酒乱
未成年にお酒を勧めるのはやめましょう。
私大生の高村与一は、めっぽう酒に強いわけではなかった。また酒を飲まなくとも、意志薄弱で、賭け事を恐れる男であった。今年の春学期で三年次を迎え、そろそろ専門的な授業が始まる。
授業を終え、並木道を歩き、スマホを見る。水曜か……と呟き、頭痛がする。テニスコートの更衣室へ向かい、フェンスのドアを開ける。
上半身裸で、たるんだ腹を出し、煙草を吸っている男。彼は与一の同級生だった。安田と言った。
「安田、更衣室で煙草吸うなよ」
与一が言うと、安田はふっと笑い、煙を吐き出し、転がっていたテニスボールに火を擦り付けた。
「明日、新歓だよな」
ギラリと光る金のネックレスが、私大生なりの暴力的な雰囲気というものを放っていた。
「そうだな」
与一も服を脱ぎ、やせ細った身体の、あばら骨を強調させた肉体を晒し出した。安田は、
「一人上玉がいるらしいんだよ」
「上玉?」
安田はテニスボールをこともなげに手の中で転がして弄んだ。
「生田光っつー女。すっげー可愛くて巨乳だとよ。あとの女子部員はみんな鼠みたいな乳臭い奴だ」
「まさか、お前」
安田は人差し指を突き付けて、
「やってくださいっていうようなモンだろ」
「停学喰らうだけじゃすまねぇぞお前」
昨今テレビで話題になっている、未成年へのアルハラ、更には女子部員への泥酔させた上での暴行。安田の濁った眼は退廃的なものを見据えているようにさえ思える。
「そんなに巨乳がいいのか」
「高村。お前明日バイトだって聞いたけど」
与一だけ逃れるわけにはいかないということを示唆しているのだろうが。
「欠員が出てな。どうしても外せねぇ」
「嘘だろ」
「嘘じゃねぇよ」
安田は激しい非難の目を与一に浴びせた。与一は構わなかった。どうせばっくれたとして、2、3日顔を合わせなければ、もう謹慎処分、あるいは刑事告訴されているかもしれない。
「俺は勝手にさせてもらうよ。今日はもう帰る」
わざわざ着たテニスウェアをまた脱いで、私服に着替えなおす。
「勝手にしろ。光ちゃんとできなくて残念だったな」
「呆けてろ」
すると安田は与一の胸ぐらをつかみ顔面を殴った。
「選別だ、行け」
お前も随分偉くなったもんだ、と心の中で毒づき、よろけながら更衣室を後にした。
外は雨だった。キャンパスの中央で、傘も持たず、ひとり立ち尽くしていた。
「光!」
与一はそう叫んだ。
雨の一粒一粒に、安田の煙草の燃えカスが入っているかのようで、目の前の風景は黒々と与一の孤立を彩った。まだ会ったことのない生田光という女子学生の名を叫び、彼女を守ることができない自分の無力さに性的な背徳感を感じた。
翌々日、掲示板を見ると、でかでかと、
「次の生徒を無期限停学処分とする。 2BJP35、3BJP98……並びに、非公認テニスサークル『アドバンテージ!』を除名処分とする」
どうやらテレビでもこの不祥事が報道されたらしい。安田らは条例違反と強制わいせつ罪で書類送検されたとのことだ。あの馬鹿、本当にやりやがった。
ラインでやりとりしていた女子の話によると、安田は一升瓶を注文して、簡単なゲームをして負けた人に飲ませていたらしい。尤も、そのゲームは必ず生田が負けるように仕組んでいたのだが。泥酔しきった光を介抱し、トイレに連れ込んで胸を触るなどしたようだ。店員が気づいてすぐ警察に通報した。安田は光をほっぽって逃げ帰り、サークルは撤収した。
『光さんは、どうしてる』
『トラウマになっちゃって、精神病院に入院してるの。かわいそう』
『その病院は』
せめて謝りたい──。ここで与一は自分が信じがたい心境に陥っていることを認めざるを得なかった。まだ一度も会っていない女子学生に、恋をしているということを。信じがたいのではない、認めがたいのだ。明らかに人間の恥の中で最も卑しいものにカテゴリされる感情であるからだ。
その感情を庇護するように、電車を乗り継ぎ、アネモネを買い、病院へと向かった。ガムを噛みながら、とりあえず自分がお詫びしなければいけない立場であることを忘れず、何と言って詫びるかを頭の中で詩を編むように考えていた。
病院に着くと、待合室のソファに、患者が座っていた。見るからに異常者という人はほとんどおらず、考えてみれば光もPTSDを除けば健全なのであった。受付に面会を申し込むと、面会者用の札を渡されたが、
「あいにくですが、花の持ち込みはご遠慮いただいております。こちらでお預かりしますので」
と、400円したアネモネを奪われてしまった。
木調の壁に、リノリウムの床。曲線的な通路を辿り、彼女の病室には、付き添った看護婦がノックした。個室だった。中からは、パジャマ姿で漆黒の長い髪の毛をたらした、綺麗な女子が座っていた。
「こんにちは」
硬い表情で頭を下げられた。こちらも頭を下げ、
「先日はうちのサークル員が、筆舌にしがたい暴行をあなたに加えたことを、お詫びいたします」
非常に勇気が要った。あのときのことを思い出されたら、どうしようかと。
「サークル……?」
