第一話 好きの手前
第一話 好きの手前
1
二〇八七年の秋。
汐見駅の連絡通路には、雨の日だけ海の匂いが上がってくる。
高校二年生の宮原凪は制服の袖をまくり、手首の輪に触れた。同級生の久瀬律が、祖母の店の紙袋を持ち直す。中には蒸しパンが二つ。文化祭の相談をしていたはずなのに、卒業したらこの駅で待ち合わせなくなるのか、という話になっている。
二人にとって、共感デバイスで気持ちを送り合うのは、言葉で話すのと同じくらい身近なことだった。楽しいことがあれば、その弾む感じを添える。言いにくいことがある時は、話す前にためらいを渡す。
「今、いい?」
凪は手首の輪を受信に切り替えた。耳の後ろの端子が温まり、律の気持ちが届く。
誰かの手を取って歩き出したい。その勢いに、足元を確かめずには動けないためらいが混ざる。
凪は通路の先を見た。行きたい場所があるのだろうか。
「どこか、行きたいの?」
律は通路の先へ目を向けた。向かいのホームに電車が滑り込み、ガラスに二人の姿が薄く映る。
凪は返事を待つ。日頃使っている小さな輪が、二つの椅子と長い電線から始まったことなど、考えもしない。
六十一年前、二〇二六年の春。真木直人の机の上には、その椅子さえなかった。
あるのは三台の測定器と、配線の外れた灰色の箱。蓋を開けると、焼けた部品の匂いがまだ鼻に残る。
「測定側と刺激側で設定が違うよ。切り替える前につないだら、部品がもたない」
村井が箱をのぞき込み、電源を直人の手から遠ざけた。直人は焼けた部品を指で示し、接続した時の設定を説明する。
汐見大学の瀬戸研究室。直人は二十四歳で、この四月から博士課程へ進んだ。修士の二年間は、手首と耳の後ろで拾う信号から、感情に伴う身体の変化を調べてきた。怖がっているのか、楽しみにしているのか。本人の説明と信号を重ね、うまく合うところを探す研究である。
ところが、楽しみにしている人も、逃げ出したい人も、似た波形になることがある。
机の画面には、昨日の参加者が書いた「緊張」の二文字。その人は息子の結婚式を控えていた。晴れがましさと、段取りの心配と、家から息子がいなくなる寂しさ。その話を十五分聞いた後でも、画面へ残せたのは一つの名前だけ。
直人は窓際の椅子を引き寄せた。共同研究員の村井は、修理に必要な部品を紙へ書き出している。
「また、全部拾おうとした?」
「落としてるものが、何なのか知りたくて」
「それはいいけど。今日の測定には、この箱を使わないからね」
灰色の箱は、別の実験用だった。身体から拾った信号に合わせて弱い刺激を返し、本人がどう感じるかを調べる装置。計測器メーカーと研究室で開発しているが、直人の修士論文では、落ち着いた時の状態を一部戻せるかどうかを試すところまでに留まった。別の人に何かを伝えるなど、まだ遠い。
隣の部屋から、瀬戸教授の呼ぶ声がする。
「真木君、今日の参加者、来てるよ」
直人は箱へ布を掛け、白衣の袖を下ろす。鏡代わりの窓に、寝不足の顔と、片方だけ跳ねた髪。指で押しても戻らない。
待合の椅子に座っていた女性は、膝の上の紙へ鉛筆で印を付けていた。
「水野さんですか」
「はい。水野灯です」
顔を上げた拍子に、紙が一枚床へ落ちる。直人が拾うと、「帰ってきたんだね」という行の脇に、小さな丸と、斜めの線が三本。
「台本なんです。ありがとうございます」
灯は紙を受け取り、二十五歳、と参加票の空欄に書き加えた。大学が公開している、有償のテスト参加者募集を見て申し込んだという。六十分の測定を三回、予定を合わせて受ける。謝礼の受け取り方法を確かめてから、灯は鞄を閉じる。
「これ、気持ちを当てられるんですか」
「当てるためというより、本人の話と、身体から出る信号を比べます」
「じゃあ、私が黙ったら?」
「こちらも、何について感じたかは分かりません」
「よかった。頭の中まで見られるのかと思った」
直人は説明用の紙を机へ置き、センサーの形を見せた。耳の後ろへ貼る小さなものと、手首へ巻く帯。実際に測るのは、貼る場所の違和感や、短い映像を見た時の変化。途中でやめても、それまでの参加時間に応じた謝礼は出る。
灯は一つずつ読み、髪を耳へ掛けた。
「この辺、昨日イヤリングでかぶれたんですけど」
村井が皮膚の様子を確かめ、今日は反対側にしようと提案する。直人は準備の紙をめくり直した。見落としを、灯が先に教えてくれた。
窓の外では、新入生らしい二人が校舎の地図を逆さに持っている。灯も目を留め、口元を緩めた。
「私も一回、反対側の門に出ました。駅、遠かった」
「裏門ですか。あっちは海のほうへ行くので」
「途中で分かりました。海が見えたから」
笑いながら言う声は、台本を持っていた時より低く、息が混じる。
測定では、駅に置き忘れた荷物が持ち主へ戻る、短い映像を流した。
灯の指が椅子の縁を離れる。直人は画面に印を付け、映像の終わったところで、どう感じたかを尋ねた。
「ほっとしました。でも、あの人、また忘れそう」
灯は回答票の「安心」へ丸を付け、その下に「心配もちょっと」と書く。
「一つにしたほうがいいですか」
「いえ、そのままで」
紙の端に、鉛筆の粉が残った。直人は丸の重なったところを見る。
喜びと心配。どちらかを選ばせる質問では、灯の答えは収まらない。
灯が帰った後、直人は回答票を画面の横へ置いた。村井に、次から複数の答えを選べるようにしたいと話す。研究の手順を変えるには相談が必要で、今すぐ印刷し直せば済むことでもない。それでも、今日の二つの言葉は消さずに残しておく。
夕方の光が机を渡り、灰色の箱の布へ届く。
直人はもう一度、部品の焼けた蓋を開ける。西日が差し込み、黒く焦げた端子の隣で、無傷の金具が光る。
2
灯が二度目の測定に来た日は、待合に海からの風が吹き込んでいた。
ひとつ前の参加者が、風を入れてよいかと尋ねたのだ。小野寺誠、三十一歳。港の倉庫で荷物の受け渡しをしていて、今日は勤務明けだという。
測定が終わると、誠は持ってきた弁当を休憩室で広げた。箸の紙袋を縦に細く折り、窓際へ椅子を寄せる。灯は反対の椅子へ座り、台本を開く。
「海、職場からも見えるんですか」
直人が尋ねると、誠は卵焼きを飲み込んでから笑った。
「見えるけど、あっちじゃ船が何時に着くかばっかり考えるからね」
