さい時にはお母さんと作ったことはあるけれど、それきりないよ」
「……弟にせがまれて、仕方なくやっているだけだよ」
「へえ。弟思いなのね」
「べつに……」
『……あれ?』
ふと、空気が沈むのを感じました。
「蓮音君……?」
蓮音君の表情に、少しばかりの違和感を覚えました。そこで、陽が彼の顔をのぞき込むと、
「一ノ瀬さん」
と逆に声をかけられました。
「名前で呼ばないで」
意味がわからずにぽかんとしていると、さらに蓮音君が続けます。
「この名前、嫌いなんだ」
「……かっこいい名前だと思うよ」
「もう、中学生なんだからさ」
「でも、みんな蓮音君って……」
「それは、小学生の頃から一緒だったからだよ。一ノ瀬さんとは一緒のクラスになったことがないだろ?」
「……わかった。……如月、君」
誰にでも優しくて親切な蓮音君が、突然、どうしてそんなことを言い出したのか……。陽には、その理由がわかりませんでした。
ただ、重苦しい胸の痛みを感じながら、陽は図書室をあとにしたのです。
家に帰ったあとも、胸の痛みは治まりません。
『何か悪いことを言っちゃったのかな……』
そう思ってみても、心当たりは何もないのでした。
「志乃ちゃんのことも気になるし……」
陽はため息混じりにつぶやきました。
「陽、ご飯の前にお風呂に入っちゃいなさい」
台所からお母さんの声が聞こえます。そこで重い腰を上げ、浴室へと向かいました。
シャワーを浴び、湯船に浸かると、先程まで抱えていたもやもやとした感覚が和らぎ、頭も心もすっきりとしたようでした。
食事を終えた陽は、就寝の準備を終えて二階にある自室へと向かいます。ベッドに腰かけて一人になってみると、また志乃ちゃんのことが思い起こされました。
『志乃ちゃん、どうしているかな……』
ふとそう思った時、胸の中心から白い光が立ち昇りました。そして、それは見る見るうちに形をなしていきます。
現れた望遠鏡を両手でつかむと、英語の教科書一冊分ぐらいの重さを感じました。
のぞくと、志乃ちゃんが見えます。場所は、志乃ちゃんの家の玄関のようで、お母さんと何やら言い争っている様子でした。
「あ……っ」
思わず声を上げてしまいました。志乃ちゃんのお母さんが、志乃ちゃんの頬をぶったからです。ぶたれた志乃ちゃんは、赤くなった頬を押さえ、勢いよく家を飛び出しました。その目からは大粒の涙が溢れて頬を濡らしています。
「……志乃ちゃん……っ」
その時、陽は志乃ちゃんにまとわりつく靄を見ました。まるでスモークボールのような、真っ赤な色に覆われています。
「どうしよう……」
望遠鏡から目を離して時計を見ると、もう八時を回っていました。
『こんな時間に……放っておけない。でも、どうしたら……』
お母さんに相談しようかとも思いましたが、何をどう話したらよいのかわかりません。時計と望遠鏡を交互に見つめて思案していましたが、時だけがいたずらに過ぎて行きました。
五分程経った時、陽は再び望遠鏡をのぞき込みました。
『……志乃ちゃん』
泣きながら歩いている志乃ちゃんの姿が見えます。その周りを取り巻く靄はさらに濃くなり、鮮やかな赤から暗色を帯びた重い赤へと変わっていました。
『夜だから、暗い色に見えているのかな……』
そう思いながら、志乃ちゃんの周りの景色を見回します。
『あれ……? ここは……』
陽は気がつきました。それと同時に、望遠鏡から手を放すと、部屋のカーテンをめくります。
窓の外には、小さな公園が見えました。
がらりと窓を開けると、夜の冷たい風が部屋の中に入ってきます。なびくカーテンを押さえながら、陽は声を上げました。
「志乃ちゃん!」
闇に包まれた公園で何かが動いたと思った時、それは、か細い声で、
「……陽、ちゃん?」
と返してきたのです。
「志乃ちゃん、こっちに来て! 玄関に来てね!」
そう言うなり、陽は窓とカーテンを閉めました。そして、階段を駆け下ります。
「陽? どうしたの? 大声を上げて」
お母さんがリビングから顔を出しました。それに対して陽は、
「志乃ちゃんがいるの」
とだけ伝えると、玄関の扉を開けたのです。
玄関の先の門の外に、志乃ちゃんの姿がありました。
陽は駆け寄ると、門を開けて志乃ちゃんを招き入れます。
「志乃ちゃん」
「陽ちゃん……」
陽は志乃ちゃんの手を取りました。まるで氷のような冷たさです。
驚いてよく見ると、部屋着なのかとても薄い服装をしています。かたかたと、小刻みに肩を震わせていました。
すぐに家に連れて入ると、
「あら、志乃ちゃん。いらっしゃい」
お母さんがにこにこと迎え入れます。
「お久し振りね。大きくなったわねえ」
「……こんばんは」
震える声で挨拶をかわす志乃ちゃんを見て、
「どうしたの? 随分と薄着ね」
お母さんは少し慌てた様子で、
「陽、早くお部屋に連れて行ってあげなさい」
と言いました。陽は、階段を上り、自分の部屋へと志乃ちゃんを案内します。
部屋に入るなり、陽は志乃ちゃんに毛布を渡し、炬燵に入るよう促しました。
しばらくして体が温まってきた頃に、
「私ね、お母さんと喧嘩したの」
志乃ちゃんが重い口を開きました。
