晩夏盆(卅と一夜の短篇第14回)
境内の合歓木からひぐらしの鳴き声が聞こえた。合歓のような木にも蝉がつくのかとあらためて気づかされた。蝉というのはもっと太いしっかりとした木につくものだと勝手に思っていたが、どんな木にしがみつこうが、蝉の勝手だなと思いなおした。短い余命をどの木で過ごすか決める権利はあるというものだろう。
槙田は寺の縁側から立ち上がった。盆には麦茶のグラスがあった。その残った生ぬるい麦茶を飲みながら、造り酒屋へ行かねばなるまいと自分に言い聞かせた。酒屋の主は高校以来、槙田の三十年来の友人である。彼は酒蔵へ行かなければいけない。それが友人というものだからだ。
だが、九月の晩夏の薄暗い境内はひどく居心地が良かった。風もようやく涼しく吹くことを思い出し始めた夕暮れの薄暗がまるで槙田を優しく撫でるように包み込む。だが、その一方で部屋の隅の暗がりや庭の木が群れた向こうに何かただならぬものを感じる。
住職がやってきた。若い黒縁の眼鏡をかけた住職はずっと経机に体を向けて、写経か何かをしていた。
「どうにも僕は酒屋に行かねばならんようです」槙田は言った。
「気が向きませんか?」
「多少、気持ちが重いですね。でも、行かないといけません」
住職は槙田の後をついていき、道路へ出るところまで見送ってくれた。そこから寺の脇にある墓地が見えた。藍色の闇と蘇芳の夕空にのしかかられた宙に卒塔婆が伸びていた。石の手すりで囲った小さな墓地には地蔵が一体、掛け小屋のなかに置かれていて、お供えの煎餅が三枚置いてある。
「まだ、子どもたちは蝉を取りに来ますかね?」
「そうですね」住職がこたえた。「いつの時代でも子どもは蝉を欲しがります」
「和尚さんもそうでしたか?」
「僕は釣りでした」
「タナゴの釣れるところはここから少し遠いですね」
「ええ。でも、面白いように釣れます。今でも行きたいと思うことがあります」
「ほう。そうですか」
槙田はこの若い住職が長い首の上に置いた丸い頭に麦藁帽子をかぶり、子どもでも飛び越えられる用水路に短い一尺竿を振り出してしゃがんでいる住職の姿を思い浮かべた。
「タナゴの竿はご自分で作られたのですか?」
「まさか。売っているものを買っていました。へら竿をつくる店があって、そこがヒマ仕事で簡単なタナゴ竿をこしらえていたので、それを買っていました。作りはあっけないものでひと夏しか持ちません。一種の暦ですね。あの竿は。あれを買うころに夏が始まる」
暦と聞いて、槙田の表情が曇った。土蔵造りの酒屋の門前に置かれたキュウリの馬と茄子の牛がふと心によぎった。
「その釣り竿屋はまだやっているんですか?」
「いえ。もう店をたたみましたよ。継ぐ人もいなかったようです」
タナゴ竿がなくなっても用水路のタナゴがなくなることはないのだ。夕闇の静かな用水路。細い葉を茂らせたその縁。きらめく水面に映ろうとしては千切れる蒼ざめた月にタナゴが躍る。その様をぼんやりと眺めてみたい気がしていた。そのうち、どうして自分は子どものころ、タナゴ釣りに夢中にならなかったのだろうと思い始めた。いや、蝉取りにだって夢中にはならなかった。彼は世に言う「優等生」だった。勉強をするか、大人の薦める本を読むだけの子どもだった。もし、自分が子どものころ、蝉取りやタナゴ釣りに夢中になっていれば、今の心持ちは変わったものになっただろうか? いや、そんなこと、そもそもどう確かめるのだ?
「加賀美さんによろしく」
住職は別れの挨拶のように言った。
槙田は白いガードレールがある車道に出ると、中町のほうへ歩いていった。小さな田舎町に必ずある大きすぎるリサイクルショップがあり、丘へと消えていく産業道路をトラックが走っていく。丘の向こうにあるはずの半導体工場の空がやけに白々として見えた。もう何年も作物をつけられていない田畑が荒れ放題になっているところで道を曲がり、十分ほど歩くと、塗屋作りの並ぶ古い町へと出た。土地の和菓子を売る店が一軒あって、他は民家だった。どんどん夜へと転がり落ちていくはずの夕闇がギリギリの赤みを残すなかを歩いているのは自分だけだった。植木鉢の置いてある横道を見ても、誰もおらず、自動販売機のブーンという低く呻る音だけがきこえた。
もっとはやくにたずねるべきだっただろうか? だが、昼の明るいうちに行くと、余計に気が滅入る気がした。昼のあいだ、まだ口にしていないのに黒酒が舌を焼くような幻覚すら感じた。
「あいつはきっと黒酒を出すだろうな。普通の酒じゃなくて」
槙田は心に思ったことを口にした。
造り酒屋の妻から二年前、相談を受けたことがあった。
「あの人、狐を見たと言うんです」
「狐?」
「ええ。狐です」
「このへんで狐がいたなんてきいたことがないですね」
「わたしもです。あの人、稲荷の使いだなんて、本気なんだか冗談なんだか分からないことを言って。分かってます。きっと誠二のことがあってから、あの人は、その、何というか、こっちの世界の人じゃないみたいなことを――わかっていただけます?」