この窓なら、荷物の到着を気にせず眺められる。そう言って、弁当箱を膝へ置く。海は木々の隙間に細く見えるだけだが、誠はしばらく、そちらへ顔を向けている。
直人は窓を閉めに来たことを忘れ、椅子の背へ手を置いた。
灯の測定には、同じ台詞を違う人物が話す映像を使った。
「帰ってきたんだね」
最初の女性は笑い、次の女性は、鍵を握ったまま身を引く。灯は二人目の映像をもう一度見たいと言った。
「試験の順番は、変えられないんです」
直人が説明すると、灯は「あ、そうか」とうなずいた。
「この人、帰ってきてほしかったんだろうな。でも帰ってきたら、やっぱり困ったんだろうなって」
回答票では喜びと不安の両方に丸が付く。その横に「分からない」とも書かれている。
「演技のこと、よく分かるんですね」
「分かるかどうかは別です。私も、やってるので」
灯は測定の後、駅前の小劇場で稽古があるという。普段は飲食店とこうした単発のアルバイトを掛け持ちし、舞台に出る。劇団に所属するか、外のオーディションを受け続けるか、まだ決められない。
「こういう研究のテスト参加、時間が読めるから助かります。店だと、混んだら帰りにくくて」
灯はセンサーを自分ではがし、台紙へ戻した。直人は器具の数を確かめながら、台本について尋ねる言葉を探す。時計の長い針は、もう六十分を越えていた。
「次の予定、聞いてもいいですか」
「測定の?」
「あ、はい。測定の」
灯は携帯の予定表を開く。直人は、自分の言い直した声を耳の奥で聞いた。
昼過ぎ、五十歳の野上百合が、新聞紙に包んだ花を持って来た。
「朝、切ったの。帰るまで水に差しておいてもいい?」
花は庭の小さな枝で、白い花びらが紙へひとつ落ちている。直人が探している間に、百合は休憩室の紙コップを見つけ、眼鏡を額へ押し上げた。
「これで足りるわね」
花の丈に合わせて紙を折り、根元を水へ沈める。こぼれた雫は、鞄から出した布でさっと拭く。
測定中は花の香りが入らないよう、休憩室へ置いてもらった。百合は、それなら帰りに忘れないよう声を掛けてほしい、と頼む。
機械の前では、百合にも答えを選び切れない映像があった。子どもが一人で電車に乗る場面である。
「ちゃんと乗れたねって、うれしい。でも、見送って帰るほうは寂しいでしょう」
直人は喜びの欄だけへ目を向けていた。百合は二つの欄の間へ線を引き、その上に丸を付ける。
帰り際、直人が花を渡すと、百合は小さく頭を下げた。袖の先に、まだ水の跡。
直人は休憩室の窓を開け、百合が丸を付けた二つの欄を見ながら、新しい回答票の案を作り始めた。
五月になると、灯との三回の測定は終わった。
最後の日、瀬戸は礼を言い、追加の測定をする際には改めて募集すると伝えた。灯は研究室を出る時、台本の端で直人へ軽く挨拶をする。
「箱、直りました?」
「覚えてたんですか」
「初日に、真木さんがずっと気にしてたから」
布を掛けた灰色の箱。直人は休憩室から見えていたことを、今になって思い出す。
「直りました。もう、煙は出ないです」
「それはよかった」
階段を下りる途中で、雨が降り出した。灯は折り畳み傘を広げ、直人は鞄を探す。前の日、部屋に干したままだ。
「駅までですよね。入ります?」
灯の傘は黄色で、骨が一本だけ歪んでいる。直人が隣へ入ると、彼女は持ち手を自分のほうへ寄せた。
「背が違うと難しいな。持ってもらっていいですか」
直人は傘を受け取る。肩が触れそうになるたび、灯が歩幅を変える。濡れた地面に、二人の靴先が交互に並ぶ。
「今日は稽古、ないんですか」
「夜から。先にご飯食べます」
「僕も、まだ」
直人は言ってから、誘ったことになるのかと迷う。灯が駅前の食堂を指した。
「じゃあ、あそこ。私、あんまり高いところ行けないです」
食堂の窓に湯気がこもり、傘立てには似たような透明傘が何本も挿さっている。灯は親子丼を頼み、直人は日替わりの魚を頼んだ。
席に着くと、灯は台本を鞄の底へしまう。研究室では、いつも読む時間の途中に話しかけていた。今日は机の上に何もなく、灯の両手が水のコップを囲んでいる。
「博士って、何年ぐらいかかるんですか」
「普通は三年。でも、論文がまとまらないと延びます」
「じゃあ、卒業した後の仕事は?」
「研究を続けたいです。どこで、どうするかは、まだ」
「私と同じかも。続けたいことは決まってるんですけど」
注文の皿が来る。灯は玉ねぎを箸で持ち上げ、熱そうに息を吹いた。
「役者で食べていきたいんです。売れるまでの辛抱だって言う人もいるけど。売れたら続けられるのかな。役が来なかったら、やっぱり別の仕事もするし」
直人は何か励ましたくて、口を開きかける。灯がこちらを見るので、言いかけた「きっと」を飲み込んだ。
「今は、何の役なんですか」
「役名、女二」
「名前がない?」
「ないです。でも名前、勝手に考えてます」
灯は一口食べ、飲み込んでから、その名前を教えてくれた。
演出家にはまだ言っていない。直人は小さな秘密を預かったような心地で、魚の骨を皿の端へ寄せる。
食堂の壁時計を見て、灯が鞄を引き寄せる。
「もう行かなきゃ。名前の話、演出家には内緒で」
3
六月の小劇場は、入口から塗料の匂いがした。
直人は灯に教わった公演へ、土曜日の昼に行った。客席は五十席ほど。二列目の端へ座ると、舞台の床の擦れたところまで見える。
灯の役は、家を出ようとする姉を引き止める妹だった。
出番は長くない。直人は彼女が現れるまで、台詞の筋を追うより、舞台の袖ばかり気にしてしまう。灯が戸口へ立つと、ようやく椅子へ深く座った。
「お姉ちゃん、傘」
灯はそう言って、姉の足元へ一本の傘を置く。
泣かない。声も大きくない。姉が傘を拾う前に、灯は引き返しかけ、一度だけ戸口へ顔を戻す。
その動きに、直人の胸の奥がふっと冷えた。
行かせたくない。けれど、傘は渡す。
言葉にすると簡単すぎるその間を、灯は身体の向きだけで作っていた。
終演後、客が少なくなった入口で待っていると、灯が出てきた。袖には、舞台の埃がうっすら付いている。
「どうでした?」
「傘、渡すところが」
「そこだけ?」
直人が言葉を探すと、灯は笑った。
「意地悪しました。来てくれて、ありがとう」
「引き止めたいのに、送り出す感じがして」
「私、あの時、妹が傘を自分で使いたかったのもあると思ってるんです。お姉ちゃん、私の傘を持っていったって」
