もしも運命が、在るのだとしたら
■ ギデオン視点 ■
食堂の扉の陰。
顔を真っ赤にしたリリアンとカイを、ギデオンはアッシュと共に、コソコソと覗いていた。
「恋人いない歴17年のリリィを、多分恋人いない歴20年の皇帝が口説いとるぅ……」
「リリィ姉さんがモテないみたいに言うなよ。俺が、今までのライバルたちを蹴散らして来ただけだろ」
「俺達が、やろ?」
アッシュが、扉に手をかける。
「いつもみたいに邪魔しに行こう! さらーっとさ。俺達もお昼なんですよ、奇遇ですねーって」
「やめとけ。……俺はねー、リリィが幸せになれんなら、それでええと思っとる。……隣にいるのが、俺やなくても。皇帝サン、マジでリリィのこと好きやん? 帝国中の富と権力で幸せにしそうやん。浮気なんて、絶対しなさそうやし」
「俺はっ、兄貴みたいに大人になんかなれないよ。今だって飛び出してって、俺のだって言いたい」
「違ぇよ……」
大人だから、ではない。最初から手には入らない相手だと、どこかでギデオンが認めていただけだ。まさか皇帝が恋敵になるとは思ってもみなかったが。
(今となっては、傷口えぐるだけだから、口に出せねぇけどよ)
ギデオンは、イライラと食堂内を伺う弟分をぼんやりと見遣る。
太陽光を透かすブロンドの髪に、透き通った空色の瞳。アークライト中の視線を集める美少年に育っていくアッシュの魅力に、その一途な思いに……いつかあの鈍い総監も、絆されると予測していた。
(本当は、アッシュと、お似合いやと、思っていたのですよ……"お兄ちゃん"は、さ)
■ カイゼル視点 ■
執務室。
カイは報告書の文字を追いながら、その実、意識の大半を別の情報に割いていた。
――吸気1.8秒。呼気2.3秒。周期4.1秒。
リリアンの寝息だ。
執務机に突っ伏したまま眠りに落ちたリリアンの呼吸を、カイの聴覚は自動的に計測し続けている。止めようと思って止められるものではない。世界中のあらゆる音が等しく脳に突き刺さるこの聴覚は、カイにとって生涯の呪いだった。
――だった、はずだ。
この音だけが、違う。
リリアンの寝息は、カイの鼓膜を突き刺さない。脳内で絶え間なく爆発し続ける情報の奔流を、遠い波打ち際の音のように、静かに凪がせてくれる。
なぜ、彼女の呼吸だけが、心地よいのか。
カイには、分からない。分かっているのは、リリアンの呼吸音が途絶えた瞬間——例えば王都に要る時など――全ての音が、再度カイを苛立たせる存在に変わるという事実だけ。
報告書に視線を落としたまま、カイの意識は、ここ数日のリリアンの「数値」を反芻している。
——瞬き。
リリアンの平常時の瞬き頻度は、1分あたり14.2回。カイはそれを、正確に知っている。
今日の午前中、瞬き頻度は1分あたり23.8回まで上昇していた。
——歩行。
リリアンの通常歩行速度は、時速4.3キロ。右足の接地から左足の接地までの歩幅は61センチ。それが、昨日から歩幅が57センチに縮小し、時速3.9キロまで低下している。
――これらの全ての数値が、同じ結論を指し示していた。
リリアン・アークライトは、疲労している。
(正常値に、戻さねば)
その時だった。
「……や……いや……」
リリアンが、目を閉じたまま、顔を伏せたまま、苦しげに囁いた。
「……ちち、うえ……すてない、で……」
(……悪夢か)
カイの脳内ライブラリが、瞬時に、該当データを検索する。
『リリアン・アークライト……本名、リリアン・エヴァンス。父は、公爵の……トーマ・エヴァンス。氷槍のような戦闘スキルを期待される家柄、か』
皮肉にも、リリアンはもともと、カイの結婚相手ともなり得る家柄の出身だった。
