超能力者、趣味は読書(後)
アジトの一室で、少年はソファにだらーとすわってテレビの中の芸能人のおしゃべりをながめていた。やがて番組がコマーシャルに入ると、そばに放り出してあった電子書籍の端末をつかんで、気のない様子で目をとおす。が、ふいに目を見ひらくと、食い入るように端末に表示された文章に見入った。読みながら立ち上がり、どたばたと部屋をとびだす。廊下を駆け抜け、広々としたホールの中へ。いつもはがらんとして静かなその場所は、今日ばかりは人と物でごったがえしていた。あるいは火器の最終点検をし、あるいは瞑想して精神の集中を高めているその☓☓人の男女こそは、わずか☓時間後にせまったテロのために全国から集められた超能力者の精鋭たちであった。少年が駆け込んでくると、作業を監督していた男が声をかけた。スーツの袖に腕をとおさず、肩にはおっている。読者のみなさんはお気づきであろう。無腕の超能力者・香川晃太である。
「なんだ、騒々しい」
少年はせわしなく駆け寄ると、端末を見せてまくしたてた。
「ボクの電子書籍に動きがありました。さっきちょっと見てみたら、やつらのこないだの電話の場面のあとに「これといった事件もなく数日が過ぎた」っていう文章が増えてて、あっと思ったときにはまたボクたちのいまの様子が表示されはじめてました」
着々と記述がふえてゆく端末の画面にちらりと目をはしらせて、香川はしぶい顔をする。
「この大事なときにか。まあやむをえん。打ち合わせどおり伏せ字をやれ」
「もうやってます。でも、やっぱりあの野田一平ってやつをなんとかしたほうがいいんじゃないですか」
「ほうっておけ。そいつは結局伏せ字をもとに戻せなかった。こっちの情報が漏れないようにおまえがしっかりやれば、むこうはどうすることもできん」
「でも不愉快なんですよ、ボクのほうが優れているとはいっても、同じ文章を読めるやつがいるっていうのが。ねえ、やりましょうよ。人手をさく必要はありません。あんなやつボクひとりで楽勝です」
香川がじろりと少年を見た。とたんに少年は見えない手に襟首をつかまれて宙に吊り上げられる。喉をおさえて足をばたばたさせるが、見えない手の力はまったくゆるまない。
「余計なことはしなくていいと何度言わせる気だ。それから、われわれが超能力者のより良い未来のために戦っているのだということを忘れるな。自分一人の感情にまかせて勝手な行動をするなど、もってのほかだ」
言い終わった香川が背をむけると同時に、少年は床にくずれおちた。だれかがあざけりの笑い声をあげ、少年は屈辱に顔を赤くする。去ってゆく香川の背中をにらみつけ、かすれ声でつぶやいた。
「勝手なもんか。これはボクの能力だ。ボクのものだ。あんたにはわかりゃしないよ」
そして、決意を秘めてささやいた。まったく音を出さず、唇の動きだけで、ここにはいない相手にむけて。
「見てるんでしょう、野田一平さん。ボクの名前は香川進一。「人類の輝かしい未来を切り拓く会」のメンバーです。今日の午後三時ちょうど、「切り拓く会」は万代市でテロを行います。攻撃目標は県警本部、市役所、法務局庁舎です。警戒をおこたりなく」
まぢかにせまった作戦の準備に没頭する「切り拓く会」のメンバーたちは、誰ひとり少年の暗い笑みに気づかなかった。
放課後になった教室で、野田一平はあの本を出現させた。クラスメートはみな一平の超能力のことを知っているので、気をつかう必要はない。ページをぱらぱらとめくってたしかめると、新しい記述が増えていた。ここ数日まめに本の内容をたしかめるようにしていたのだが、入浴中のアキラと電話で話す場面を最後にぱったりと筆が止まっており、一平はやや気がゆるんできていた。今日の授業がぜんぶ終わった解放感もあって、鼻歌をうたいながら目をとおす。読みおわったときには鼻歌どころか息をするのも忘れるほど緊張していた。教室の壁の時計を見る。午後三時〇五分!
