妻と子のために
よろしくお願いします。
「……ご事情はよくわかりました」とは、先ほどの騒ぎで乱れた髪を金のヘアバンドで整える美女。心なしか疲れた感じがするキャリアウーマンっぽい彼女はフッラと名乗った。
「ふぇぇ…、かわいそう…」フーリンを名乗る少女は、ボクの回想を聞いてもらい泣きしている。もちろん回想と言ってもボクが男らしくなるために修行三昧のところ、成果も出ないままに唐突に死んじゃったという事しか話してないけど。
「………」ぽけーーっとしている女性はグナーさん。…おそらく「それで、これからどうするんですかぁ?」とか考えているんだと思う。
身だしなみを整えたフッラさんはメガネをくいっと構えると「要するに、フリッグ様は現実から逃げておられるだけですね」と即断した。
「違うわ!」と反論するフレイヤさん。
ボクが「え、フリッグ? この娘はフレイヤさんじゃないの?」と小声でつぶやくと、事情を知らないボクにフーリンさんが「この方は本名はフリッグ様ですが、ヴァルキュリーの統括者としての名はフレイヤ様です」と教えてくれた。
「…他にも別館に引きこもっていらっしゃるときはサーガという名前を名乗ってらっしゃいます。ヴァルキュリーとして現場で活動なさるときはゲンドゥルを名乗られます。昔はグルヴェイクってお名前でやんちゃしておられたんですけど」
…うう。訳分かんなくなるからその辺の情報は程々にしてください。
何だか事情が分からないけど、フレイヤさんとフッラさんが口論をしている。
「奥様はご自分のお立場というものが分かっておられるのですか!? そんなにも奔放では他の女神に示しがつきませんッ!」
「ほ、奔放だなんて。もっと言い方を選びなさいよ!」
どうやらフレイヤさんはいっつも奔放過ぎて周囲を困らせているみたいだ。
「魂もタイプじゃないって、選り好みしますし」
「…だって、不潔で粗雑で乱暴で毛深いのしかいないし…」
「色んな殿方と遊びまわっていますし」
「ッッ! お友達と遊んでるだけなのに、ロキがいじわるして悪いウワサを言いふらしているだけよ! …ち、違うのっ。信じて、貴方様っ 私には貴方様だけなの!!」
「オーディン様も放りっぱなしじゃないですか!」
「オーディンなんて安楽椅子でうたた寝しているか、あちこち○徊しているお爺ちゃんじゃない! それに女性差別主義者だし! 私、大っ嫌い!!」
「そうですね。それについては同意見です」
「「「…え?」」」
「オーディンさんって誰?」とボクが呟くと、再びフーリンさんが「フリッグ様の旦那様です。しかも主神様です」と教えてくれた。
旦那様? するとフレイヤさんとオーディンさんって夫婦!?
……こんなに幼く見えるのにフレイヤさんって人妻だったのか…。ちょっとショックかも。いやいや、何言ってるんだボクは。
「…兎に角、そちらの魂について何をお考えなのかは存じ上げませんが、この館に相応しくありません。どうやら戦死なさったワケでもないようですから、しかるべき世界にお出しください」
魂ってのはボクの事っぽい。
まるで捨て犬を捨てるよう娘を諭す母親みたいだ。と、我ながら間抜けな事を想像してしまった。
「そんな事言わないでっ! 私、魔術で占ったの。そしたら今日、人間界から私が望む方がやってくるって! だから朝からずっと待ってた。そしたら…この方に出会ったの! …わたし、生まれて初めての一目惚れだったんだからぁッ!」
そう言うとフレイヤさんはひしっとボクの腕にしがみついた。
「それに…私のお腹には…既に此の方との愛の結晶も…♡」
彼女は頬を染めつつ空いている片方の手で優しく下腹を撫でている。
皆が凍り付いた。
当然ボクにも身に覚えが無い。
まさか…この世界に来てボーっとしているときに無意識にフレイヤと…?
□ 妄想 □
「…貴方様? ご気分は如何ですか…?」
「………むにゃむにゃ」
「うふふ…良く寝てる…。無理に起こすのも可哀そう…。……ごくり」
「………むにゃ?」
「…だ、だれも、見ていないわ…よね?」
「……あ♡」
□ □ □
……みたいな展開があったの!?
全然記憶にないよ!
何で起こしてくれなかったんだ!