直人は舞台の入口へ目を戻す。そう思って見れば、戸口を振り返る動きも、別の色になる。
「そういうの、観客に分からなくてもいいんですか」
「全部は分からないと思います。でも、何か動きが変わるから」
灯が腕を上げ、袖の汚れを払う。
「泣くつもりでやると、私、泣く準備してる人になっちゃうんです」
その言い方が面白くて、直人は笑った。灯も笑い、後ろから呼ばれると、小走りで劇場へ戻っていく。
直人の手には、公演の薄いパンフレット。感想をあと二つ、言うつもりだった。
公演の一週間後、灯から短い連絡が来た。
『駅前にいます。真木さん、まだ大学?』
直人は測定器の電源を落とし、村井へ明日の予定を伝えて外へ出る。灯は食堂の窓際に座り、飲みかけの水を見ていた。
大きな舞台のオーディションに落ちたという。
「一緒に受けた友達は、通ったんです」
「その人には、もう連絡したんですか」
「さっき、おめでとうって送った」
灯は携帯を伏せる。直人は「残念でしたね」と言いかけたが、その前に灯が首を振った。
「うれしかったんです。その子、ずっと受からなくて。稽古も一緒にしてたし」
「その人の合格は、うれしかったんですね」
言った途端、灯の口元が止まる。
「うれしかった。でも、それだけじゃないんです」
「ごめんなさい。その人の話だけにしてしまった」
灯はコップを両手で包んだ。
「私も分かんなくなってる。電話が来た時、もう結果を待たなくていいって、ほっとしたんですよ。それがいちばん嫌だった」
直人は相槌を探せなかった。
友人の笑い声を聞いた時、灯も笑った。その途中で、どうして自分ではないのかと思った、と話す。そこへ、結果を待たなくてよくなった安堵まで混ざる。
話しながら灯は自分の言葉を戻し、順番を変える。直人が分かったつもりで口を開くと、いや、そこだけじゃない、と言い直す。
親子丼は冷めていく。窓の外を、塾帰りの子どもが数人、自転車で通り過ぎる。
「ちゃんと喜んでるって言うと、落ちたのが平気みたいになるし。悔しいって言うと、友達のこと嫌みたいになる」
灯は笑おうとして、鼻から短く息を出した。
「おかしいですよね。自分の気持ちなのに」
「おかしくないと思います」
直人はそこで言葉を切った。
灯は次の募集をもう調べている。それを受けるかどうかより先に、今日のことを話したがっていた。
直人は箸を置いた。
「続きを聞かせてください」
灯は携帯の画面を見て、それをまた伏せた。
「もう一回、同じ話してもいい?」
食堂のテレビは音を絞ってあり、ニュースの人の唇だけが動いている。直人は灯の言い直しを聞く。うまく受け止めた言葉は見つからないまま、二人分の水が少しずつ減る。
帰る道で、灯が言った。
「今日は、楽しかったって言えないです。でも来てくれてよかった」
直人にも似たものがあった。
自分に連絡してくれたことがうれしい。そのうれしさに、灯がつらい日に喜んでいる後ろめたさが混ざる。
「僕も、会えてよかったです」
それだけを言って、直人は駅前で灯と別れた。
直人は駅の入口で足を止めた。道路の向こうに灯が見える。青信号を渡り、角を曲がるまで見送る。薄い夕焼けの下で、看板の文字が一つずつ灯る。
翌朝、直人は修士論文で使った波形を呼び出した。
信号を「喜び」「不安」に分けてから戻す方法では、分類した時点で捨てるものがある。本人の言葉を付けて調べることは必要だが、戻す信号まで一つの名前へ寄せる必要があるのだろうか。
直人は、複数の変化を時間の重なりとして扱う図を描く。昨日の灯の話は測定していない。勝手に研究資料へ加えることもできない。直人は、昨夜の胸の熱さとためらいを、図の脇へ書いた。
瀬戸へ見せると、教授は長いこと紙を眺める。
「他人にも戻せると考えてる?」
「身体の違いを合わせたら、一部は」
「一部って、何の一部だろう」
「まだ、そこが分かりません」
瀬戸は図の端に、送り手と受け手の二つの円を描いた。
「君が感じたものと、相手に起きたもの。別々に調べよう。伝わると決めてから試すと、似たところばかり探すから」
直人は二つの円をノートへ写す。その間をつなぐ線は、まだ鉛筆の細い一本。
灯へうまく返せなかった夜から、実験の次の問いが生まれていた。
4
尾崎悠介は、研究室へ来るたび、最初に時計を見た。
直人とは学部の一年からの友人で、経営学部を卒業した後、地元の食品卸会社へ就職している。今日は営業先から直接寄ったらしく、シャツの肩が雨で濃くなっていた。
「四十分なら付き合えるよ。五十分になったら帰るぞ。明日、早いんだ」
「何を頼むか、まだ言ってない」
「おまえの、ちょっとだけ、で帰れたことないだろ」
直人は折り畳み椅子を広げ、悠介の鞄を置く場所を空ける。机の上に実験計画の紙を並べると、悠介は触る前に尋ねた。
「これ、俺に見せていいやつか?」
「参加者の名前は入ってない。先生にも、事務の人にも、外の人へ見せる範囲を確認した」
「で、俺に何をやってほしいんだ?」
直人は、研究の説明を、専門外の人に通じる文章へ直したいと話した。
悠介は紙を持ち上げ、最初の段落で止まる。
「感情状態の再構成、って何」
「測った信号から、受け手に似た感覚を起こせるか調べる」
「今ので書けよ」
直人が笑うと、悠介は同じ場所をもう一度指した。
「いや、本当に。俺、最初の一行で帰りたくなった」
論文には必要な言葉でも、参加の説明には別の順番が要る。直人は画面を開き、悠介の問いを横に置いて書き直す。
「受けると、何が分かる?」
「まだ、分かると言える段階じゃない」
「じゃあ、何を確かめたいのか先に書けよ。そこが分からないと、俺も返事できないだろ」
時計の針が四十分へ近づく。悠介は立ち上がり、残りの紙を持って帰ってよいか尋ねた。
直人は、来てくれてありがとう、と言う。悠介の足が戸口で止まる。
「おまえ、最初に礼を言うようになったな。何かあったのか?」
「水野さんっていう人と、ご飯に行くようになった」
「へえ」
悠介は出口へ向けた足を戻し、直人の顔を見る。
「じゃあ、その人に説明するときにも、最初の一行を直せよ」
扉の閉まる音がして、直人は机へ戻る。紙には悠介の鉛筆で「どこでやめられる?」と書き込まれている。
新しい実験は、灰色の箱の配線を変えるだけでは始まらなかった。