ふるえる手で携帯電話を取り出し、発信ボタンを押そうとして一平はためらった。人の目も耳もある教室でしていい話だろうか。どこかひとけのない場所に移動しようと椅子から腰を浮かしかけたそのとき、手の中で携帯電話がぶるぶるとのたうち、あやうく取り落としそうになった。画面にはアキラの名前。不吉な予感に打たれながら、一平は通話ボタンを押す。こんにちはも言い終わらないうちにアキラの大声。
「一平君、今日これから店番たのめる?」
「え、あ、はい、だいじょうぶです」
「悪いね突然で。それじゃよろしく」
「あ、あの、ちょっとお話が」
「ごめん今いそがしいんだ。万代市で超能力テロがあったらしくてさ、オレも行かないとならないんだ。悪いけどまたあとで」
返事をする間もなく切れた。一平は暗澹とした気分で物言わぬ携帯電話を見つめる。本に書かれていたテロの計画をアキラに知らせようとしたのだが、まにあわなかったようだ。一平は本を消して荷物をまとめると、重い足どりで教室を出た。
佐藤商店は、いかにも大いそぎで閉めましたといった感じにちらかっていた。一平は手ぎわよく店の中を片づけると、いつものようにレジのうしろにすわって、持参の文庫本をひらいた。本日の一冊は『しろがねの転校生』。超能力をもつ少年少女がかよう学園を舞台にした物語だ。クールなヒーローにけなげなヒロイン。二人のまわりのクラスメートたちもそれぞれわかりやすい個性をもっていて、悪くいえばありきたりな内容だが、気楽にたのしめそうだった。だが、中盤に入って主人公たちが超能力者どうしの抗争に巻き込まれるに及んで、一平は読むのを中断した。いまのこの状況でこの物語を心おきなく楽しむことはできないと感じたのだ。もっと落ち着いてからあらためて読んでみようと思う。
『しろがねの転校生』を片づけて、一平は空中から本を取り出した。めくってみると、文章がまた増えている。えがかれているのは、放課後の電話の一部始終と、そのあとの現在の店番のようすだ。ながめているうちにふと不安を感じて、一平はもういちど最初から本の記述を読み返した。万代市のテロはもう起こってしまったが、一連の事件はこれで終わりではなく、まだ何か起こりそうな気がする。数多くの小説を読んできた一平の目には、『超能力者、趣味は読書』と題されたこの文章の山場はこれからなのではないかと思えてならないのである。明に電話して相談してみようかとも思ったが、仕事の邪魔になっては申し訳ない。じっとしていられずさりとて店番をほっぽらかすわけにもゆかず、貧乏ゆすりで気をまぎらわしているところへ、カラカラと戸がひらく音がした。
「うわっ!」
物思いにふけっていた一平はおもわず大声をあげてしまう。店に入ってきたのがたったいま考えていた明だったからよけい驚いた。
「やあ一平君。どうした、そんなに驚いて」
「あ、すみません。ちょっとその、考えごとをしてたもので」
明は戸を閉めてレジのところへやってきた。やや声をひそめて言う。
「万代市の件は聞いたかい」
「はい、あ、いえ、あまり詳しくは」
「爆弾と超能力で、同時多発で何カ所も攻撃をかけてきたらしい。市役所と県警と、あとどこだったかな。本当の標的は市役所にいた市長だったみたいだけど、それはこっちも予想してたから防げたという話だ。でも巻き込まれて亡くなったひとも何人かいる。……たぶん「切り拓く会」のしわざだろうな」
「「切り拓く会」のしわざです」
一平が断言したので明は不審そうな顔をしたが、本に記された文章を見せられると納得してためいきをついた。
正式名称を「人類の輝かしい未来を切り拓く会」というこの団体は、超能力至上主義の過激派である。超能力者が人類を支配して導くべきだという理念をかかげており、穏健なJESPOとはすこぶる仲が悪い。これまでも政界や財界の要人を狙ったテロを起こし、それを防ごうとするJESPO所属の超能力者と何度も衝突している。
「今回の件でまた超能力者への風当たりが強くなるだろうな。困ったもんだ。市長を護衛したのも超能力者なんだけどね、JESPOの」
