第0章「預言」 第1章「退屈と期待と魔人」
『―――醜く黄ばみし厚き雲が空を覆い、その割れ目から血に染まりし満月が顔を出しけり。三千世界の魔王は静かに慟哭し、大地を切り裂けり。神より詔を賜ひし者、これを貫けり。これ、この世のさだめなり―――』
(『神の四書』「預言者タイバル書」第12章第6節)
青年は帝都ファルティオンの北方にそびえ立つワリナヴァル宮殿の回廊を、自分が着ている甲冑の重さに耐えながら歩いていた。彼はこのユーフィリアという帝国に10年間仕えている騎士である。18歳の頃に皇帝に叙任されてから、時に他国の兵を殺し傷つけ、皇帝の遠征に護衛として同行し、市民の税金を食いつぶす肥え太った役人及び他国からはるばるやってきた役人や商人を護り、自他ともに認める剣と拳闘の技術を磨いて発揮する。そんな生活を彼はずっと繰り返してきた。飲酒の頻度は上司や部下との付き合い程度で、喫煙はしない。食事は皇帝の残飯や騎士達の集う食堂、そのいずれかが不可能な場合には近所の商店で売られている葡萄酒とパンを一斤、近所の官吏未亡人からおすそわけされるキュウリとキャベツの漬物、そして塩で味付けしたステーキで済ませていた。金遣いは人並みで2週に1度娼館に通う。年収600万ゴールドで家賃は月8万ゴールド。ユーフィリア帝国の騎士の一般的な生活水準である。
彼は自分が騎士であるということに誇りを持っている。しかし、彼は時々この生活を退屈だと思っていた。戦い、遠征、要人護衛…その繰り返し。騎士の仕事はユーフィリア帝国で人気の高い職業ではあるが、それでも同じようなことを10年間もしていると飽きがきてしまうものである。
彼は刺激を求めていた。
刺激。それこそ命が危険にさらされ、絶体絶命に陥るような―――今までにも生死の狭間をさまようことはあったが、彼はそれにすら物足りなさを覚えていたのだ―――後の見えない刺激。
彼はそれを渇望していた。だが、ここ5年の間に帝都は目立った戦乱はない。一度、刀剣工場で使われていた奴隷の一団が自分達が作った『製品』を持ち出して反乱を起こしたことがあった。奴隷達は工場長の5歳の息子を人質に奴隷解放を求めてワリナヴァル宮殿へ行進した。しかし、宮殿まであと数十キロのところで待ち構えていた憲兵の一団―――彼らは騎士達よりも装備が薄かった―――により全員捕縛され、首謀者5人が絞首刑に処され、残りの者達は投獄、国外追放となった。憲兵団が半日のうちに解決したこの事件に騎士の出番などあるはずがなかった。騎士が出動するまでもなかったのだ。この事実は彼を苛立たせた。帝国内での奴隷による反乱など、彼の28年間の人生の限りでは1つも事例がなかった。彼にとってこの反乱は自分がこれまで目の当たりにすることがなかったことに触れられるチャンスだったのだ。
(それをたかが憲兵風情がかっさらいやがった………)
騎士―――アーサー・ブレイドヤードは強く足踏みした。
乾いた金属音が鈍く夜の回廊に鳴り響く。やがて深くため息をついてアーサーは再び歩き出した。騎士には皇帝に謁見できるという特権がある。自ら皇帝に申し立てに向かったり、皇帝直々に勅命を賜るということが可能なのだ。彼はまさに勅命を受けに行く真っ最中であった。
3時間前のことである。自分の下宿で寝ていた彼は急に大家に叩き起こされた。溜まっていた事務作業―――税金に関する書類の整理、剣が折れたり鎧が壊れたりした際の始末書作成、請求書や領収書の整理など騎士にも紙とペン、拇印を使わなければならない時がある―――それがやっと終わり3日ぶりの睡眠に浸っていた彼は、邪魔をされた怒りのあまり、今月分の家賃はとっくに払ったというのになんだというんだ、俺は眠りたいのだ、邪魔をするなら斬り殺してやると声を荒げてしまった。落ち着いて話を聞いてみると、皇帝陛下の使いを名乗る者達が自分に宮殿まで来てほしがっている、しかも皇帝陛下直々に頼み事があると言っていると言う。彼は不審に思った。これまでにも皇帝の勅命により宮殿に呼び出される事はあったが、こんな夜中に叩き起こされるということは10年間1度もなかったからである。
(もしかすると陛下は何か重大な任務を俺に託してくださるのかもしれない)
アーサーの胸は燃え上がった。彼は今まで現在の退屈な状況に対し、悲観的になっていた。それがどうだろう。自分が今、深夜にここにいる理由、宮殿の回廊を歩いている理由を改めて考えてみることで希望が湧いてきたのだ。長く仕えてきた皇帝が自分に『刺激』を与えてくれる、退屈な状況から解放してくれる。そんな予感に心を踊らせた。
そのうちに彼は、金で縁取られた大きな扉の前へと辿り着いた。扉は槍を持った2人の衛兵によって護られていた。大理石で作られた扉には聖典の場面に基づいたレリーフが施されている。その場面は顔のない人間が剣を持ち、怪物を突き貫いているデザインだった。彼はそれに目を見張った。
(確か、何とかという預言者の話に出てくる場面だったか)