「お母さんにぶたれたの」
志乃ちゃんの左頬は赤く腫れています。
「……どうして?」
陽が尋ねると、
「私は、悪くない……」
そう言い、炬燵のテーブルにこつんと額を打ちつけて項垂れてしまいました。
「あいつが悪いんだ」
志乃ちゃんの言う「あいつ」とは、きっとお父さんのことなのでしょう。
「あいつが不倫なんかしているから……」
「ねえ、志乃ちゃん。それって、本当なの?」
「陽ちゃんまで私が嘘ついているって言うのっ?」
先程までうつむいていた顔を上げ、志乃ちゃんは目を吊り上げて声を荒げました。
「……嘘をついているなんて、思ってないよ」
「私は、嘘なんかついてない!」
「なら、何か証拠でもあるの?」
「あるよ! 私、見たんだもの」
「何を?」
「あいつが、知らない女の人と仲良さそうに歩いているのを」
「……二人で?」
「そう!」
「……そうなんだ……」
陽はそれまで、てっきり志乃ちゃんの思い違いだろうと思っていたのですが、本当にそうなのかがわからなくなってしまいました。次の言葉が出てこずに志乃ちゃんから目をそらした時、がちゃりと部屋の扉が開いたのです。
「なあに? 大声上げて。下まで聞こえているわよ」
入ってきたのはお母さんでした。手にしたお盆には、湯気の立ち昇るカップがふたつ乗っています。
「……ココア?」
陽が尋ねると、
「ええ。温まるわよ」
お母さんがにこりと穏やかに微笑みました。
「さあ、志乃ちゃんも温かいうちにどうぞ」
「……はい」
カップを口に運ぶと、志乃ちゃんの喉がこくりと鳴りました。お母さんが無言でティッシュを差し出しています。ココアでも溢したのかと思って見ると、志乃ちゃんが泣いていました。
「寂しいのね」
お母さんの言葉に、陽が首を傾げます。
「お父さん、お仕事が忙しいんじゃない?」
「……」
「この時間になっても帰って来ないの?」
「いつも、私が寝てから帰って来るから……」
「そう」
「でも、帰りが遅いからって、仕事しているとは限りませんよ」
「どうしてそう思うの?」
「私、見たんです。女の人と仲良さそうに歩いているのを」
「そう」
「……嘘だって、思っていますよね?」
「どうして?」
「お母さんも、信じなかったから」
「そんなことはないと思うわよ」
「でも、私がそのことを話しても、お母さんはあいつをかばうんです! きっと、私が嘘をついていると思っている! 私は、確かに見たのに!」
「志乃ちゃん、その時のお父さんって、スーツ姿だったんじゃない? 女の人もスーツだったでしょう?」
「え……」
志乃ちゃんは、途端に黙り込んでしまいました。
「ねえ、志乃ちゃん。お父さん、お仕事だったんじゃない?」
「……」
その時、玄関のチャイムが鳴りました。
「志乃ちゃん、お迎えが来たわよ」
「え……家に、電話したの……?」
「ごめんね、志乃ちゃん。でも、心配させておくわけにもいかなかったの」
「……心配なんか、するわけない!」
「志乃ちゃん」
「誰も、私の心配なんか……」
「そんなわけないでしょう。今だって、お父さんとお母さんが迎えに来ているのよ?」
すると、志乃ちゃんはその言葉を鼻で笑いました。
「そんなことあり得ませんよ。あいつは、今日も遅くなるって言って家を出たんだから」
「なら、自分の目で確かめたらいいじゃない」
お母さんは陽に、玄関に行って、来訪者を迎え入れて来るように言いました。間もなく、どたどたと階段を上る音が聞こえ、部屋の扉が開けられたのです。
「志乃!」
野太い声に、泣きながらうつむいていた志乃ちゃんが顔を上げます。
「……なんで?」
志乃ちゃんの視線の先には、陽と、志乃ちゃんのお父さんとお母さんの姿がありました。
「今日も遅くなるって、言ってたのに……」
「お前が家出したと聞いたから、すぐに帰って来たんじゃないか」
「……いいの、そんなことで……?」
「よくないよ。でも、仕事より志乃を優先させるのは当たり前だろう」
お父さんの言葉を受けて、志乃ちゃんは声を上げて泣きました。
その後、お父さんとお母さんに挟まれるようにして、志乃ちゃんはお家に帰って行ったのです。
去って行く三人のうしろ姿を眺めていると、お母さんに頭を撫でられました。
「なあに?」
振り向くと、お母さんはにこりと笑い、
「冷えるわよ」
そう言って陽の手を引きました。手を引かれながら、ちらりと三人のうしろ姿を見つめます。
『……お父さんって、いいなあ』
そう思った時、常夜灯のせいでしょうか。ぼわっと、志乃ちゃんの体が淡い輝きを放ったように見えました。目を凝らしてよく見ると、遥か上空から光の粒が降り注いでいるようでした。粒はひと筋の光の道を作り、志乃ちゃんの頭の上に降り注がれています。
「うわあ……きれい」
そのつぶやきに、お母さんが振り向きました。そして、
「本当。綺麗ね」
空を見上げて言います。
陽も、それに倣って空を見上げました。
雲ひとつない空には、数えきれないぐらいの星々が宝石のように輝いています。
しばらく眺めていましたが、陽がぶるりと身震いしたのを合図に、陽とお母さんは手を取り合って家の中へと入って行ったのでした。