一平はあまり経験していないが、世の中には歴然と超能力者差別が存在する。「切り拓く会」ももともとはそうした現実を正そうという運動から生まれたらしい。それが今やテロを起こして、かえって超能力者が住みにくくなる原因を作っているのだから、本末顚倒であった。
「ところで明さん、仕事はいいんですか」
「おっ、そうだったな。用事で近くにきたついでにちょっと寄ってみただけなんだ。もう戻らないと」
現在は午後四時すぎ。まだ勤務時間である。明はきびすを返しかけていったん立ち止まり、鞄をあけた。
「そうだ、これを貸しておくよ。こないだ言った『時の門』を持ってきたんだ」
鞄に手をつっこんでがさごそと探る。と、その手がぴたりと動きを止め、手だけでなく全身がこわばった。一平は一平で自分のかばんから本を取り出しているところだったので、明のその様子には気がつかない。
「あ、僕もこれ、お貸ししようと思って持ってきました。『移動都市』っていうんですけど……」
反応がないので一平は明の顔を見上げた。明は真剣な面持ちで鞄に手をつっこんだまま微動だにしない。
「あの、明さん?」
「え? あ、うん。『移動都市』か、題名は知ってるけど、読んだことはないな。うん、ありがとう」
明は自分も鞄から本を出しかけたが、何を思ったのかまた中に戻してしまった。一平の差し出した本を受け取って、慎重な手つきで鞄にしまう。
「ええと、『時の門』は……、うん、あとで貸すよ」
「はあ?」
「いや、気にしないで。あ、ちょっと電話かけてくるから」
明は急ぎ足で店を出てゆき、表で携帯電話を出してしばらく話をしてから戻ってきた。レジの脇を通り抜けて奥の茶の間に上がり込む。
「明さん、仕事は?」
「ああ、ちょっとその、なんだ、疲れたから早びけすることにしたんだ」
一平は首をかしげた。なんだか明の態度がおかしい。ふと思いついて例の本をひらいてみた。たったいまの明とのやりとりがそっくり書き出されている。文字になるとますますよくわかるが、やはり何かおかしい。まちがいなくこれから何か大変なことが起こる。そう感じながら一平はまたぞろ貧乏ゆすりをはじめるのだった。
一平だけではなく、明もずっとそわそわしていた。奥に上がったかと思うと戻ってきてレジのまわりをうろうろし、ときどき表に出て道路のかなたをうかがったりしている。明が来てからの一時間ばかりのあいだに客は二組、お醤油を切らしちゃってという近所のおばあさんと、学校帰りにアイスを買い食いしに寄った女子中学生の三人組があったが、表のガラス戸がカラカラと音を立ててひらくたびに明はあからさまに警戒し、客の顔を見て力を抜くのだった。いったいどうしたのかと問いただしてみても、口をにごして答えない。一平の不安はつのるばかりである。
五時一分まえだった。店の前にタクシーが停まって、一人の少年が降りてきた。見ない顔である。十二三歳ぐらい、ジーンズにパーカーというラフないでたちだ。タクシーが走り去ると、少年は店の中に顔をむけてにっこりと笑った。一平の背すじにふるえが走った。暗くてさむざむしい笑顔だったのだ。その笑顔のまま、少年は店の正面のガラス戸をあけた。明がものも言わずにレジの前に出て、ゴールキーパーよろしく少年にむかって身構えた。
「ちょっと明さん、なにやってるんですか」
明の背中に問いかけたが返事はない。なんとか首をのばして明のわきのしたから少年のようすをうかがった一平は、少年がパーカーのポケットから拳銃を取り出すのを見ておもわず目をみはった。それはどう見ても正真正銘の本物に見えた。なによりも、それをただのおもちゃだと思い込むには、少年の目のぎらぎらした光が剣呑すぎた。
少年は後ろ手にガラス戸を閉めると、ゆっくりした足どりでレジに向かってきた。銃口はまだどこにも向けられていない。明の三歩前で立ち止まると、その背後の一平にほほえみかけた。
「はじめましてと言うべきですかね、野田一平さん。ボクは香川進一です。おぼえていてくれましたか」