村井が刺激の上限を確かめ、メーカーの担当者が停止スイッチを作る。瀬戸は他の研究者に計画を見てもらい、身体への負担と、受け取った後に残る気分をどう記録するか検討した。
直人は、うまくいきそうなところより、分からないところを書く時間の長さに驚く。
「ここ、ひとまず空欄じゃ駄目ですか」
村井へ尋ねると、空欄だと考え忘れたのか未確認なのか分からない、と返ってきた。
直人は「未確認」と書き、隣へ何を確かめるかを加える。
研究費にも限りがあった。瀬戸の共同研究の一部として試すことになったが、新しい部品を買う分、直人の予定していた別の測定を先へ延ばす。学会へ行く旅費も削る必要がある。
「君の博士論文が、全部これに変わるわけじゃないよ」
瀬戸が机の端を指した。そこには、提出の遅れている測定結果の整理。
直人は夜、装置の蓋を閉じてから、そちらの数字をまとめる。朝に見直すと、同じ行を二度数えている。コーヒーを捨て、新しく湯を沸かすところからやり直す。
夏の測定に、二十八歳の桑原良平が来た。
一時間で終わると聞いたけれど、延びることもあるのか、と受付で確認している。
「父に、一時間で戻るって言ったので」
直人は測定と着替え、謝礼の手続きまで含めた予定を伝えた。桑原は携帯の時計を見て、なら大丈夫、と椅子へ座る。
日に焼けた腕の、時計の下だけ白い。手首の帯を巻く時、その境目が覗いた。
昔は父と港で船の修理をしていたが、港の一部が閉じてから、別の場所で仕事を始めたという。
「今の工場、道具を置く場所がまだ決まらなくて。今日は棚を動かすんです」
「お父さんと?」
「そう。一人で動かすなって言ってきた。こっちの台詞なんですけど」
桑原は笑い、測定の椅子で肩をほぐす。
映像への回答には、迷う場所が少なかった。ただ、長年の仕事をやめる人物が映った時だけ、鉛筆が止まる。
「寂しいとは思う。ほっとするのも、あるでしょうね」
その先を尋ねる項目は、今日の測定にはない。直人は話の続きを聞きたくなったが、桑原の時計へ目を向けた。
帰りの手続きが終わったのは、約束の時間の五分前。桑原は携帯を取り出し、父へ連絡しながら廊下を歩いていく。
「今から戻る。棚、触らないでよ」
声が曲がり角へ消える。直人は、椅子の位置を次の参加者に合わせて戻す。
秋、伝達の予備実験がようやく始まった。
最初は直人自身が、測った信号を自分へ戻す。強さを上げれば元の気持ちへ近づくわけでもなく、胸が落ち着く一方で、首の後ろが緊張する日もある。
村井は、その両方を別々に記録した。
別の日には、受け手の身体に合わせる調整だけで時間が終わる。直人は一つの成功を待つあまり、調整に費やした四十分を失敗と呼びかけた。
「この人には、この設定じゃ合わないって分かった。次も同じ四十分をやらせたら、それは失敗だけど」
村井が椅子を片づけながら言う。
直人は参加者へ礼の連絡を送り、ノートに調整の条件を書き足す。帰りの電車で灯の予定を聞いた。次の小さな公演には役が決まったという。
『今度は名前あります』
メッセージの後に、一行だけ台詞が届く。
『おかえり』
直人は声に出さず、何度か読んだ。研究室の機械には戻せない、その日のうれしさが、文字の周りに広がっていく。
5
冬の初め、悠介が二つ目の椅子へ座った。
実験への参加は、友人として頼まれた説明の手伝いとは別に申し込んでいる。事前の説明を受け、村井と調整を済ませ、今日は二十分だけ試す予定だった。
直人の手首から箱へ一本、箱から悠介へ一本。机の端を横切る線を見て、悠介が自分の椅子を引く。
「足、引っかけそうだな」
村井が線を床へ留め直す。直人は送信側の椅子に座り、手の中のスイッチを何度も持ち替えた。
「何を考えてるか、先に言わないほうがいいんだろ」
悠介の問いに、村井がうなずく。送る前に内容を知らせると、受け手がその説明へ自分の感じ方を合わせるかもしれない。最初の感想は、二人が別々に書く。
直人は家で食べた卵焼きのことを考えた。
少し甘すぎる。昔は父が、砂糖を減らせと言っていた。母は減らしたつもりで、やはり甘く作る。父が亡くなってからは、その文句も食卓から消えた。
先月帰った時、母は直人の皿へ端の厚いところを置き、自分には崩れた部分をよそった。直人が皿を替えようとすると、こっちが味が染みているから、と笑う。
それを思い返しながら、直人は開始のスイッチを押す。
十秒で止めた。
悠介は自分の手を見てから、鉛筆を取る。直人も別の紙へ、食卓で感じたことを書く。母の姿を記すのは説明のためで、その姿が送れたわけではない。
村井が二枚を受け取り、一方ずつ確かめた。
「尾崎さん、何か変化はありましたか」
「落ち着く感じ。でも、ただ寝る前みたいなのとも違う」
悠介は椅子の背へ身体を預ける。
「昔、親父と釣りに行った帰りを思い出した。釣れない日。車で寝て、家に着くの嫌だなって」
直人は顔を上げた。
「釣り?」
「うん。何を送った?」
卵焼きの話をすると、悠介は首をかしげる。自分には食べ物の感じはしなかった、と言った。それでも、居場所がある安心と、そこから離れる寂しさはあったという。
直人の指が、紙の上で止まる。
予備試験で何も伝わらなかった時は、悠介は自分の予定や室温のことばかり書いていた。今日は、言わずにいた二つの気持ちに、違う思い出を通して近づいている。
村井は、うまくいったという言葉をまだ使わず、次回の条件を相談する。直人はそれを聞きながら、椅子の座面へ落ちた線の影を見た。
箱の向こうにも、誰かの過ごしてきた時間がある。
何度か試すうち、二人の報告に似たところが出る日が増えた。
同じ人でも、疲れた日は調整し直す。何も届かない日もある。直人は結果を急ぎたくなったが、悠介は受信の後、帰り道に一人になりたいと言った。
「嫌だった?」
「嫌ならやめる。でも、人のものが入ってきた後に、自分のことを考える時間が欲しい」
直人は机を片づける手を止める。
自分が送る時は、届いたかどうかが気になる。悠介が帰ってからも、感想の続きを聞く連絡を送りそうになり、携帯を机へ伏せた。
翌日、悠介から別の連絡が来る。会社の懇親会で、席順を決める係になったという愚痴だった。
直人は実験のことを挟まず、その話を聞く。
画面の向こうで、悠介は仕事へ行く。研究室へ来ない日にも、悠介の一日は続いている。
灯へ伝達の試作を話したのは、二月の食事の時だった。