それにしてもフレイヤさんってあんなに可愛い顔して積極的なんだなぁ…。って、いやいや、いくらなんでもそんな馬鹿な。
そしたらフッラさんが慌てて部屋を見渡している。
すると床にボクたちの食べかけのリンゴが落ちているのを見つけたようだ。
「ま、まさか」
フッラさんは蒼白だ。
「一体何だっての?」ボクが呟くと、再びフーリンさんが解説してくれた。「このリンゴは『子宝の林檎』。不妊に悩む奥様も、夫と食べれば懐妊一直線の効果を発揮するというフリッグ様の持つアイテムです」
なにそれ。
いくらなんでもリンゴ食べて即妊娠だなんてそんな……はは。
「…あっ? うぁっ……ッ うぅ…」
するとフレイヤさんはボクの腕に絡めた腕を離し、両手でお腹をかき抱いた。
ちょっと…いやかなり苦しそうだ。
「フレイヤさん、大丈夫?」
「フリッグ様!」
「「奥様っ!?」」
皆が心配するのは1分も満たなかったかも知れない。
フレイヤさんのお腹に添えた手…指の隙間から黄金の光が滲み出るように漏れ出すと、間もなく可愛らしい赤子が自然とフレイヤさんの腕の中に現れた。
産まれたばかりだというのに、すでに血色の良いふくよかな赤ちゃんだ。
「…え、えーーっと?」
「産まれたわ! 貴方様、私たちの赤ちゃんよ! うわ、なんて可愛い…! 私、この子の為ならなんでもしてみせるわ!」
「奥様ーーっ! 私にも抱かせてくださいーーっ!」
きゃいきゃいとはしゃぐフレイヤさんとフリーンさん。
眉間に深い縦皺を刻みながら考え込むフッラさん。
相変わらずボーっとしたグナーさん。
ボクは…一体何が起こっているのか皆目見当がつかないし、ついていけなかった。
とにかく、途轍もない事が起こっている気がしてる。
だって…リンゴ食べただけなのに…いきなりこの展開は…ボクの想像を超えているっていうか…?
・
・
フッラさんは呆れ半分、怒り半分で自分の主を責める。
「……フリッグ様、ご自分がナニをされたかご理解してらっしゃいますか? オーディン様との夫婦生活…別居が長すぎるのは今更とやかく申しませんが、未だにオーディン様との間に子供すら儲けていないではないですか! それなのに出会ったその日に別の魂との間に子を儲けるだなんて!」
フレイヤさんも負けてない。
「…オーディンとは政略結婚で、今はあんなんだしっ。それに私の周りにいる連中って変なのばっかりで…。…私、私…寂しかったんだもん! …貴方様、この館でこの子と一緒に、ずっと、ずーっと私と暮らしましょ? ね? 何処にもいかないでっ!」
「…既成事実…ですね。子は鎹」
我関せずなグナーさんがぼそっと呟いた。
そしてボクは…フレイヤさんの腕の中の赤ちゃん…ボクの事を瞬きもしないままジッと見つめている可愛らしい赤ちゃんを見やる。
「……出会ってその日のうちに…、…父親。……しかも相手は主神の妻で…女神様」
正直、ワケがわからなかった。
だけど、ボクの事を縋りつくような瞳で見詰めてくれるフレイヤさんの事を考えると、ここで二の足を踏むのは男じゃないと思ったんだ。
そうだ。
「女の子よりも女の子みたいな顔してる」「私よりも可愛いカレシなんて嫌!」と、保育園の頃から女の子にフラれ続けてきたボクに、ようやく春がやってきたんだ!
しかも相手はボクなんか及びもつかない絶世の美少女…女神様。
相手が人妻っていうか、主神さんの奥様ってところがいまいち不安ではあるけど、女の子がボクの事をここまで慕ってくれて、しかもボクの赤ちゃんを産んでくれた(?)んだ。「フレイヤがオーディンさんと別れない限り、ボクは愛人ポジションなのかな」とか「神様って一妻多夫OKなのかな」とかウジウジしてたら本当に男じゃないっ!
そうだっ。
ボクにはフレイヤがいるんだ!
相手が人妻だからって何だ!
フレイヤさんはボクを求めてくれている!
ボクが腹を据えなくてどうするんだ!
男を示さなきゃ!