「香川進一……? あっ、もしかして」
その名前はついさっき見たおぼえがあった。思い出した一平の目の前で、香川進一と名乗った少年は拳銃を持っていないほうの手を空中に差し伸べた。その手の上に忽然と現れる、一台の電子書籍の端末。本と電子書籍とのちがいがあるとはいえ、それはあまりにも見慣れた光景だった。一平はおもわず息をのむ。
「それで君はここに何をしに来たんだ? JESPOに入りたいなら歓迎するぞ。ただ、そのピストルはさっさとしまってもらいたいがね」
明が言うと、進一は鼻でわらった。無造作に拳銃の銃口をあげ、明のわきのしたからのぞく一平の顔に向けようとする。一平はあわてて顔をひっこめた。最初に拳銃を目にしたときから進一の目的はうすうす察していたが、いざとなるとやはり体がふるえあがった。明がうめく。
「やっぱりそうか。だがどうして一平君を殺そうとするんだ?」
「わかりませんか」
同じ文章を読むことができるやつがいるのが不愉快だから。例の本には、進一が自分の気持ちをそう語っている箇所がある。だが一平には理解できなかった。ふつうは同じ能力をもっている者どうし親睦をふかめたいと思うものではないだろうか。
「ひとつたしかめておきますが、野田さん、この電子書籍の文章は……野田さんにとっては本の文章ということになりますが、いったい誰が書いてるんだと思います?」
それは一平もかねがね疑問におもっていた。いくら考えてみても、自分の作文ではないということ以外なにひとつわからない。そもそもこの文章は、ほんとうに誰かが書いたものなのだろうか。地面に草が自然に生えてくるのと同じように、一平の本のページの上に自然に立ちあらわれてくるものなのではないだろうか。だが進一の考えはちがうようだった。優越感に顔をかがやかせて、こう言いはなったのである。
「神です」
「はい?」
一平と明はあきれたが、進一はとうとうとしゃべりつづける。
「この文章を記録している存在はすべてを見とおしています。ボクのまわりで起こったこと、あなたのまわりで起こったこと、ボクの考えたこと、あなたの考えたこと。なにもかも。そうしたすべてを見とおし、なおかつそれをリアルタイムで文章にしてボクの電子書籍とあなたの本に書き込むなんて曲芸は、どんな超能力者にもできっこありません。それができるのは人間を超えたもの、つまり神です」
一平がおそるおそる明の横から顔を出すと、進一は一平の目をひたと見返して結論を口にした。
「野田さん、ボクとあなたは神の言葉を伝えるために選ばれたんです」
明がすかさず口をはさむ。
「かりにそうだとすると、一平君を殺してはまずいんじゃないか。だって一平君は神の使いなんだろう」
「まだわからないんですか。野田さんが神から選ばれていながらJESPOにくみして超能力者の敵に回ったからです。裏切り者を始末するのは当然でしょう」
「JESPOは超能力者の敵に回ったりしていないぞ。「切り拓く会」のほうこそ社会のルールを無視して犯罪行為を」
明が言い立てるのを、進一は手の中の拳銃をひとしゃくりするだけでだまらせた。さらに言葉をつづける。
「もうひとつ言えば、ボクは文章の内容を伏せ字にしてほかの人の目に触れないようにすることができます。野田さんはできません。ボクのほうがすぐれてるんです。だから神の言葉を伝えるのはボクだけでいい。野田さん、あなたは必要ないんです」
むちゃな理屈だったが、話の通じる相手ではないということだけはよくわかった。一平も明も言葉が見つからない。
「さて、それではそろそろ終わりにしましょう。時間稼ぎをしてもむだですよ。あなたがたのお仲間はみんなテロのせいで万代市に駆り出されていて、今から助けに来ようとしてもまにあいません。西澤明さんでしたか、万代市に行ったはずのあなたが戻ってきていたのは意外でしたが、しょせん接触テレパシーでは何もできないでしょう」