彼はあまり信心は深くない。子供の頃、毎週日曜日に両親に連れられて教会に行っていたが、当時は―――というよりは今も―――分厚い黒縁眼鏡をかけた皺だらけの司祭が聞かせる説教の意味など考えず、ただ早く終わってほしいということと説教の後にシスターから貰えるチョコレートのことだけを考えていた………無論、成人した今ではチョコレートなどもらえないが。だから、聖典の内容は英雄が怪物を倒したなどという話以外は覚えていなかったのである。
(預言者云々の話は飛びぬけてつまらなかった記憶がある。だからこの顔のない奴の話も他のつまらない話に埋まって忘れたんだろう)
そんなことを思っているうちに衛兵が彼に話しかけてきた。アーサーはその男達を繁々と見つめた。見たことのない男達だった。
「待て、貴様は誰だ?」
「七星騎士団所属、アーサー・ブレイドヤードです」
「何か身分を証明できる物はないか?」
「証明できる物?………自慢話をするようで申し訳ないが、私は騎士団の中でも武勲を多くあげていましてな、この宮殿にいる方々にも顔と名前は知れ渡っているはずなのですが」
衛兵は苦笑した。
「そうは言われても………これは決まっていることなのだ。皇帝陛下に呼ばれたと偽って暗殺を謀る者がいるかもしれないからな」
アーサーはそれを聴くと、目をつぶって答えた。
「そういうことですか。陛下から授かった刀剣が証明になりますかな?私はこれと共に様々な死線を潜り抜けてきたのでございます。皇帝一族の紋章が刀身に刻まれておりますゆえ、きっとわかるはずです」
彼はニヤリと笑い、剣を抜いて衛兵に示した。衛兵はその銀色に輝く剣を眺めて感心する様子を見せる。
「なるほど、確かに陛下から賜った剣のようだな」
「ご理解いただきありがとうございます。ところでその剣には紋章だけでなく、私自身のイニシャルである『A. B.』も刻まれているのです。なかなか精密ですよ、ぜひ見ていただきたいですな」
衛兵はうなずき、刀身に顔を近づけた。が、彼がイニシャルを目にすることはなかった。
その瞬間、彼の頭蓋は斬撃により宙を舞っていたのである。
「貴様!!この人殺しめ!!」
もう一人の衛兵が槍を鎧を着た男に向けた。男は臆することなく高らかに笑った。
「人殺しだぁ?こいつが人間だってのか?馬鹿言ってんじゃねえよ、それじゃあこの鎧についた青いのはいったいなんなんだ?」
男の鎧には青い液体がべったりとこびりついていた。
男に槍が向けられた瞬間、先ほどの頭蓋が音を立てて床に落ちた。頭蓋の首元からは青い液体が流れていた。
「あんまり人間様をなめない方がいいぜ?ちゃんと知ってるんだよ、てめえら魔人族には真っ青な血が流れてるってなあ」
アーサーは挑発的な目つきで目の前の生き物を見据えた。
生き物はずっと彼を見つめていたが、やがて先ほどの彼と同じく高らかに笑い出した。その口から黒い煙が吐き出され、生き物の体を覆った。煙の中から異形の生き物が姿を現した。
「うへえ……」
アーサーはぼやいた。
「人間に化けてたと思ったら、今度は蝶と蠍のキメラかよ!魔人族ってわけわかんねえな!」
魔人は口元を大きく歪めて問いかける。
「フフフ…人間よ、ナぜ我ラガ魔人族でアると見破っタ?」
アーサーは黙って剣を大きく横に振った。そして魔人に答えた。
「まずなあ、お前ら最初に俺が皇帝陛下に謁見に来たと見抜いたろ?そっから怪しいと思ったね。それと…さっき言った武勲を多く立てたってのは本当のことでよ、それで陛下に認められてよく参上してるんだわ。宮殿の人達に顔も名前も知られてるってのはそういう事。んでさ、陛下はこの部屋の中に70人も兵を置かれてるのよ、自分を護らせるために!戸口に番兵なんて立てたことなかった。それで偽物ってわかったのさ」
魔人はそれを聴くと大声で笑った。
「ハハハ!!大分アの皇帝に信頼サれているようダナ!ダガ、そんナめぐマれタ人生ももうおしマいダ!タマタマこいつハ殺せタガ、俺ハそうハいカん!扉の中の奴ラと共に地獄へ送ってヤるぞ!!」
魔人は宙へ大きく跳躍し、槍の先をアーサーに向けて急降下した。しかし、その最中ある不自然な事実に気付いた。
死を宣告されたというのに………この男はまだ笑っているのだ。
男は嘲笑の笑みを浮かべながらつぶやいた。
「おいおいおい、暴れんな。ただでさえゼロに近い寿命がもっとなくなっちまうぜ?」
魔人はその男の言うことが理解できなかった―――生きているうちに理解できなかった―――。
「うガアアああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」
禍々しい叫びと共に魔人の体は2つに分かれた。割れ目は丁度、アーサーが右腕を前に真っ直ぐ伸ばした時の位置であった。
「あーあ、だから言ったのによ。『寿命がゼロになっちまう』って。………畜生、鎧も髪の毛も汚れちまったぜ………でもま、久々にテンション上がったしよしとするか!」
アーサー・ブレイドヤードはそうつぶやき、異形の血に塗れて高らかに笑っていた…………。