彼女は台本を鞄へしまう前に、舞台の台詞を二つ、直人へ読んで聞かせていた。片方は怒って聞こえ、もう片方は、怒る前に止まっているように聞こえる。
「本当の気持ちを当ててほしいわけじゃないんです。どこで、聞いてる人が変わるのか知りたくて」
直人が二つ目の台詞の途中を指すと、灯は鉛筆で台本へ小さく印を付けた。
その後で機械の話をした。灯は身を乗り出す。
「人の気持ちが、来たんですか」
「そう思える結果が、何度か。まだ、人によるし、うまくいかない時もある」
「真木さんから、誰かへ?」
「悠介です。大学の友達」
「私も、どんなものか見てみたい」
直人はその言葉に、思いがけず強くうなずいた。
灯と会った後、直人は、何を送るかを考え続ける。灯が笑う顔。研究が進んだ日に真っ先に知らせたい相手がいること。彼女が忙しいと聞いて、会いたいと言えない夜。
それらを送れば、今まで言えなかったものが届くのではないか。
灯の「見てみたい」を、直人はその続きを聞いてくれる返事として思い返していた。
装置を見る日、灯は研究室の入口で靴の水を拭った。
村井から一般的な説明を聞き、机の上の二つのスイッチを確かめる。今日は見学と相談で、受けるかどうかは後から決める。その予定を、直人は何度も確認したはずだった。
「もし受けるなら、最初は何が来るんですか」
灯が尋ねる。
直人は用意していた説明を読みかけ、紙を置いた。
「僕が、水野さんへ感じているものを」
灯はスイッチから手を離す。
「それ、どういうことですか」
「好きだって、伝えたくて」
研究室の廊下で、誰かが流しの水を止める。直人は灯の顔を見続けられず、机の線へ目を落とした。
灯はすぐには返さない。隣の部屋で作業していた村井へ、今日は見学だけで帰ると伝える。それから直人へ向き直った。
「機械に興味があって来たんです。それと、真木さんの気持ちを受けることは、私には別です」
「はい」
答えながら、自分がいつ二つを一緒にしたのか、直人には分からない。
「言ってくれて、うれしいです。でも、今日は受けません」
灯は台本の入った鞄を膝へ載せた。
直人は、ごめんなさい、と言う。灯はそれを聞き、次の言葉を待っている。好きだと告げるだけなら、機械を持ち出す前にもできたはずなのに。
「ご飯の約束も、やめたほうが」
「そこまで、今、決めないでください」
灯の声は大きくない。
「次に会うかは、考えてから連絡します。今日は帰ります」
直人は扉まで見送り、傘を取る彼女の背に、もう一度礼を言った。灯は振り返ってうなずく。
階段の窓が、冬の夕暮れを細く切り取っている。足音が下の階へ遠ざかり、直人の手には、使わなかった説明の紙。
6
直人は灯へ、その日のうちに何か送りたくなった。
謝る言葉。見学だけでも来てくれてうれしかったこと。返事を急がなくてよいと、もう一度伝えること。
三つを打ち終えて読み直すと、返事を待っている文章に見える。直人は二つを消し、今日は急に個人的な話を持ち出してすみません、とだけ送った。
灯からは、読みました、と翌朝届いた。
その一行を何度も開く。怒っているのか、落ち着いたのか。測れたら分かるのだろうかと考え、自分の考えに戸惑う。受け取らないと言った相手の気持ちを、別の方法で覗きたいわけではなかったはずだ。
直人は携帯を伏せ、測定結果の整理へ戻る。
机の窓側には、灯が触れた停止スイッチ。一日中、その小さな丸へ目が戻る。
瀬戸には翌日、見学の時に告白したと話した。
教授は直人の説明を最後まで聞き、灯の測定参加の扱いを確認した。以前の三回は終了しており、今回の見学に謝礼も評価もない。それでも、最初に研究室で出会ったことは変わらない。
「大学の研究として呼ぶ時、君に会いに来る時。相手が何に来たのか、途中で変えないようにしよう」
直人は見学の案内文を開き、どこまで知らせていたか確かめた。
それから瀬戸は、装置の話より先に、自分の言葉で告げられたのはよかった、と言った。直人は顔を上げる。
「それだけでは足りないと思ってました」
「足りないことは、あるだろうね。でも足りないから、なかったことにはならない」
瀬戸は窓を開けた。暖房のこもった部屋へ、冷たい空気が流れ込む。
直人は、告白した一言の重さを考える。灯はそれを聞いて、自分で帰ると決めた。言葉で告げたことも、彼女の一日を変えている。
次の実験で、直人は受信側へ座った。
悠介は勤務先で、新しい担当を任されたばかりだった。詳しい仕事内容は話さず、今の気持ちなら送れると言う。
調整を済ませ、村井が開始の合図を待つ。
「今、いい?」
悠介の声が、いつもより真面目に聞こえる。直人は手元のボタンを握り、うなずいた。
まず、何かへ手を伸ばしたい感じがする。できそうだ。その勢いに乗ろうとするところで、喉が詰まる。直人自身が研究の発表前に感じる、足場のない心細さに似ていた。
止まった後、直人は指を開いた。手のひらにボタンの縁が残っている。
「楽しみだけど、失敗が怖い?」
「それもある」
悠介は回答を出してから、額を指でこすった。
「俺、本当は別の仕事をやりたいって言ってたんだよ。でも、これ任されたら、しばらくそっちは回ってこない」
直人は、研究室の別の計画を思い出していたことに気づく。悠介にも、挑戦したいのに怖い事情があると受け取った。実際には、任されたことを喜ぶ気持ちと、希望から遠ざかった残念さもある。
「言うと、嫌がってるみたいになるから。まず、ありがとうございますって言った」
悠介は指でネクタイを緩める。
「それ、嘘じゃなかったんだけどな」
直人はもう一度受け取れば分かる気がしたが、悠介の顔に疲れが見えたので、口には出さなかった。
「次の希望、また言える?」
「言うよ。今の仕事もやるけどな。上司にばっかり話してると、愚痴まで報告になるんだよ」
今日は実験に来たのか、愚痴を言いに来たのか分からない、と悠介は笑う。
直人も笑った。受信を終えた後、友人の声が、前より近い。
灯から連絡が来たのは、それから二週間ほど経ってからだった。
食堂のいつもの窓際で会い、灯はまず、三月の公演の券を一枚机へ置く。
「お金は、あとで」
「今、払います」
直人が財布を取り出すと、灯は少し笑った。
「こういう時、払うの早いですね」
券を受け取ってから、直人は謝った。装置の興味を自分への返事と一緒に考えたこと、受け取ってもらえれば自分の気持ちを軽く扱われずに済むと思っていたこと。