万代市に行ったはずのあなたがというところで、一平と明はそろってけげんな顔をした。一平が見上げると、明は振り返って首をふる。進一がいったい何を言っているのか、二人ともさっぱりわからなかった。ただ、一平ははっと思い当たった。まさか、この思い込みのはげしい少年はあの見え見えの叙述トリックに気がついていないのではなかろうか、と。
「さあ、そこをどいてください、西澤さん。じゃまをしないでくれたら、あなたを殺す理由はありません」
「ことわる。きみこそこんなことはやめるんだ。香川晃太からもやめろと言われていただろう。そうだ、さっきから聞こうとおもっていたんだが、きみらは親子か?」
「は、あんなやつ親でも何でもありませんよ。ボクはボクです。あいつの言うことなんか聞かなくたってちゃんとやれるんだ」
「なるほど、反抗期か。ほんとは親に自分の力を認めてほしいんだな」
なにげなく漏らしたその感想は、あきらかに不用意な発言だった。表面だけであれ今まで冷静だった進一が、かっと声を荒げて拳銃を構えなおしたのだ。
「わかったような口をきかないでください! あなたもあいつも、ボクの何を知ってるっていうんですか。いいでしょう、そんなことを言うのなら、あなたもついでに始末してあげます!」
拳銃がまっすぐに明の胸に向けられた。進一がみずからの正しさを疑っていないからなのか、その銃口はみごとなまでにぴたりと定まった。引き金にかかった指が動き出そうとする。だがそのとき。
「あ、あのさ、香川。きみ、読書は好きか?」
一平が声をかけた。それはあまりにも脈絡のない問いかけだったので、進一もつかのま殺意をそがれた。
「はあ? 読書? 興味ありませんね。どこがおもしろいんですか、そんなもの」
「やっぱり」
緊迫した状況もなんのその、一平はカウンターの上に例の本を広げて、その内容をいそぎ読み返していた。ページをめくりながら言葉をつづける。
「きみはさっき、自分のほうが僕より優秀だって言ったけど、それはまちがいだよ。きみは読解力がまるでない。せっかく本、じゃない、電子書籍を出せても、文章を伏せ字にすることができても、そもそも文章の内容をちゃんと把握できてないから宝の持ちぐされだ。たぶん、いまの未熟なきみが僕を殺したりしたら、神さまとやらは怒るんじゃないかな」
「な、なんですって」
進一の顔がゆがんだ。一平は知るべくもなかったが、それは進一が香川晃太に叱責されたときに見せるのと同じ表情だった。いきどおりにまかせて進一はさけぶ。
「おしゃべりはもうたくさんです! 二人ともあの世で後悔しなさい!」
銃口が明の胸にぴたりと向けられ、次の瞬間なんのためらいもなく引き金が引
明と進一はぽかんとした。
「おかしいな。俺はいま撃たれて死んだような気がしたんだが」
「おかしいですね。ボクもあなたを撃ち殺したと思ったんですが」
進一は拳銃をたしかめた。弾は一発も減っていないし、あたりに火薬のにおいが漂っているわけでもない。ふと反対の手に持つ電子書籍のほうに目をうつして、進一は悲鳴をあげた。液晶の画面いちめんに砂嵐が走っていたのだ。文章など一文字も読み取れない。
「なんだ、なんなんだよこれは!」
「僕がさっきやったことのせいだと思う。さっきと言っていいのかどうかわからないけれど」
一平は答えて、手に持った紙切れをかさかさと振ってみせた。字がびっしりと印刷してあるその紙切れは、どう見ても本のページをやぶったものに見えた。進一がさきほどよりさらに高い悲鳴をあげる。
「ちょっと、野田さん! それ! それ、もしかして!」
「うん。例の本のページだ。きみが明さんを撃ち殺した場面が載ってる」
一平は紙切れをにぎりつぶしてゴミ箱に投げた。紙くずはゴミ箱に入るより早く煙のように消滅した。強い目で進一を見据えながら、一平は説明する。
