月夜の間のアビエイション
現実から逃避したくなる自分が嫌で仕方がない。こういう時、そこにいるのが当たり前かのように私はとあるお店に足を運ぶ。
人間……いや、職場内における私の呼び名と立場からすれば、どうしても誰かに甘えや愚痴を言いたくなるものだ。非コミュと冷凍女。何てことは無い、それは単なるあだ名のようなものだ。人当たりも悪く、恋も知らない女。それが私、夕凪という女性だ。
中間に位置する立場は良くも悪くも経験しなければならない。上も下も全て、受け入れなければいけないなんて、そんなのははっきり言って「やってられるか~」な気持ちの日々でうんざりする。
そうすると、どこかに逃げを作りたくなる自分がいて、月の灯りに誘われてしまったかのように、とあるお店に足を踏み入れることになる。誰にも知られることなく、そこに誘われたかのようにお店に入ってしまった。
「とにかくやってられないんですよ~……私の言ってる意味、分かりますか~? 分からなくてもいいんですけど~でも、聞くだけ聞いて欲しいんれす」
「ええ、聞いておりますよ。そしておっしゃっている言葉の意味も全て、理解をして聞いています」
「ほんとれすか~?」
「立場が多少なりとも上の人間は誰かを頼りたくなるものです。ですが、それが出来ないもどかしさを理解されないのも本人にしか分からないこと……そうですよね?」
「よく分かってるじゃないれすか~」
私が足繁く通うお店は、誰にでもわけ隔てることの無い異空間な場所。美味しいお酒を作ってくれるお店のことだ。バーテンダーはどんな愚痴でも親身になって聞いてくれている。彼ら彼女らの心に感謝しつつ、今夜の私は昨日と同じ言葉を投げかけていた。
「不思議とお客様が来られている時、お客様のみがその時間、その夜を楽しめていることにお気づきでしょうか? 縁とは不思議なもの。お客様はお店で美味しく頂きながら、私どもとの言葉と言葉を重ねられているのです」
「ほえ~?」
強くも無いのに何杯も頂いちゃっている私には、バーテンダーさんの言葉の意味が分からなかった。
「お客様は月夜の灯りを頼りに、お店を訪ねられた。これも一つの縁ということに違いないのです」
「それは恋に繋がるのれすか~?」
通常の私は絶対にこんなことは口走らない。夜であり、酒のせいでもあり、そして人恋しかったのも事実だ。こんなことを言っても、何にもならないことくらい理解している。
「繋がりはきっとどこかで訪れるものと思います。少なくとも、私はそう信じていますよ」
「じゃ、じゃあ、信じます~……ひっく……」
度数の弱いものしか口に含んでいないにもかかわらず、自分で何を口走り、放っているのかさえ分からなくなっていた。恋模様も出会いも皆無な非コミュの私にも、そんなのが訪れるのかなんて思うことも煩わしい。
月の出る晩の仕事帰りに立ち寄るお店。ここにいるバーテンダーさんになら、こういう期待をしても許される……そんなことを思いながら、呂律の回らぬ口で声をかけようとした私は、一瞬で目を覚ます言葉をかけられた。
「夕凪様にはいつも御贔屓にしていただいておりますが、実は本日をもちまして閉めることに致しました。突然で申し訳ありません」
「あー……う~……」
「夕凪様。今宵は月がとても綺麗でございます。これは月夜から頂いた出会いと今宵の別れの為に作ったモノにございます。どうぞ、頂いて下さい」
月がキレイ……この言葉の意味くらい知っている。だけれど、これを口に含むと同時にその意味は、意味を成さずに淡く切ない想いと共に、私の中に消えて行く。
「このカクテルは、アビエイションにございます。意味はそよ風に吹かれて……です。夕凪様のお人柄と想いの滾りは、とても嬉しく感じておりました。その心はきっといつかの時に届くと思います。この日、この時の出会いが私どもと夕凪様に良い風を吹かせてくれたに違いありません」
「あ……は、はぁ……ど、どうもです」
「会計は無用でございます。お好きな時にお帰りをしてくださいませ」
出会いと別れは突然。これはいつだってそう。私だけの事じゃない……そう思いながら、店を後にした。これは恋でも何でもない、居心地よき時の流れを過ごしただけのこと。
そうして先程まで過ごしていたお店の灯りが消えると同時に、綺麗な月灯りがこんこんと輝きを見せていた。人に恋した私の元には、カクテルの酔いを醒ますかのような微かな風が吹いていた。
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