第40話 どんな犠牲をはらってもいいので助けてください
私は茫然としていた。暫くは……いや、案外思ったほど短かったかもしれなけど、私にとっては何十分、何時間もかかったかのような心地だった。
私は仰向けに倒れている母を見つめ、自分の持っているナイフを見つめた。刃は血に染まっていた。新鮮だからか、先にポタポタと滴り落ちているのが分かった。
私はどうしようか悩んだ。いや、パニックになっていた。
私はやってしまったのだ。
人を! 人を……母を殺してしまった。一度ならず二度までも私は罪を犯してしまった。
私の手からナイフが落ちる。耳障りな衝撃が小屋中に響き渡る。すると、それが脳に刺激されたのか、瞳に変化が起きた。
そして、何か喉を詰まらせていたのか、ようやく解放されたかのようにハァハァと息を荒くしていた。
「母さん!」
私は呼びかけた。母は何も答えなかった。ただ視線を動かしていた。
機敏に天井の景色を見た後、ゆっくりと私の方を向いた。その目つきの不気味さと言ったら……なんて喩えたらいいのだろうか。
何か奇怪な形状をした怪物に全身から抱きしめられているような心地だった。
もう今にも吐きそうだった。母は唇を動かして何かを伝えようとした。
が、声がかすれていて聞こえなかった。口の端から血が流れ落ちていた。呼吸もまともにできないらしく、咳き込んでしまう時もあった。
助けないと――私はそう決意して立ち上がった。けど、まず何から始めればいいのだろう。
このままアタフタしていたら見殺しを犯してしまう。そんなのいや嫌だ。もしシナーノ王子に事が知られたらどうしよう。きっと軽蔑するはずだ。
『実の母を殺した殺人者! お前とは絶交だ!』
なんて言われたら……そんな事言われたらとても生きていけない。だから、どんなに悪くても助けないと――私は治療薬を探す事にした。
しかし、この整理整頓されていない部屋から治療薬を見つけ出すのはジャングル中から針を見つけるようなものだ。
仕方なく軟膏がまだ残っていたので、慌ててそれを母の腹部に塗った。が、手が無駄に汚れるだけで、効果は一切なかった。
母の顔色に生気を感じなくなった。このまま出血のスピードが加速してしまえば、母は助からない。
万事休すかと思った時、カラスの鳴き声がした。はっきりと何度も私の耳に届けているかのように鳴いていた。
私は立ち上がって、ドアを開けた。カラスは木の枝に停まっていた。その隣にはあの猿がいた。
「どうしたんだい? そんな緊迫した顔をして」
「助けてくださ! 母が……母が死にそうなんです!」
私がそう叫ぶも、猿は首を傾げていた。
「おいおい、正気か? そいつはついさっきまでお前の命を狙っていたんだぞ。それに母といったって、お前とそいつの血は繋がっていない。コールト王国にいる王妃と……」
「それ以上は言わないで!」
私は耳を塞いで叫んだ。その事実はあまり受け入れたくなかった。だから、母の救出を優先している。あえて。
「いいから何とかしてください。殺人者になりたくないんです! もしそうなってしまったら、私は二度とシナーノ王子と会う事ができなくなってしまうんです。
王子とお付き合いする事も、妹のオーリン話す事もできません。暗く狭い牢屋の中で、何年も過ごし、私は断頭台の上に立たされ事でしょう。
多くの観客達が私を『人殺し』と叫んで石を投げつける事でしょう。そして、処刑人の斧でザシュ……そんな未来にはしたくないんです。
今、この状況を打破できるのはあなたしかいないんです。お願いします。お願いします……」
私は何度も頭を下げた。すると、猿は首を振った。
「しかし、君は私と一度契約をかわしている。使い魔になる代わりに君の大好きだった兄とアップルちゃんに会わせてあげよう……そう約束したはずだ。残念ながら今の君の願いには契約書には書かれていない。それに付け加える事もふぇきない。残念ながら……」
私は愕然としてしまった。まさか悪魔との契約にもできない事があるなんて……。
「じゃあ、このまま母を見殺しにしろと? 殺人者になれと言っているんですか?」
私は鋭い声で猿に言った。すると、猿が「私では無理だが、他の悪魔との契約はできる」と言った。第三の選択が現れた。
「他の悪魔って……どうしたら会えるんですか?」
私が尋ねると、猿はなぜかウキウキと笑っていた。
「私の隣にいるじゃないか」
「……え?」
私は猿の隣を見た。カラスがいた。まさか……カラスも悪魔なの?