灯はしばらく券の袋を折っている。
「軽く扱うつもりはないです。ただ、同じ強さで返せるかは分からない」
「はい」
「機械には興味がある。真木さんのことも、もっと知りたい。今は、うまく分けられないです」
直人は、返事をする前に水を飲んだ。灯が顔を上げる。
「それで、もう一度、会って話してみようと思いました」
店員が定食を運んでくる。灯は箸を取り、直人の皿の魚を見た。
「今日、そっちもおいしそう」
「替えます?」
「一口だけ、もらってもいいですか」
直人はまだ手を付けていない端を分ける。灯は自分の皿から、小さな唐揚げを一つ寄せた。
交換した二つを食べながら、二人は公演の話をする。灯は今回、途中で役を替えられたという。前の役のほうが出番は多かったが、今の役では長く聞く場面がある。
「相手が話してる間、何もしないの、難しいんです」
灯は台本を広げ、直人へ一つの台詞を読んでほしいと頼んだ。
直人が句読点で律儀に止まるので、灯は笑う。
「そこで止まると、もう怒って帰る人みたい」
「そんなつもりは」
「じゃあ、私に向かって言って」
直人は顔を上げ、今度は灯へ向けて読む。一行を読み終えると、灯が台本の端を指した。
「今のほうがいい。もう一回、そこから」
7
翌年の夏、灯は初めて、舞台の一場面を一人で任された。
役の大きさは変わらないが、誰も話さない間を、観客の前で保たなければならない。稽古の後は、食堂の席でも台本を開かなくなった。頭の中に台詞が残りすぎているから、違う話をしたいという。
直人は研究費の申請を書き直したことや、学生へ実験を教える仕事の話をする。灯はその学生の名前を聞き、前に直人が話した人と違うのか確かめた。
「覚えてたんですか」
「二人いて、一人が全部やっちゃうって言ってたでしょう」
「今は、もう一人が質問しすぎて」
「ちょっと進みましたね」
直人は笑う。その変化を、研究室へ戻ってから村井にも話した。
直人はその学生が質問した場面を、帰りの電車でも思い出した。一日の失敗を数えるより先に、灯へ話すことを探している。
公演が終わった後、灯から、受けてみたい、と連絡が来た。
研究の募集ではなく、直人の気持ちを受け取る話だと、最初から書いてある。直人は長い返事を打ちかけ、会って条件を決めたい、と短く返す。
灯は食堂で、受けた後にその場で返事を求めないでほしいと言った。最初は十秒。受け手にも止めるボタンがあることを確かめ、その日の記録を再生用に残さないでほしいと頼む。
直人は、装置の調整に必要な測定値と、感情を再生するための記録は違うと説明した。現在の試作には、好きな時に感情を再生する機能は付けていない。動作の記録も、個人的な内容と一緒には使わない。
「真木さんには、何が分かるんですか。私が受けてる間」
「身体の変化と、装置が動いているか。どう感じたかは、言ってもらわないと」
「じゃあ、私が黙ってても、勝手に返事にしないでください」
「しません」
灯はそこでうなずいた。それから、公演でうまくいかなかった箇所の話を始める。
直人は説明の紙を横へ寄せ、最後まで聞いた。
受け取る日、研究室の窓には、夏の終わりの光が溜まっていた。
村井が調整を済ませ、廊下側の部屋へ移る。身体に変化があればすぐ呼べる位置にいるが、二人が何を話したかは記録しない。そのことを灯も確かめている。
椅子の間へ線が渡る。
灯は髪を耳へ掛け、センサーの位置を鏡で見た。直人は送信側へ座り、膝の上の手を開く。何か良いことを送ろうと考えるほど、緊張ばかり大きくなりそうだった。
「今、いい?」
「はい」
灯の返事を聞いて、直人は開始を押す。
彼女が初めて来た日の台本。傘の下で、片方の肩だけ濡れた帰り道。演技を見たこと。オーディションに落ちた夜、二度目に話し直してくれたこと。
思い出すと、灯と一緒にいたい気持ちが湧く。次の役が決まってほしいと願うそばから、忙しくなれば会えなくなる、と寂しくなる。
直人はその寂しさを押し込めず、灯を見る。
灯は目を閉じず、直人の顔を見ている。十秒が過ぎ、箱の小さな灯りが消える。
しばらく、椅子の脚を動かす音もなかった。
灯は自分でセンサーを外し、手首の帯を机へ置く。
「ちょっと、休みたいです」
直人は窓を指し、開けてもよいか尋ねた。灯の返事を聞いてから、細く開ける。外で草を刈る音がする。機械の音が止まると、蝉の声が戻ってくる。
直人は何か言いそうになるたび、手元の説明の紙を見た。
その場で返事を求めない。
灯が決めたことを、今は守る。信号の画面も閉じる。紙に十秒と書いた跡だけが見えている。
「うれしかったです」
灯が先に言った。
直人は顔を上げる。
「会いたいって思ってくれてるのが、来た気がした。あったかくて。私も、会って話したいって思った」
直人は椅子の背から離れ、灯へ顔を向ける。
灯はそこへ、次の言葉を足した。
「でも、重いのもありました」
「重い?」
「真木さんが寂しい日に、私が会わなかったら、悪いことをした気がする」
直人は、そんなつもりはなかった、と言いかけた。灯は台本の入った鞄へ目を向ける。
「公演の前、連絡できない日もある。疲れて、誰とも話したくない日もある。今までなら、今日は無理ですって言えた。でも、あれを感じた後だと、言ったら悪いなって」
「無理な日は、無理で」
「言ってくれるのは分かります。でも今、私には、断りにくくなったところがある」
直人は黙った。
稽古の帰りに、灯が断りの返事を打つ姿が浮かぶ。もっとよく伝えたいと願った気持ちが、その指を止めることまでは考えていなかった。
灯は椅子の背へ寄りかかり、天井を一度見る。
「嫌だった、だけでもないんです」
直人が言葉を探している間に、灯は手首の帯を取り上げた。
「私のほうも、送ってみたい。今の気持ち。受けてもらえますか」
直人は返事を急ぎかけ、息を整える。
「受けたいです。十秒で」
村井へ役割を替えると伝え、二人は調整をし直した。直人は、何を感じたか説明できるよう、受信後の紙を自分の側へ置く。
「今、いい?」
灯の声に、直人は返事をする。
近づきたい気持ちが、先に来る。何かをもらったうれしさと、手を離す場所が欲しい感じが、同時にある。
直人は呼吸を深くしようとして、かえって息を詰めた。
