100円硬貨の桜
駅の地下通路では、ホームレスが毛布と段ボールに包まって横になっている光景を見かけることが読者諸君にもあるだろう。
一人のホームレスがいた。信じられないと思うが、彼は東大の工学部を出ていた。成績優秀で、大学院卒業後、某大手自動車製造会社に研究員として就職した。結婚し、自分は人生の勝者だとおごり高ぶっていた。二人の子どもを設け、ピクニックを楽しんでいた。
しかし子供が自殺をした。上の子どもが、電車に身投げしたのだ。彼は多額の賠償金を国鉄から請求された。保険に入っていなかったので、妻は逃げるように離婚し、残されやけっぱちになった下の子どもが学校の教員を刺し、少年院に連れていかれた。父親は破産手続きをし、安いアパートでバイトで食いつないでいた。しかしプライドの高さが災いして、人間関係が害してすぐにやめ、無職になり、働く気を失くして、アパートを出て行き、ホームレスになった。
2度万引きをし、刑務所に3年服役した。彼は放浪し、関内の高架下のホームレス仲間に助けられ、空き缶拾いをしたり、雑誌販売をしたりして、生計を立てた。
彼は50を迎えた。法律も厳しくなり、ホームレス仲間は退去させられた。散り散りになり、藤沢に拠点を移した。しかし、ヘルニアを患い、食べていくことがままならなくなった。
どこで道を踏み外したのだろう──彼は目に涙を浮かべながら、いつも思いめぐらしていた。あの温かい家庭は、夢だったのだ。優しさは弱さであり、厳しさこそリアルだ。人間は食うか食われるかの境地に立たされるのが常だ。そこで彼はこの年になって、生きるとは何だろうということを思いめぐらした。自分が今までに食べた朝食のパンを吐き出したくなった。もう足も動かない。餓死するのみだろう。
彼が横たえていると、一人の青年が100円硬貨を二枚、彼の足元に置いて過ぎ去っていった。それに最初は気が付かなかったが、身を起こすとそれが置かれてあった。しかし、嬉しくもなんともなく、ただ疑念だけが残された。そして憎しみの感情がふつふつと湧いてきた。そしてそれは憐憫へと移り変わった。ああ、苦しみを知らない誰かが置いて行ったのだ。彼か彼女に告げなければ。あなたの好意には感謝するが、あなたはいつか、この金を地べたを這いずり回って探すような苦境に落とされる、他人事ではないのだ、と。
それから数日後、起き上がると、200円を置く青年の姿があった。ホームレスの彼は言った。
「その金は、震災の募金にでも使ってくれ。俺はヘルニアで動けないんだ。もうすぐ死ぬ」
すると青年は、
「なんですって! わかりました。一日三度、ここへ来ましょう。何か欲しいものをおっしゃってください。買ってきてあげます」
「やめてくれ。俺は静かに死にたい」
青年はホームレスを抱きかかえ、
「あなたが死ぬと主が悲しむ」
「主とはなんだ」
ホームレスは聖書を読んだことがなかった。
「最も慈悲深く、私達の罪のために贖われ死なれた方です」
青年はわざとわかりづらく表現したのだろう、だがホームレスはそこに愛を見出した。
「そうか。なら、200円を置いていってくれ。これからも」
「でも歩けないんじゃ」
ホームレスは青年を離し、
「俺が望んだ中で最も美しいのは、あなたがくれたこの100円硬貨だ。見ろ。この100円硬貨の表面の桜を。こんなきれいな彫刻を眺めているだけで、俺は幸せだ」
「なら、うちに勤めてください」
ホームレスははっと目を見開いた。
「僕は造幣局の人事部の者です。あなたを採用するよう会議に諮問しましょう」
「なあ」
ホームレスは言いかけた。だが青年は彼を引っ張り、負ぶった。通路を抜けると、彼は満開の桜に、なぜか今まで堆積していたものが決壊し、涙をだくだく流した。
「イエス様が最も好きな花は、なんでしょうね」
青年はそう告げ、タクシーを拾い、彼を整形外科に連れて行った。
了
「高きものは低くなり、低きものは高くなる」という聖書の言葉を主題にしたかった。ホームレスにお金を恵んだのは実体験。