「きみはたしかに明さんを撃った。そのあとすぐ本にそのことを書いた文章が出てきたから、僕はとりあえず破り捨てたんだ。書いてあることをなかったことにできるんじゃないかと思ってね。そしてそのとおりになった。明さんは無事だし、きみのピストルの弾も減ってないし、たぶん時計の針も少し戻ったんじゃないかな。破ったのは僕の本だけど、その部分はきみの電子書籍からも消えたんじゃないかと思う。たぶんきみの電子書籍と僕の本はつながってるんだろうな。きみがその電子書籍の記述を伏せ字にしたら僕の本も同じように伏せ字になったしね」
進一はわなわなとふるえつつ、
「バ、バカな。だいたい神の書いたものを破り捨てるなんておそれおおい……」
「僕は神なんて信じていない」
「狂ってる。野田さん、あなたは危険すぎます。あなたはやっぱり死ななきゃいけません!」
叫ぶなり進一はふたたび拳銃を二人のほうへ向けた。一度は切り抜けたとはいえ、一平と明はまだ絶体絶命だった。だがそのとき、明がふと小首をかしげてつぶやいた。
「やっと来たか。待ちかねたよ」
一平もそれに気がついた。店の前の道路を遠くから走ってくる、いかにもガソリンを食いそうなバイクの音。二人の顔に笑みが浮かんだ。それは二人にとっては聞き慣れた音であり、バイクの音といっしょにファンファーレまで聞こえるようだった。
進一は二人の笑顔をあやしんで、店の入り口を振り返った。夕暮れの田園にひびきわたる急ブレーキ。表のガラス戸が吹っ飛ぶようにひらき、一人の人物が疾風のはやさで駆け込んでくる。ライダースーツとフルフェイスのヘルメットに身をつつんだその人物を、一平も明もよく知っていた。一平が歓声をあげる。
「アキラさん!」
進一はあわてて発砲したが遅すぎた。その人物はとっくに進一のふところに入り込んでおり、体を左にひらいて拳銃の筒先をよけつつ右の掌底で相手のあごを真下から打ち抜いた。たったそれだけで終わりだった。はずれた弾が表のガラス戸に当たって、「佐藤商店」という文字をひびだらけにした。ふらふらとその場にくずれおちる進一を尻目に、店主佐藤アキラはヘルメットをぬぐと、長い黒髪をひとゆすりして二人に笑いかけた。
「なんとか間に合ったかな。ヒロインはいちばんいい場面で登場するもんさ。そうだろう?」
つまるところ進一は、この文章の行間をまったく読み取れていなかったのだ。縛り上げられた進一は、警察が来るまでのあいだしょげかえった様子で店の床にすわりこんでぶつぶつ言いどおしだった。
「あきらっていう名前の人が二人もいるなんて聞いてませんよ。それにこの連絡所に所属する超能力者は二人だけだって書いてあったのに」
「たしかに書いてあるな。でもオレは超能力者じゃないから。ちょっと運動神経がいいだけの、ただの一般人」
レジカウンターの上にあぐらをかいて一平の本に目をとおしながらアキラがうそぶく。となりに立つ明が、「ちょっとか?」とうたがわしげにつぶやいた。銃を持つ相手を素手で倒すアキラである。その抜群の身体能力を用いて超能力者とも互角以上に戦うことができ、超能力をもつ犯罪者の逮捕に協力したことも一度や二度ではない。
「あと、あきらが二人いる件だけど、ほら、ちゃんと書き分けてあるじゃん。オレはカタカナ、明のほうは漢字。これで気がつかないきみのほうが鈍いんだ」
ちなみにイントネーションは、佐藤アキラは後ろ上がりでアキラ、西澤明は後ろ下がりであきらである。読者のみなさんがこの文章を朗読する際には留意されたい。
「女のくせにオレって言うのはどうなんですか。ふつうにわたしとかあたしとか言っててくれれば、ボクはあなたと西澤さんを混同したりしなかったのに」
「なに、女はオレって言ったらだめか? 美人がオレって言うのを禁止する法律でもあんの?」
「美人とは言ってません」
「言ってなくても心では思ってるだろう。テレパシーなんかなくてもまるわかりだぞ、少年」
進一は話題をそらした。
「だいたいあなたは万代市に行ってたんじゃなかったんですか。どうしてタイミングよくこっちに戻ってこれたんです」
「明に呼び戻されたからさ」
「電話で? いや、電話じゃ間に合わなかったはずです。万代市からここまでどんなに飛ばしても一時間近くかかるはずだ。だいいち西澤さんも野田さんもボクが来てから電話なんてかけてませんでした」