向かいの灯が、こちらの様子を見ている。直人は指を動かし、停止のボタンに触れる。まだ十秒には届いていないが、そこで終える。
灯は手を離した。直人は額をぬぐい、水を一口飲む。
「近づきたいけど、離れたい、みたいに感じました」
「離れたいというより、近づくのを自分で決めたいです」
直人は灯を見る。
手を伸ばしたくなるあの温かさの中に、灯は自分で止まれる場所を探していた。直人は机の上の二つのボタンを見る。
「今日、送ってくれてありがとう」
灯は手首の帯を外し、台紙へセンサーを戻した。
恋人になるかどうかは、決まらなかった。直人は追いかけて尋ねず、自分のセンサーを片づける。
帰りの校庭で、灯が携帯を取り出す。劇団からの連絡に短く返し、来週は稽古が始まる、と直人へ話す。
「会える日、決まったら連絡します」
「はい」
直人も、次の測定の準備があると告げる。
二人は門まで並んで歩いた。坂道へ入ると灯の歩幅が広がり、直人はその横へ追いつく。
乾いた葉の端が、風にめくれている。
8
秋から冬にかけて、研究室の机は紙で埋まった。
直人は博士論文に使う測定結果をまとめ、村井は伝達の試験を続ける。二つの仕事は同じ器具を使うこともあるが、何を確かめるかは別だった。
機械へ入れる信号が似ているからといって、受け取った人の気持ちまで同じとは言えない。直人は参加者の回答を揃えようとしていた頃より、違ったまま並べる時間を長く取る。
悠介は月に一度、仕事帰りに説明文を読みに来た。翌日の予定が詰まっている時は、三十分で帰る。直人もそれを引き止めず、残った問いを次回へ回した。
「伝わった、って言うのは、どこまで?」
ある日、悠介が発表の下書きを指した。
「本人が感じたものに似ていると、受け手が報告したところ」
「似てるって、本人同士で確かめた?」
「最初は別々に書いて、後で話してもらった」
「その順番も書いとけよ。先に相手の話を聞いたら、俺、その言い方を借りちまいそうだ」
直人は実験の流れを図へ足す。
悠介は研究者ではないが、参加した時に困ったことを覚えている。直人には当然に見える線を、指で辿り直してくれる。
発表は翌春、大学で開かれる共同研究の報告会に決まった。
メーカーの担当者は、箱を今より小さくできると話し、完成品のような外装の絵を見せた。
直人はその絵に目を奪われる。二人の椅子の間へ机を置かなくてもよくなる。灯の髪の後ろに、大きな線を渡さずに済む。
「これ、無線にできますか」
「できます、と言う前に、遅れを測らないとね」
担当者が図の横へ時間を書いた。届くのが遅れると、受け手が自分に起きた変化と、送られた変化を区別しづらくなる。直人は無線の試作を次の計画へ回し、報告会には今の箱を持っていくと決めた。
瀬戸は発表に先立ち、大学の担当者を紹介してくれた。研究成果を外へ渡す方法や、共同開発を続ける際の役割を相談する人だった。
会社を作るなら、大学で得た成果をどう使うか、契約を結ぶ必要がある。メーカーにはメーカーの作った部分があり、村井の工夫も箱の中に入っている。
説明を聞くにつれ、直人は自分の名前だけを表紙へ載せていたことが気になった。帰ってから、開発に関わる人の名前と仕事を整理し直す。
悠介はその紙を見て、これなら、自分が何を手伝えるか分かると言った。
「起業の話、今すぐ?」
「まず博士論文を終える。でも、研究が終わったところで、箱も終わりにしたくない」
「じゃあ、準備は今からだな。俺も、仕事を辞めてから考えるんじゃ遅いし」
悠介はノートを開き、二人の予定を書いた。次に大学へ相談する日、自分が会社を休める日。将来の話は、まず四月の一日に収まった。
報告会の日、灯は客席の後ろへ座った。
前夜が公演だったので、来られるか分からないと聞いていた。直人は入口で彼女を見つけ、手を上げる。灯は手だけ振り返し、壇上へ上がる直人を送り出した。
発表では、測定から伝達へ進んだ経緯を話した。混じり合った感情を一つずつに分けず、その重なりを扱えるか。成功した条件と、何も起きなかった条件を、同じ画面へ載せる。
研究のきっかけを尋ねられた時、直人は灯の名前を出さなかった。
「同じ言葉で説明されているのに、本人には違うものがある。それを、話し終わるまで待っても、受け取り切れないことがありました」
言ってから、客席の端を見る。灯は資料を膝へ置き、顔を上げている。
実演には、普段から試験へ参加している姉妹が来た。
姉が送る間、妹は手の中のボタンを見ていた。十秒後、目元を拭きながら、笑う。
姉が心配そうに身を乗り出すと、妹は大丈夫、と手を上げた。
「そんなに悲しいばっかりじゃなかったんだね」
姉は妹の顔を見て、膝の上の手を開く。
「私、今日は悲しいと思って来なかったけど」
「そっか。私のほうが、心配してたのかも」
二人の話は、送信が終わった後から長くなる。
直人は次の説明へ進む時刻を過ぎ、村井に軽く肩を叩かれた。直人は残り時間を伝え、姉妹に終わった後も話せる場所を案内する。
会場へ戻ると、質問がいくつも待っていた。頭の中の景色も見えるのか。感情を受ければ嘘が分かるのか。直人はそれぞれ、今の装置で何を扱っているかへ戻って答えた。
声が乾き、途中で水を飲む。研究室で繰り返し書いた言葉も、人の顔を前にすると、同じ順番では出てこない。
客席の端で、悠介が自分の資料へ何か書き込んでいる。
片づけが終わる頃、灯が紙コップのお茶を持って来た。
「疲れました?」
「疲れました」
「声、途中から全然違った」
「緊張して」
「後半、質問を聞いてから、話し始めてた。最初は、先に説明しそうだった」
直人は壇上の机を見る。自分の立っていた場所からは、灯の表情までよく見えなかった。
「そこまで見てたんですか」
「今日は、真木さんを見に来たので」
直人はお茶を飲もうとして、コップを持ったまま灯を見た。
灯はその後で、自分の公演の話をした。昨日、台詞が抜けたが、相手が繋いでくれたという。直人が何と言って繋いだのか尋ねると、灯は二人分を演じてみせた。
廊下で笑い声が上がり、村井も片づけの手を止める。
箱を運び出す台車の横で、灯が昨日の台詞を言う。直人はコップを持ったまま、即席の客席へ腰を下ろした。
9
報告会の資料が出てから、研究室へ届く連絡が増えた。