ゴクリ。
「…ふ、フレイヤ。こんなボクでよかったら…。キミの事…ずっと大事にするよ」
「…嬉しい。嬉しいわ、貴方様…♡」
ボクとフレイヤは赤ちゃん越しに抱き締め合ったんだ。
そしてフレイヤの肩越しに三人の侍女神たちがナニか相談をしているのがチラリと見えただけど、そんな事を気に掛ける場合なんかじゃない。
ボクの腕の中にはボクの子とボクを愛してくれる女性がいる。
「あうぅ。ばぶぅ~」
フレイヤの腕にいる小さな生命は手足をモジモジさせていて愛くるしいことこの上ない。
ボクの手をその小さなお手てでペチペチ叩きながらとても幸せそうに笑っている。
ボクは…全てが唐突過ぎて戸惑いしかないけれど、それ以上に幸せだと感じられたんだ。
・
・
するとボクたちの幸せを現実に引き戻すかのように、フッラさんは「オホン!」と咳払いをした。
そしてボクを一瞥してからフレイヤに向かう。
「……しかし奥様、重大な問題がございます。よもや知らぬ存ぜぬ済ますおつもりではありますまいね?」
深刻な声色を隠そうともせず、非難がましい様子でフッラさんはフレイヤに問いただす。
「え、何か言った?」
フレイヤは我が子――バルドルと名付けたようだ――をあやすのに夢中で、彼女の問いかけなど気に留める様子もないみたいだ。赤ちゃんを中心に幸せオーラを周囲に撒き散らしている。
「このままではお子様は父なし子になってしまうという事です。解っておいでですか?」
ピタリと硬直するフレイヤ。流石に聞き捨てならなかったようだ。
「な、何言ってるの? 既に此方様は私の夫。どんな不幸や障害からも私が守ってみせるわ!」
何だかボクの知らない重大そうな話が進んでいるけど、この言葉は純粋に嬉しかった。でも守られるっていうのもかカッコ悪いな。ヒモみたいだし。
「それは重畳、と、申し上げたい次第ですが、しかしながら此の方は不慮の事故によって人間界よりいらっしゃったのでしょう? では本来なら天界広間か霧国に行かねばなりません」
「フッラ…。貴方は、よりにもよって私の夫はニヴルヘイムが相応しいというの? あの陰険で半分腐ったような女の処なんてふざけるんじゃないわよっっ!! なんて残酷な事を…。どうせ未婚の貴方には新妻の気持ちが解らないのねっ!!」
フレイヤが声を荒げるとフッラさんも負けじと大声を上げる。
「ッッ!! 私にご縁がないのは誰のせいだとお思いですかっっ!! 奥様の尻拭いがどれ程大変か…。……失礼。取り乱しました。しかし、残念ながら現実には此の方は天界広間もしくは霧国に行かなければならない運命にあります。それはこの世界の原則なのです。フレイヤ様も当然ご承知かと存じ上げておりましたっ!」
「ほにゃあ…」
あ、フレイヤたちの大声で喚きたてるもんだから赤ちゃんが泣いちゃう!
ボクはフレイヤからバルドルを預かり、見よう見まねであやしてみた。
バルドルは、ボクの胸の辺りをむずむずしている。
おっぱいを探しているのかもしれない。
…ううっ。ボク、女の人じゃないから…。
そうこうしている間、何だか分からないけれど、フレイヤとフッラさんの間で緊張が高まっている。
「…………!」
「…………!」
怖い…。
美人が怒ると本当に怖い…。
険しい表情で激怒しているフレイヤに対して、冷静に激怒したフッラさん。特にさっきの行き遅れは禁句のようだ。
そしてフレイヤは重々しく呟いた。
「………何か、打開策があるのでしょう? …無かったら許さない」
「なんの。簡単な事です。此の方にはこれから異世界にて戦っていただき、魂を戦士のそれに昇華していただくのです。そして勇者ともなれば館に留まることはもちろん、フレイヤ様のお近くに侍っても何ら不都合ございますまい。更に戦争の際に、フレイヤ様の満足いく戦士を集中的に斃してしただければよろしいかと。此の方が赴く異世界に、御付きとして戦乙女を何名か派遣してみるのは如何ですか?」
フーリンさんの説明によると、この世界にはルールがあるらしい。
フレイヤ(もしくはオーディンさん)の身元に行けるのは戦争で栄誉の死を遂げた戦士に限られる。
つまり勇敢だった戦士さんは戦乙女さんにつれられてアースガルズに来れるのだという。
だけど戦死ではない善良なる魂は主に天界広間ってところに、邪悪なる魂は霧国や死国に集められるんだって。
「…ここだけの話、本来なら戦士の魂は奥様とオーディン様とで半々に分けるのですが、奥様があまりに選り好みするのでオーディン様の宮殿は戦士で溢れかえっているのです。戦士達は昼夜を問わず宴会三昧。給仕役のヴァルキュリーは慢性的に人手不足で、此処からも派遣している状況なのですが、それでも足りず、働く者たちは色々と過労死寸前な状況です」
ぽしょぽしょと説明してくれるフーリンさん。オーディンさんの宮殿はブラック企業らしい。そりゃあ主が寝てるか徘○していて、客人たちが毎日二十四時間ぶっ通しで宴会なんて、さぞかしカオスな職場なんだろうな。
「…キミはむしろ不貞を働いたのだから、天界よりも霧国行きの可能性が大」
唐突にポツリとグナーさんが怖い事を言う。
でもさ、落ち着いて考えてみる以前に、そもそも不貞って何の事?
