追放令嬢は希(こいねが)う
朝早くベッドを抜け出したのは、ワクワクで一睡もできなかったから。
リリアンは寝巻きのまま窓枠に足をかけ、公爵邸の屋根に這い上がった。十歳の少女の細い足が、宙に揺れた。
肩に乗った六匹のモモンガ――次期領主を守る守護妖精が、具現化した存在――たちが、寝ぼけ眼でリリアンにしがみつく。ふかふかの尻尾が揺れる。
夜明け前の王都が、眼下に広がっていた。
教会の尖り屋根。石畳の大通り。蛇行する運河。
美しい。――でも。
「——また屋根ですか、リリアン様。何回言っても、やめないんだから」
侍女で、リリアンの乳母兄弟でもあるアリスが、屋根に登って来ていた。
アリスは文句を言いながらも、リリアンの隣に腰を下ろした。
「……で、今朝は何を睨んでいたんです?」
「あの水路」
リリアンは、運河の分岐点を指差した。
「勾配の設計がおかしい。大雨で下町が浸かるの、たぶんあそこが原因。スキルが決まったら……」
リリアンが指差す先。暗い水面に、街灯の光がちらちらと揺れている。
「リリアン様のお母様もお祖母様も『豊穣』のスキルでしたものね」
「――うん! あの水路、スキルで直せたら。お父様も、褒めてくれるかな。そうしたら、継母様も、アレンも……みんなで、家族になれる気がする」
アリスは何も言わなかった。ただ、リリアンの小さな肩に、そっと手を置き、抱き寄せた。
――リリアンの視線が、ふと、アリスの袖口に止まった。
何度も洗って毛羽立った、薄い木綿。
リリアンは、自分の寝巻きの袖を見下ろした。上質の絹だ。
「……ね。アリスは毎朝、私より二時間も早く起きてる。私の服を準備して、朝食の配膳を確認して。……同い年なのに、私より、ずっとたくさん働いてる」
リリアンは、アリスの木綿の袖と、自分の絹の袖を、交互に見つめた。
「なんで……たくさん働いてるアリスが木綿で、あんまり働いてない私が絹なの」
「今のリリアン様は、お勉強がお仕事と、母が言ってました。それに、リリアン様は将来、領民の命を預かるお立場になるのです。それはとても重い責任で……この絹は、その覚悟への対価なんだって」
「……じゃあ、約束する。私が領主になったら、アリスにも絹の服を作る。ちゃんと働いた人が、ちゃんと報われる領地にする。……それが、この絹を着ていい理由でしょ?」
「……楽しみにしておりますね、リリアン様」
アリスが、ふわりと笑った。
同時に――東の空が、白み始めた。
最初の一筋の光が、屋根の上の二人を照らした。リリアンの茶色の髪が、金に染まる。
「お母様が愛した領地……私が、守り抜く」
リリアンは、背筋を伸ばした。
モモンガたちが、リリアンの寝間着の裾に飛び乗り、絹の上で嬉しそうに転がっていた。
*
「アレン・エヴァンス。汝に授けられしスキルは、『氷槍』である」
大神官・ゼファニウスの声が、神殿の厳かなドーム状の天井を震わせた。
「やった!」
同い年の義弟アレンが、満面の笑みになる。アレンの全身を、鮮やかな青い光が包み込む。アレンの頭上で、無数の幻影の槍が荒々しく舞った。
見守る貴族たちから、歓声が湧き上がる。継母も、満面の笑みで頷く。
「次の者――、リリアン・エヴァンス」
リリアンが大神官に呼ばれたことに、注意を向ける大人はいなかった。
(エヴァンス家の長女は、私なのに。……アレンが来てから、皆アレンのことばかり)
つい浮かんでしまう思考を、小さな頭を振って逸らす。
(私は、次期領主となるのだから。人を羨んだりしない。心を、透きとおる湖のように。木漏れ日のさざめく木々のように……)
リリアンは領地の湖畔を思い浮かべながら、冷たい祭壇へゆっくりと進む。
「――リリアン・エヴァンス。汝に授けられしスキルは……『土いじり』である」
大神官の声は一転、冷酷な響きを帯びた。 リリアンの足元から、くすんだ茶色の霧が、力なく立ち上る。 アレンのように、周囲を眩しく照らし出す力はない。
(――え? 今、なんて?)