会場の技術者が使った「共感デバイス」という名前は、問い合わせの件名にも入るようになった。直人は大きすぎる名前だと思い、技術の説明には感情伝達と書いたが、電話では先にその名で尋ねられる。
瀬戸は、名前を気にすることも大切だけれど、何ができると説明しているかを確かめようと言った。直人は村井と応対の文を作り、悠介に読んでもらう。
会社を作る相談も進んだ。大学の担当者と、メーカーと、直人たちで会う日を決める。研究室の設備を使い続けるなら、共同開発としてどの仕事を担うか、その費用をどう分けるか。悠介は会社の年休を取って席に着き、分からない箇所へ何度も手を上げた。
会議の後、直人は大学の階段で礼を言った。
「会社の休み、使わせて」
「俺もやりたくて来てるんだよ。ただ、次は土曜にできないか聞いてくれ。年休も無限じゃないからな」
悠介は鞄から弁当箱を出し、学食で食べてよいか尋ねた。二人は空いた席へ座る。
将来の会社の名は、まだ決まらない。直人の博士論文も完成前だ。ただ、研究室の外へ続く道は、帰りの電車で夢を話すだけのものではなくなっていた。
病院からも連絡が来た。
長く療養する人の、言葉にしづらい苦しさについて、共同研究の相談をしたいという。直人は瀬戸と資料を読み、最初は装置を持たず、話を聞きに行くことにした。
相談室では、療養を経験した女性が、自分のことを話した。
「苦しいって言うと、息が苦しいのかって聞かれるんです。息じゃないって言うと、じゃあ気持ちのほうねって」
女性は紙コップを机へ置く。
「気持ちのほうなら、ちょっと待てるでしょうって。私も、何を頼めばいいのか分からないんです。ただ、一人になると、説明する前に疲れるから」
直人は、装置で何ができるか答えようとし、途中で止めた。女性はまだ話の続きがある顔をしている。
「一人になると、というのは、どんな時ですか」
彼女は椅子へ座り直し、夜の話を始めた。
帰り道、瀬戸は、痛みそのものを送る研究ではないことと、療養中の人に必要な調整を、今の試験と分けて考えようと話した。直人はうなずく。
灯へ伝えたかったものから、知らない人の夜へ、問いが伸びている。相談室の窓から、建物の間に海が見えた。その青さを、女性が話している間は見ていなかった。
博士課程の三度目の冬、直人は母の家へ帰った。
論文の審査へ向けた準備で、年末も研究室へ行くつもりだったが、母の「餅を送ろうか」という電話を受け、持って帰ると答えた。
門の横に、父の使っていた植木鉢がある。植わっているのは、母が今年選んだ花。直人が鉢を眺めていると、奥から声がした。
「大きいのは枯れたの。こっちのほうが育てやすくて」
母は古い花の名前を探しかけ、やめて、家へ入るよう手招きする。
台所には、いつもの甘い卵焼き。
「大学、ちゃんと終われそうなの」
「春に審査がある。まだ、直すところはあるけど」
「博士になったら、どうするの」
「研究は続ける。大学の先生たちとも。会社を作る準備もしてる」
母の箸が止まる。直人はそれを見て、今すぐ借金をして工場を建てる話ではないと説明した。
母は眉を寄せ、箸を皿へ置く。
「工場のことまで考えてなかったよ。あんた、誰とやるのかと思ったの」
直人は笑い、悠介の名前を出す。村井やメーカーの人の話もした。母は知っている名前のところでうなずき、卵焼きをもう一つ、直人の皿へ置く。
父のいた頃より、テレビの音が大きい。母は一人で食べる時、気にせず付けたままにするという。
直人は台所の窓を見た。自分が懐かしく思う部屋でも、母は毎日を新しく暮らしている。
「次に帰る日、決まったら早めに言って」
「うん」
「私も出かけるから」
直人は卵焼きを一口で食べた。甘さに頬が緩む。
汐見へ戻った翌日、灯と駅で待ち合わせた。
連絡通路のガラスに、雨が細く流れている。灯は黄色い傘ではなく、紺の長い傘を持っていた。
「あの折り畳み、壊れたんです」
「骨、曲がってましたよね」
「直そうとして、もっと曲げた」
彼女は傘の先を床へ付け、鞄から公演の案内を出す。
春から別の街で、三か月、舞台に出る話が来ているという。宿の心配は少ないが、いつものアルバイトは休まなければならない。役は小さく、途中で出なくなる日もある。それでも、申し込みたいと灯は話した。
「まだ迷ってます?」
「昨日まで迷ってた。今日は、行きたいです」
直人は案内の街の名前を読む。電車で行けるが、仕事帰りに食堂で会う距離ではない。
「寂しくなります」
灯は案内へ目を落とし、それから直人を見た。
「言わないでくれるのかと思いました」
「前だったら、応援します、だけ言ったかも」
「応援も、してほしいです」
「します」
灯が笑う。直人も笑い、舞台の日程が決まったら教えてほしいと頼んだ。
灯は帰ってきた後にも、ご飯へ行けたらいいと言う。直人は、その時は研究室の予定を確かめて返す、と答えた。
交際するかどうか、灯にはまだ一つの返事がなかった。
直人は今も灯が好きだった。案内に書かれた日程をもう一度確かめ、手帳へ写す。自分にも、春に終えたい論文と、引き受けたい共同研究がある。
「私が好きって返さなかったら、作ったこと、後悔しますか」
灯が案内をしまいながら尋ねた。
直人は、すぐには答えない。報告会の姉妹の声、病院で聞いた夜の話、悠介が手を上げた会議を思い返す。そこへ、自分が断られる日の怖さも重なる。
「残念には思います。でも、作ったことは後悔しないです」
灯は、その答えをしばらく聞いているような顔をした。
「私は、真木さんと話す時間、好きです」
直人は顔を上げる。
「今日は、それを言いたかった」
「聞けて、うれしいです」
直人の鞄に装置は入っていない。膝の高さを渡る線もない。灯は傘の留め具を外し、階段の下を見た。
「お腹、空きません?」
「空きました」
「いつものところ、今日は休みなんです」
直人は向かいの喫茶店を指す。灯が、あそこは夜もカレーがある、と教えてくれた。
「よく行くんですか」
「一人の時は」
「知らなかった」
「言ってないですから」
二人は並んで階段を下りる。
灯が先に傘を開き、直人も自分の傘を広げた。雨粒が傘を叩き、頭の上で音が丸くなる。隣から灯の声がする。
「でも、今日は違うものにしようかな」
直人はメニューを思い出そうとしながら、次の言葉を待つ。
二つの傘の間に、喫茶店の窓の灯り。濡れた歩道へ、その先の明るさが伸びている。




