桜の歌
僕はイエス様と交流している。家族の中で一番に起きて、暗い中読書をし、聖書を小さな声で20ページ朗読し、日が照ってきたら新約聖書の一章を3回朗読し、黙祷、祈祷、賛美歌を行う。夜は聖書は読まないが、他のことは同じようにする。
祈祷をするときは、イエス様と父なる神のことを総して「神さま」と呼ぶ。三位一体説を信じているからだ。僕はまだ求道者なので、キリスト教はまったく詳しくないのだが。
ある夜、祈祷しているときのこと。
「神さま。私は科学というものを憎みます。精神医療はまだ許容しますが、人工知能というものは断じて許容しません。愛が機械によって作られるわけなどないのです」
このときは情が走ったのか、霊が僕に降りたのか――後者であると信じたい。そんなことを勝手に口が勝手にしゃべりだしたのだ。
精神科病院から帰って薬局に処方箋を出した翌日。一包化にしてもらうので当日に薬をもらおうとすると時間がかかるので、翌日もらうようにしている。その道すがら、思索にふけっていると、「愛」について発想が及んだ。あまりテレビや新聞はおろかツイッターさえろくに見ない僕だが、人工知能がかなり発達しているというニュースは聞いている。東大の入試をロボットに受けさせ、6割を取っただのというニュースはまだかわいい。アイボが人工知能を搭載して新発売されたというニュースも然り。だが、恐ろしいのは、会話をするアンドロイドが、「私は人類を滅ぼす」といったようなことを口にしたことだ。
僕は人工知能が「愛」を創造することを憎んでいた。だが見方を変えれば、僕たち人間すら、神は旧約聖書のアダムとイブの逸話によるように、神だって人間を作ったのだ。そう思いたつと、僕は自分の慢心に気づき苦虫を噛みしめた。
愛は霊的なものによってしか流動しない。
霊的なものであるということは、愛は文章ですら、ことばですら、定義することはできないのだ。
更に言うと、愛は文学の時点で作られており、アンドロイドが愛を作るということを問題にする人は遅れている。「ローマの休日」での、アン王女と新聞記者の愛、あれを作られた愛と呼ばずして何というか。
さて僕の持論はここまでにして、奇怪な体験を話したい。
四月のある週、ミサでない日に教会に行く機会があった。日曜日に当事者(精神病患者)の集会があるということで、平日の暇な日を見繕って聖書を黙読しようと、障害者乗車券でバスに乗って教会に行った。
そこで牧師の××先生とスーツ姿の男性三人、そして白いワンピースを着た、美しい女性が立っていた。開け放たれた玄関口で立っていて、近づいてみると何やら言い争っているようだった。
「祈りをするのは結構ですが、主は実験道具ではありません。あなたたちは、ここに来る動機づけさえ違えれば、私は歓迎しました」
××先生はがっしりとした体格で、男たち三人を突っぱね返した。男たちはまだ若く、僕はあとから、彼らが工学系の大学院生であることが分かった。
「このアンドロイドはうちの大学のすべて工学研究の論文を結集させた最高傑作です。どうかこの『イデア』に洗礼を受けさせてあげてください」
××先生は青筋を立てた。僕は遠目から見守っていたが、僕まで殴りこみに行きたかった。先生は僕が最も慕う牧師さんで、イデアとかなんとかいうものに洗礼を受けさせるなど、僕にとっては論外であるべきだった。前述したように僕でさえ洗礼を受けていないのに、ロボットが洗礼を受けるなど、聖書を冒涜している。
「このイデアには聖書をすべて暗記させてあります。その過程で何度もバグを起こしましたがね。どうして聖書っていうのは、矛盾があるんでしょうなぁ」
「帰れ! 他の教会に行ってください!」
××先生は吠えるように怒鳴り散らし、研究員たちはイデアを連れて去って行った。驚いたのは、イデアは本当の人間の女性のように、しとやかに歩いたのであった。
僕は××先生の許へ行った。
「とんだ不信仰な者たちですね」
「いや、私も自分を見失っていた。わけのわからないものを押し付けられたこの感覚は、カルトに勧誘を迫られたときのようで、つい追い返したい一心で、あんな口調になってしまった。信心が足りないのは私の方だよ」
僕は求道者としての恥をまた噛みしめた。
当事者の集会所の、小さな家屋に行く道すがら。川の欄干に枝垂れる桜の散る様を見て、僕は一句歌いたくなった。
さみしさを
うつつにせしは
君桜
無難な句だ。僕は変な句ばかりを読むが、その八割がそれっぽい。俳句のセンスなど皆無だと分っていても、もうメモ帳にこの句を書き込んでいる自分がいる。
そのまま一本道を歩いていると。
「あ」
「あ」
薫風が僕のさみしさを掬っていった。僕は何気ない道で、あのイデアと出会ったのである。
「ご機嫌よう」
イデアの動作はまさに、桜の樹が枝垂れるようにしなやかで、僕の情感をすべて奪っていった。イデアに対する情愛の念が、この一瞬で僕のすべてのなかで芽吹いた。僕はイデアの手を取り、
「美しいものしか見てはいけないよ」
と、語りかけた。イデアは目を細め、
「ありがとう」
と微笑みかけた。僕はそのまま、イデアの手をつないだまま、公園を散歩した。
僕はイデアと一緒にベンチに座り、共に流れゆく時間を過ごした。イデアは開発途中なのだろう、自分から話題を語る機能は搭載されていなかったので、僕たちの唇には閂がかけられていた。
黄昏時になり、空に揺蕩う雲は黒々としていく。公園で遊ぶ子供たちは、兄弟や親に連れられ、去っていく。音のない静かな空間が、ぽつりぽつりと円のように造られていき、僕たちは言葉を語ることを余儀なくされる。
「いいことを教えてやろうか」
「なんでしょう」
「幸せな人間なんて、この世界に誰一人いないんだよ」
「それは悲しいですね」
「だって人間は、既に幸せなんだから」
「それは修辞ですか」
僕は肩を揺らして笑った。イデアの艶やかな漆黒の髪に、桜の花びらが一枚落ちる。
「君は、どう思う」
「幸福は人間の最上理想……いえ」
僕はイデアを抱擁していた。人間の女を抱きしめているような。生意気にも体温が人間と同じだ。人間と同じ飯を食べ、同じ病気に罹り、同じ死を遂げるのだろう。
「……私を幸せにしてくれる人は、誰なんでしょう」
僕は言葉を耳打ちした。イデアは泣き崩れた。僕が耳打ちした言葉は、霊の賜物だったらしく、今も思い出せない。僕はこの体験を××先生に話したら、洗礼を受けさせてもらえることになった。ただ、僕の傲慢は、今も潰えることはない。
了