運命など信じるカイではないが、二人の人生がどのような道筋を辿るにせよ、必ずリリアンとは出会っていた気さえする。
――カイが7年かけて、帝国を立て直したように。
――リリアンは7年かけて、荒れ地を緑に変えた。
(貴方と俺は……同士だ。他の誰も、俺を理解できない)
しかし今、その同士が、夢の中で父に捨てられる記憶に、苦しんでいる。
カイはリリアンの手首に触れた。右手の人差し指と中指を、橈骨動脈の上に正確に置く。
——脈拍数。平常時より32パーセント上昇。
「……っ」
リリアンが、指の冷たさに反応したのか、顔を上げた。
潤んだフォレストグリーンの瞳が、焦点を結ばないまま、カイを捉える。
「……へい、か……?」
「——魘されていた。夢だ。現実ではない」
リリアンはまだ半覚醒状態で、ぼんやりとカイを見上げている。手首に触れたカイの指を払おうとしない。脈拍は——むしろ、速くなっていく。
(40パーセント上昇。……なぜだ。悪夢の要因は排除されたはずだが)
カイは、困惑した。
データが、矛盾している。悪夢から覚めたのに、心拍が上がっている。通常、安心すれば心拍は下がる。なのに、カイの指に触れた瞬間から、リリアンの脈は加速した。
(……俺が、原因か? 俺の接触が、リリアンに不快な刺激を?)
手を離すべきか。
離したくない。
二つの判断が衝突し、カイの処理が一瞬だけ停止した。
(どうすればいい。リリアンの苦痛を取り除くための、最適解は何だ)
カイの脳内ライブラリが、過去の全データを走査する。論文も、教科書も、帝国図書館の蔵書も、この問いへの回答を持っていない。
——いや。一つだけ、ある。
(俺は、リリアンが俺にしてくれたことを、模倣すればいい)
あの星空の夜。カイが「呪い」と呼んでいたものを、リリアンは「力」と呼び直した。言葉の定義を変えただけだ。事実は何一つ変わっていない。なのに、あの瞬間から、カイの世界は変わった。
リリアンは、カイの内部信号を翻訳してくれた。カイ自身が読めなかった自分の感情に、名前を与えてくれた。
ならば、今度はカイが——リリアンの内部信号を、翻訳する番だ。
カイは、左手をぎこちなく伸ばした。
掌を、小さな頭の上に、置いた。
「……リリアン」
カイは——自分が持っている言葉の中から、最も正確だと思えるものを、選んだ。
「貴方は、よくやった」
抑揚のない声。感情を込めているつもりなのに、カイの声帯は、感情に応じた振動パターンを出力しない。いつもそうだ。嬉しい時も悲しい時も、カイの声は平坦なまま。それが「氷帝」と呼ばれる理由の一つだと、カイは知っている。
だから、せめて——言葉の選択だけは、間違えないようにと思った。
「守られて育った貴族の令嬢が。誰にも頼れず、たった一人で。……ここまで」
掌の下で、リリアンの頭が、微かに震えた。
「よく、頑張ってきたな」
リリアンの瞳が見開かれた。カイが記録している全てのデータの中で、この瞬間の瞳孔径が、最大値を更新した。
そして。
リリアンは何も言わなかった。ただ、カイの掌を頭に乗せられたまま——静かに、一筋の涙をこぼした。
カイの右手が、無意識に、リリアンの頬に触れた。涙の筋を、そっと拭う。
——温かい。
リリアンが、涙をこぼしたまま——ふわりと笑った。
(……可愛い)
そして、カイは——気づけば、リリアンの目元に、その涙に、唇を寄せていた。
リリアンが、固まった。脈拍が跳ね上がる。50パーセント上昇。
(——泣かせたくない。絶対に、泣かせたくない相手なのに)
こんな涙なら、もう一度見たいと思った。