槙田には友の辛苦とそれをごまかそうとする企みがわかっていた。だからこそ、友のもとを訪れるのが気が滅入るのだ。だが、今年は行かないといけない。友情というものはそういうものなのだ。おれとお前とは友達だ、などと言葉で確認するものはいない。そんな友情はきいたことはないし、これからもないだろう。友情というのは自然と育まれる。冷たい水によい山葵が育つようなもので、素地があれば、知らぬうちに出来上がる。
それにしても、気が滅入る。
小さな文房具屋のある辻を曲がって、敷石の道を上った。あまり手入れされていない小民家が何軒か続いて、新しく普請したばかりの白々とした築地塀の連なりが見えてきた。そして、入口を兼ねる店の表も。
槙田が予想したとおり、店の前に置かれた岩を穿った水盆にはキュウリの馬と茄子の牛が立っていた。
「ごめんください」
酒瓶の並んだ店の奥から少し貧血気味にも見える主の妻がひょいと姿を現わした。
「あら、槙田さん」
「どうも、香苗さん。あいつはもう?」
「はい。蔵にいます。行ってあげてください」
松と玉砂利の中庭を歩き、板塀の向こうの蔵へと入る。蔵のなかは蛍光灯が付いているのに暗く、箍で締められた大きな酒桶が太古の偶像のように連なっている。黒酒のある酒桶の一角――そこは酒蔵の行き止まりで折り畳みのテーブルのつやが恐ろしく明るく輝いていた。電灯の加減か、ポケットに手を入れて立っている主の影が大きく脹れて、酒桶に映っていた。テーブルには黒酒を入れた瓶とコップが三つ置いてあり、酒樽をひっくり返して座布団を置いた即席の椅子が一つ、二つ、三つ。主は槙田に気がつくと、やあ、と手をふった。
「久しぶりだな」
「たまには帰らないとな」
「まあ、座ってくれ」
槙田は樽の椅子に座った。
主も対面に座った。しばらくのあいだ、言葉がなかったので、槙田は何だか、決まりが悪そうに話を振らなければいけなかった。
「東京の飲み屋に日本酒ばかり置いているのがあるんだがね、それが気取った店なんだが」
「うん」
「ここの吟醸を褒めていた。まったく。お前のとこの酒が枡一杯いくらで売ってるか知ったら、問屋に卸すのが馬鹿馬鹿しくなるぜ」
「そうか」
主は瓶を手に取ると、黒酒をコップに注ぎ始めた。
「何が売られていたね?」
「晩夏盆」その名を出すのに槙田は少しためらった。
「思い入れがあるからね。晩夏盆には」
「でも、東京の小洒落た飲み屋で、酒の名前なんか気にするやつはいないさ」
「でも、晩夏盆は出回ってる」三つ目のコップに酒を注ぎながら、主はつぶやいた。「それはいいことだ」
主は瓶の蓋をすると、コップを一つ手にした。
「今日で誠二は二十歳だ。やっとうちの酒を口にできる」
誰もいない腰掛けを満足げに眺めながら、主は言った。
「酒蔵の跡取りには違いの分かる舌を持ってもらいたいもんだ」
「そうか」
「うん、そうだ。乾杯」
主はまず槙田のコップに、次に誠二のコップにカツンと乾杯した。
槙田も同じように誠二のコップにカツンと当てた。
黒酒は舌を焼いた。心地良く抜ける香りだが、主は黒酒を世に出すつもりはないのだ。
もし、この黒酒が出回るときが来るとすれば、それは主が現実を直視できたときに他ならない。なぜ晩夏盆を仕込み始めたのか、その理由を自覚しないまま、こうして三人分のコップを用意するごまかしから目が覚めるときなのだ。
それがひどく残酷な結果しかもたらさないことは分かっていたが、槙田は今の状態が健全だとも思えない。決して減ることのない第三のコップがそう訴えている。主の妻が目に時おり見せるおびえたような光が夫を死者の世界から取り戻してくれと訴えている。
どうしろというのだろう? 表の茄子とキュウリを踏み潰し、現実を口に出して、それがより良き日をまねくと彼女は思っているのだろうか? 槙田にはそうは思えなかった。今の主の状態がいいとは言わない。だが、結局のところ、現状の静けさに甘んじるしかないことは誰もが分かっているはずだ。世の中にはもっとひどい病み方で心を駄目にしたものもいる。
結局、何も変えられないまま、槙田は造り酒屋を後にした。ぜひ泊まっていけと言われたが、もう宿をとってしまったからと言って、何とか断った。主の妻の責めるような視線もそうだが、蔵のなかに何千リットルと仕込まれている晩夏盆も嫌だった。
晩夏盆。
この名の由来も、それがもたらしている閉鎖的で病的な空間のことも知らないものたちがその酒を口にし、胃の腑へ流し込む。主はそれがいいことだと言ったが、槙田には静かな狂気を分配しているような空恐ろしい気がした。
あまり手入れされていない小民家の道を下りながら、槙田はもう一度、酒屋のほうを振り返った。主、妻、それに妙にてかてか光るキュウリと茄子が目に入った。酒屋の表が遠ざかるにつれて、槙田の心はどんどん軽くなっていった。
来年はもう行くまい。
「卑怯者と呼ばれてもいい。そう呼ばれても仕方ない」
そうつぶやき、槙田は寺のある新町のほうへと歩いていった。