ボクとフレイヤが相思相愛っていうか、殆どお互い一目惚れ的に結ばれた訳だけど、世間一般からしたら、もしかしてボク、間男扱い?
リンゴ食べただけで、主神の妻を寝取ったことになるの?
…理不尽すぎる!
「………確かにそれしか方法がないようね。…ううう。新婚早々、とてもつらいけど…。私が夢見ていた愛する旦那様と可愛い赤ちゃん…、水入らずの生活の為には…」
…何だかボクの存在を全く無視してどんどん話が進んでいく。
「お願いっ 貴方様っ! これから異世界に戦いに赴いてほしいの! そして勇敢に戦って…勇者として相応しい魂となって私を迎えにきてっ! 私ずっと待ってるからぁっ!!」
(それはつまり言外に戦死してこいって事なの?)
「大丈夫です。それにどうやら貴方は武術を嗜んでいらっしゃるご様子。下地は万全です。私共も強力な武具などでご助力いたします。とうかご健闘を」
(ボクに検討する時間は与えてくれないの?)
「お子様方は私がしっかり面倒見ます。こう見えて人間の守護が本職ですから子守は得意なんです。心配なさらず単身赴任してきてください!」
(ボクの事も守護して欲しいよ…)
「…私はフレイヤ様がお決めしたことを、遅滞なくお伝えすることがお役目。…頑張って」
(つ、使えない)
もしかするとさっきフッラさんたちがナニやら相談していたのはこの事だったのかな?
体よくボクの事を追い出すつもりかもしれない。
いや、疑っちゃダメだ。彼女たちはボクがこの世界に居られるように知恵を絞ってくれたに違いない。それにフレイヤも「それしか方法がない」っていってたじゃないか。
だけど、本当に戦死しなくちゃ勇者になれないのかな?
女装男子のイメージは今更どうしようもないから、何処か違う高校に転校して、そこで部活動頑張れば…。
「あ、あのさ、ダメもとで聞くけど…。異世界とやらに行けるなら、ボクを生き返らせてくれて、元の世界の武道の大会で優勝するとかはダメなの?」
「ダメです。自らの誇りと生命を賭けて、生と死の狭間で敵を屠ること。その果てに力尽きてこその戦士なのですから。試合…疑似戦闘で頂点に立つなど論外です!」
「斃す敵については質とか量とか色々ですけど、「精一杯頑張った」っていう達成感も大切ですよ」
「………何も考えず、がむしゃらに戦えば良いと思う」
「貴方様、可愛い幼妻の為にいっぱい敵をやっつけてきてねっ♡」
やっぱりダメかぁ。
でも少しはボクの意見を聞いてくれたっていいじゃないか。
…そりゃあボクは一介の魂(?)だし、女神様のお決めになった事にとやかく意見する立場にないと思うけど、素直に「はい、解りました。ボクは主神様の妻であるフレイヤ様を妊娠・出産させてしまった責任をとって、これから異世界に出かけて、戦争して、たくさん殺して、最後は殺されてきます」というのは理不尽極まりないと思う。
彼女たちはボクのことが好きであったり、あるいは主人であるフレイヤの我が儘の後始末という意味で、自分たちなりにボクの事を理解してくれてはいるとは思うけど、事情を知らない人たちからみればボクはルールを逸脱した悪い魂なのかもしれない。
無論、地獄なんて行きたくないし、ここは彼女達の提案に素直に従う事一択しかないのは理解してる。理解しているんだけど…。
「……あの、」
ボクが口を開こうとすると、ノックと同時に、のそりと巨躯の人物が部屋に入ってきた。
素人目にも上等であると解るドレス。この巨体を覆うドレスを仕立てるの一体どれ程の生地が必要だったんだろう。ゆったりとしたドレスに隠された肉体の様子はわからないけど、そこからのぞく剛腕と剛脚がら容易に想像できる。惑うことなき戦う者の肉体だ。
でも身にまとうのは何故か鎧ではなく…ドレス。
恐る恐る顔を見上げると、キューティクルな美しい赤髪をたたえ、無理やり整えられた剛毛眉。白過ぎるほど白粉が塗りたくられた肌。
過剰なまでの付け睫毛。
とどめに赤い口紅がおぞましいまでに似合う人物。
例えるなら宴会芸にて女装させられた荒くれ海賊のような…。
それでいてギャグマンガにも出てきそうな、オカマバーのママみたいっていうか…淑女然とした表情をした怪異だった。