「いや、覚えてないなら結構です、帰ります」
「何があったかは正直思い出したくないですけど、あなたが大学のひとだっていうのは、わかります」彼女の表情は、サークルの出来事をまったく感じさせなかった。それほど心の傷が大きいと想像すると恐ろしささえ感じる。あの彼女の「サークル」と口にした愛らしい小さな口の動きを、忘れることはできないだろう。そして、「せっかく来たんですから、お話しません? 退屈なんです、病院生活」
素直に喜べない好意までいただいた。与一の中で、光への好意は、隠されたもの──それこそ酒乱にならなければ曝け出されることはないだろう。酒は人の最も隠したいものをさらけ出す。光にも性欲があったのだろうか……安田への憎しみが湧く一方だった。
椅子に座り、前かがみになって、黙っている。
「先輩の名前は?」高村与一、そう述べた。「高村先輩、わたしを軽蔑しますか」
「…………」
握り拳を強くし、俯き、何も言えなかった。はいと答えたら、笑いが起きそうな気さえしたので、おぞましかった。渇いた唇を、舐める。そしてかぶりを横に振る。
「大学ってすごい怖いところなんですね」
「そんなことはないよ……すごく楽しいところだよ」
口から発せられる嘘の言葉が、毒を持ったかのように思えた。もうこんな会話やめにしたい。けれど、彼女と会話できるのは、小説を書くように苦しく、それでいて耽美だった。
「ねえ、先輩」なに、と言いかけたところで、彼女が顔を近づけてきて、そのまま唇を重ねてきた。与一は目を丸くして、心臓が高鳴った。「明日も来てくれる?」
与一はぎこちなくうなずいた。そして、逃げるように荷物を片付け、出て行った。
翌日、バイトが入っていたが、休んで、彼女の元へ赴いた。
「また来てくれたんだ」
「ああ……」
「隣に座って」与一は光の隣に座った。光は頭を与一の肩にもたせかけた。「悔しいの」
「何が」
「もう分かってるくせに」
「わからないよ」
「恋がしたいの」
与一は黙って光の肩に腕を回した。
「理由のない恋は辛いだけだと思うけど」
「高校の先生みたいなこと言って」
それでも、魅力的な女子と身を寄せ合って、ぬくもりを感じ合うのは、甘美ほかならなかった。
「与一さん」
「うん……」
「まだあなたのことで知らないことはあったかしら」
「学部学科、年齢、血液型……」
光はくすぐったそうに笑った。
「与一さん、わたしのこと、すき?」
「君はどうなんだ」
「アネモネと同じくらい、好き。聞いたよ、看護婦さんから。本当は来るべきはずじゃなかったのに、突き返されて。それなのに来てくれたから、アネモネと同じくらい、大好き」
たった一日。あの暴行事件のたった一日を隔てただけで、どうして俺たちは恋人にならなければならないのだろう。しかし、だからこそ、恋人にならなくてはならない。「アネモネと同じくらい、好き」そう諭してくれた心の綺麗な人を、手放すなど、できようか。
「俺もすきだよ」
「ねえ、中庭、一緒に歩かない?」
「いいだろう」
彼女の手を取り、恋人つなぎをしようとした。
「本当は院内恋愛って禁止なんだけど、もとから恋人同士だったって説明すれば飲んでくれるでしょう」
「無双の理屈だね」
光は屈託のない笑みを浮かべ、看護婦に外出します、と告げ、カードキーで鍵を開けてもらった。ここは閉鎖病棟で、職員の許可がないと外には出られない。
エレベーターを使って一階に降り、缶ジュースを奢ってやり、中庭を歩いた。チューリップやパンジーなどが、こぢんまりと咲いていた。
「なんで与一さんはわたしのこと好きになったの?」
非常に理由は複雑なのだが、
「君に唇を奪われた日が、飼っていた猫の誕生日だったんだ。きっとそれが、俺を酔わせたのかもしれない」
もう、と光は笑いながら小突いた。
彼女の握る手が、汗ばんできた。そして、強くなってきた。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと発作が」
彼女は屈みこみ、頭を押さえ、
「う、あああああああああ!」
と叫んだ。動揺した与一は、急いで看護婦を呼びに行った。
看護婦に、医師から退院するまで光に会うなと言われた。然るべきだ、と与一は心中で自分に毒づいた。──愛してはいけない女だったんだ。何故って、彼女を愛する資格がないから。最初からそれは分かっていたのに、ヒロイックになって彼女を愛してしまった。発作を起こさせたことがすべて悪いわけではない。それ以上に、この関係自体を禁じるべきだということだ。
──唇って、なんで赤いんだろう。
──血が溜まっているからよ。
光と交わした会話の一場面で、疲れ切ってキャンパスを歩くとき思い出された。キスした直後に交わされた、涙を誘うやりとり。
光は退院した。夏の頃、キャンパスを旅していたら、麦わら帽子の彼女が、ワンピースをひらひらさせて歩いていた。与一は彼女の姿を認めると、俯いて過ぎ去っていった。
「血が溜まっているからよ」
すれ違いざまに、彼女はそう呟いたのを聞いたが、与一は聞こえぬふりをした。
了