アキラは答えず、かたわらの明を見やって説明をうながした。明はアキラと進一が問答しているあいだずっと何かをにぎりしめて精神集中するふうだったが、ようやく顔を上げるとそれをカウンターの上にほうりだした。一冊の文庫本である。タイトルは『時の門』。さっき一度かばんから出しかけてひっこめた小説だ。明はひと仕事おわったという顔で、肩こりをほぐすように首をごきごき回しながら話しだす。
「知ってのとおり、俺の能力はいわゆる接触テレパシーだ。物体に言葉をこめると、その言葉はそのあと最初にさわった人に伝わる。要するに言葉を未来に送るわけだ。ところがだな、未来に送るだけじゃなくて過去に送ることもできるんだな、これが」
明は文庫本を指先でつついた。
「いま俺は、君が一平君を殺しにくるというメッセージをこの本にこめて過去に送った。メッセージを受け取るのは、この本を最後に触った人間だ。つまり、一時間前の俺さ。それで俺はすぐにアキラに電話をかけて、戻ってきてくれと頼んだ。君がここに来るずっと前に、アキラには連絡が行ってたんだよ」
進一は言葉もなくうなだれた。いっぽう一平は、さきほどまでの明の不審な態度にようやく納得が行って、おもわず声を上げた。
「なんだ、そうだったんですか。どうして言ってくれなかったんです。明さんの様子がおかしいから心配したんですよ」
「わるかった。一平君を怖がらせたくなかったから黙ってたんだけど、逆効果だったみたいだな」
パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきた。この一件もこれで幕引きである。
警察は二組やってきた。一組は香川進一を逮捕し、もう一組は佐藤アキラに速度違反の切符を切った。さきほどアキラはふつう一時間ほどかかる万代市と大原市の間を四十分で走りきったのだが、その代償がこれであった。もっとも本人はけろりとしていて、信号無視はバレなくてよかったと警察官の前でぬけぬけとほざいたものである。
あとしまつがひと段落するころには午後七時を過ぎていた。店を閉める時間である。アキラがバイクで、明が自動車で、それぞれ送って行ってやろうというのを辞退して、一平は自転車を押しつつ家路についた。日はまだ暮れきっておらず、空はうすあかるい。一平はふとその空を見上げて、本に文章が現れはじめてからのここ数日を振り返った。そして思った。
まるで最初から誰かが何もかも仕組んでいたかのようだ、と。
その誰かは香川進一が一平を殺しにくることも、明がアキラを呼ぶことも、一平が本のページを破り捨てることも、最初からすべて見とおしていたのではないか。もしかすると、アキラと明が同じ名前なのも、アキラが自分のことをオレと言うのも、その誰かの張った壮大な伏線だったのではないか。いささか妄想じみていると自覚しつつも、本に残された文章をよく読めばよく読むほど一平はそう思えてならなかった。
香川進一は言っていた。この文章を書いているのは神である、と。いま、一平はそれを真実かもしれないと思いはじめていた。一平も進一もアキラも明もそいつの思うままに動く駒にすぎないのかもしれない。一平は頭の上の暮れゆく空をにらみつけた。
どこかですべてを眺めて楽しんでいる私をにらみ殺そうとするかのように。
登場作品一覧(登場順)
『ソードアート・オンライン』川原礫、電撃文庫
『マヴァール年代記(全)』田中芳樹、創元推理文庫
『移動都市』フィリップ・リーヴ、創元SF文庫
『時の果てのフェブラリー』山本弘、角川スニーカー文庫
「金魚鉢」ロバート・A・ハインライン、『時の門』ハヤカワ文庫SFに収録
『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ、岩波書店
「バベルの牢獄」法月綸太郎、『NOVA2』河出文庫に収録
『しろがねの転校生』吉村夜、富士見ファンタジア文庫