守護妖精のモモンガたちは一斉にリリアンから離れていった。モモンガたちは誘い込まれるように、アレンの周りへ群がる。 リリアンの細い肩から、ささやかな温もりが完全に消え去る。
(あ、待って……)
思わずモモンガたちの行く末を見るけれど、引き留める権利も術も、きっとない。アレンは嬉しそうに、モモンガたちに触れている。
やがて。くすくす、と、押し殺した嘲笑が水面の波紋のごとく広がる。
リリアンの全身が、見えない無数の針に刺されたように深く痛む。
「辺境送りが妥当か。外れスキル持ちが、王都の清らかな空気を汚してはならない」
「立派なフォレストグリーンの瞳も、中身が土塊では魅力半減ですな」
「さて、次期領主は、愛人の子のアレン様かね」
(領主のスキルが『土いじり』で、民は守れるの……? お母様みたいな女領主に、なれるの……? お父様は)
父に目線を向けると、眉間にしわをよせ、睨みつけるようにリリアンを射る視線とぶつかった。
急に、両足に力が入らなくなって、リリアンはその場に座り込んだ。
(立たなきゃ)
両足を無理やり踏ん張り、祭壇から降りる。ふと、絹のドレスの裾が目に入った。
自分が領主にならないのなら――妖精が離れていったのがその証左だ――ただ公爵家に生まれただけの自分に、高価なドレスは分不相応だ。
「お、とうさま。私、ドレスとかいらない。お願い、大きくなったらアレンの補佐官にしてください。もっとお勉強頑張ります。だから」
だから、捨てないで――。
声にならない願いは、届かなかった。
*
儀式の神殿から、屋敷に戻って数日後。
「リリアン。お前をエヴァンス家から除名し、帝国西部の辺境区への追放を命ずる」
父が自室に訪れ、予測どおりの宣告が下された。
父の声には、何の感情も浮かんでいなかった。かつてリリアンを力強く抱き上げてくれた温かい腕も、優しい眼差しも、今の父とは全く別の存在のようだった。
(ああ、やっぱり)
涙は、一滴も出なかった。
ただ、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたように激しく痛んで、息がうまくできない。
意識が遠のき――パチン、と。
脳内で火花が散ったような、強烈な衝撃が生じた。
視界を焼き尽くす白光。激しい頭痛と共に、脳裏に、知らない光景が濁流のように流れ込んできた。
ガラス張りの、天を突くような高層ビル群。アスファルトの道を埋め尽くす鉄の箱の群れ。夜空を昼間のように照らす、無数の人工の光。知らない文字。知らない人々。
リリアンは、見た。
白い研究室で、モニターに向かい、複雑な図形や数式を組み立て――ひどく焦った顔で、キーボードを叩いている白衣の『自分』を。
『――システムの根幹に異常発生。フェイルセーフが機能していません! まずい、爆発する!』
『だから言ったのに。個人の天才的な能力に依存したシステムは、いずれ必ず破綻する……!』
けたたましい警報音。崩壊していくプロジェクト。そして、全てが白に染まる強烈な光。
(これは……私が日本でみた、最後の記憶……)
前世のリリアンは社会インフラ設計の研究者・コンサルタントだった。資源管理や人材管理――システムを成り立たせるための基盤技術を、横断的に扱っていた記憶の断片が、ぼんやりと蘇る。
「……わたし、日本で、死んで。でも今、生きてて。えっと、だから」
リリアンの混乱に、けれど父は気づかない。
「連れて行け」
「へえ」
傭兵らしき男が、十歳の細い腕を無造作に掴む。
屋敷の外へ連れ出される。泥と水溜りが、絹のドレスを容赦なく汚していく。
降り続く冷たい雨の中、用意されていたのは幌が破れた粗末な馬車だった。
(そっか、私――二度、居場所を喪ったんだ)
*
馬車がゆっくりと動き出す。
リリアンは小さな窓から、王都の景色を眺めていた。壮麗な教会が、遠ざかっていく。
「バチが当たったのかな……」
かすれた呟きが、馬車を打つ雨音に溶ける。今更、涙が、とめどなく溢れた。
「お仕事を頑張れば……もう一度、暖かい家が手に入る気がしてた」
100%の、綺麗な心ではなかった。領主は領民のことを一番に考えなくてはいけないと――教わったのに。
ふと、肩に温もりを感じ、視線を向けると……たった一匹の、他の個体よりも大分小さなモモンガが、居眠りをしていた。
「寝坊して、主を選び損ねたの……? 私は辺境に行くんだよ?」
モモンガが両目を開けた。リリアンの首筋にふかふかの頭を押しつけ、ぐりぐりと動かす。まるで、自分がリリアンを選んだとでも言いたげだ。
「もう、分かったよ。あなたにまで愛想つかされたくないし……辺境の領主様に頼んで、モモンガの姿の維持、できるかな……」
領主、と口にすると、少し全身に力が戻った。
(生まれた場所で死ななくたって、いい。どこにいたって、組織も領地も、存在する。そこの民の……力になれれば)
預けられる予定の辺境伯は、コトなかれ主義と聞いているけれど、それでも噂でしかないのだし……。
ふと、先ほど蘇ったばかりの記憶の断片が、囁いた。
『個人の能力に、過度に依存すれば――』
どんなに強大な魔法スキルがあろうと、個人に依拠する限り、国家は常に不安定だ。
(前世の記憶を活かせば、もっと良い組織づくり・領地づくりができるはず。そして、誓う……次に居場所を得られたなら、全力で守り抜く。何があっても、手放さない)
*
王都を出てから七日。景色は赤茶けた大地に一変していた。乾いた熱風が砂塵を巻き上げ、容赦のない太陽がぎらぎらと照りつけている。
護送の任に当たっていたのは、粗暴な傭兵だった。
(この乾燥した土の下……少しだけ、水の気配を『感じる』)
ふと、空気が止まった。直前まで吹き荒れていた風が、嘘のようにぴたりと止む。
「……おいおい、冗談だろ。大砂嵐かよ」
数百メートル規模の象牙色の「壁」が、一瞬でリリアンたちの乗る馬車を、飲み込んだ。
凄まじい突風が馬車を横から殴り、車体が大きく揺れた。恐怖に駆られた馬がパニック状態で駆け出し――巨大な渓谷へと向かっていく。
「悪いな、『土いじり』! 実は辺境伯からも、途中で捨ててこいって、言われてたんだ!」
傭兵は馬車をあっさりと見捨て、飛び降りていった。
リリアンは必死に扉を叩いた。しかし蝶番が歪んだのか、ピクリとも動かない。
次の瞬間、ふわり、と浮き上がる無重力感。馬車が崖の縁を踏み外したのだ。
落ちていく。加速していく。
(せめて、この子だけでも……)
守護妖精のモモンガとはいえ、物理的な衝撃を受けないわけではないだろう。リリアンはモモンガを、胸元に抱きしめた。
次の瞬間。
――カッ、と。
世界が、激しく蒼く光った。
21日まで、1日数話ずつ、ストックを放出いたします。
20話(全体を読むのに90分くらい)で小休止となります。