「ご名答」
すると、突然カラスが喋り出した。カラスはバサバサと飛び立つと、地面に降り立った。が、急に禍々しい光に包まれたかと思えば、人の姿に変わっていた。
いや、正確に言えば頭はカラスだが、首から下はキチッとした身なりをした格好をしていて、黒光りの靴を履いていた。
「私はアダム」
カラス男はそう名乗った。
「君と契約をかわしてもいい。だが、その代わりに条件がある」
「犠牲にするものですよね? お願いします。何を捧げてもいいので母を助けてください!」
私は地面に頭を擦り付けるぐらい下げた。すると、アダムはこう言った。
「よろしい。その覚悟があるばら君の願いを叶えてあげよう。代わりに一つ手に入れて欲しいものがある」
「……何でしょうか?」
私は顔を上げて聞いた。
「心臓だ」
カラスは静かに言った。
「出来れば、お母さんと血が繋がっているものが欲しい」
母との繋がっている――私の頭の中に浮かんだのは姉だった。
「……分かりました。必ず手に入れます」
私は力強い声でそう言うと、カラス男は「分かった。楽しみにしているぞ」と言って消えてしまった。猿はウキキキッと笑った。
「もちろん、他の悪魔と契約をかわしたからと言って、私との約束が解消される訳ではないから安心してくれ。
アダムの欲しいものが手に入ったら、お前が大好きな人達の元へ連れてってあげるよ」
悪魔は猿みたいに笑って姿を消していた。
「……ユキ?」
私は茫然としていた所へ背後からあの声がした。ゆっくりと振り返ると、母だった。
さっきまでの恐ろしい姿はどこへやら、まるで生に満ち溢れているかのように神々しかった。
「お母さん!」
私は駆け寄って、抱きしめた。なんて心地良いのだろう。これが母の温もりなのだろうか。
「どうしたのユキ? こんな所にいて……早くお家に帰りましょう」
「帰る? 帰るってどこへ?」
私がそう尋ねると、母はクスッと笑った。
「何を言っているの? お城に決まっているじゃない」
私は目を丸くした。どうやらアダムは生き返らせただけではなく、嫉妬や憎悪に満ち溢れていた彼女を丸ごと消し去ってしまったらしい。
でも、どうしてだろう。ついさっきまで揉み合いしていたのに、母と一緒にいたくなった。
「帰ろう」
私は母の手を繋いで歩いて行った。途中、私が今の年齢になるまで過ごした小屋に立ち寄った。
まるで何千年間も誰も住んでいなかったように朽ち果てていた。ふと庭を見ると、どの草花も枯れてしまっていた。
林檎の木にはたくさんの果実が成っていた。私は小屋の中からカゴを持ってきて、母と一緒に林檎を摘んだ。そして、一緒にアップルパイを作った。
あぁ、なんて素晴らしい時間なのだろう!
独り作るよりも二人で一緒に作る事がこれほどまでに幸せになれるなんて思ってもみなかった。
たくさん成っていたからか、かなりの数のアップルパイが出来てしまった。
「これどうしよう」
「夫やベニーだけでなく、多くの人達にも食べてほしいわ」
「そうだ!」
私は良い事を思いついた。
「コールト王国の人達をご招待してアップルパイを食べてもらいましょう」
私がそう言うと、母は「いいわね! じゃあ、開催するようにお城に行きましょう!」と言ってアップルパイをカゴの中に入れた。
アップルパイパーティーかぁ……楽しみだ。
なんか嫌な事があったような気がするけど、遠い記憶のことのように思えてくる。
「どうしたの? 何だかご機嫌ね」
母は不思議そうに聞くと、私はみんなにアップルパイを振る舞える事が嬉しいと話した。
「私もよ、ユキ。あなたとこうして一緒に作れる日が来るなんて思ってもみなかったわ」
母は聖母のように笑った。




