第37話 こんなのやったことないから無理だよ!
あっという間の出来事だった。私が声を掛ける前に棚は倒れてしまった。
「ローリエさん! ローリエさん!」
必死に呼びかけながら駆け寄るが、姿が見えないくらい覆われてしまった。地面には散乱したガラスが落ちていた。
破片は棚周辺にあり、近づくだけでも危険だった。私は助けられるならば傷の痛みも厭わないと、近くにある布切れを手に巻き付けて、ガラスの破片を取り除いた。
ある程度近づけるようになったので、棚を持ち上げようとした。が、かなり重くてうまく持ち上がれなかった。
それに布を巻いていたとはいえ、ガラスの破片の鋭さを完全に防げる訳ではなく、手に小さな傷が出来ていて、中には出血しているのあった。
けど、そんな事よりも今にも押しつぶされてしまうのではないかと思うローリエの救出が最優先だと自分を奮起させて、持ち上げた。
人間、追い詰められると普段とは違う力が発揮するみたいで、あんなに重たかった棚が持ち上がった。
そして、壁に激突させるぐらいまで起こすと、ローリエを見た。
頭から出血していて、血だまりが出来ていた。白衣にもガラスが散乱していたが、身体を半身だけ起こす事で一気に落ちていった。
顔を見ると、分厚いレンズが壊れていて、ローリエの眼が露わになっていた。
「ローリエさん!」
私は何度も大声で呼びかけたが、ローリエは眠ってしまったかのように反応しない。軽く頬を叩いてみたけれど、結果は同じだった。強めに叩いても一緒だった。
「そうだ。軟膏」
私はローリエが使っていた塗り薬の存在を思い出した。床を綺麗にしてローリエを仰向けに寝かせた後、軟膏を探す事にした。
テーブルの上にあったので手に取り、ローリエにありったけのクリームを使って頭の傷を塗った。
他にも怪我をしている所がないか探すために、白衣の袖やズボンの裾をまくってみた。
ガラスの破片により出来たと思われる傷跡を塗っていく。本当は水を流したりして、傷口を洗わなければならないかみしれないが、今は一刻を争う事態なので、眉唾の処置しか出来なかった。
大体の部分を塗り終えると、胴体にも塗らないといけない事に気づいた。
このままスルーして医者を呼びに行ってしまったら間に合わないかもしれない。
けど、ローリエは……いや、今は緊急事態だ。恥ずかしさとかは全て捨ててしまえ――と自分を奮い立たせると、羽織っていた白衣を脱がした。
だが、私の予想していない事が起きた。どうも身体つきが女性ぽかったのだ。
私は外見や口調からして、てっきり男性とばかり思っていた。それに私が見た限りではふっくらとしている部分があった。
私は慎重に脱がしてみると、やはり私の推測通りだった。腹が膨らんでいたのだ。
これは単なる不摂生な生活をして肥えた訳ではない。ローリエ――彼女のお腹には新しい命が宿っていた。たぶん妊娠5ヶ月だ。
なんて事だ。白衣を着ていたから全く気が付かなかった。私はお腹に耳をあててみた。
――トクン、トクン
赤ちゃんらしき心臓の音が鳴っている。この子は生きている。まだ生きている。まだ生きたがっている。
私はそう直感したが、どうすればいいか分からなかった。
私はローリエの方の心音を聞いてみた。信じたくはなかったが、うんともすんとも言わなかった。
私はローリエの顔を近づけた。呼吸はしていなかった。なんて事だ。母体は停止しているけど、腹の中にいる新しい命は未だに生きようと抗っているんだ。
私は再び腹に耳をあてた。まだ心音は鳴っていた。どうにかしてやりたいが、どうすることもできない。
ふと床にナイフが落ちているのを見つけた。私はそれを手に……いや、駄目だ。何を考えているんだ。いくら何でもそれは駄目だ。たとえ取り出したとしても、早すぎる。
やめよう――決意したが、「どうぞ」と床にあるはずのナイフが私の頬付近まで近づいていた。
黒いローブの老人が差し出していた。
「お爺さん! 私は……私はどうしたらいいんですか?! あなたの弟子のお腹に新しい命が……」
「あぁ、知っているよ。私が彼女を孕ませたからね」
「……え?」
私は一瞬戸惑ってしまった。この人は何を言っているのだろうと思った。老人の話は続いた。
「ローリエは私と契約関係だった。私が知恵を与える代わりに、私は彼女に種を植える」
なんて狂った契約なのだろう。けど、ローリエの話を思い出した。確か彼女は万能薬を作るために旅に出ていた。
その知識と引き換えにこの老人に貞操を捧げたと考えると、胸が痛んだ。
「あなたは悪魔なの?」
私は思わず聞いてしまった。老人は「私の事よりも目の前の命を優先するべきじゃないのかね」とナイフを近づけてきた。
私は葛藤したのち、無言でナイフを受け取った。今だったら見過ごす事ができる。けど、それは小さい命を見殺しにする事になる。
それって、人殺しと同じじゃない。いや、どうなのだろう。あぁ、なんで肝心な時に灰色の猫が出てこないんだ。
もし側にいたら、腹を切ったあとの未来を教えてもらおうと思ったのに。
「どうした? 早くしないと赤子が死ぬぞ」
老人に催促されている。私の心臓音が聞こえてくる。それがまるで腹の中にいる命と同調しているかのように高鳴ってくる。私の鼓動が弱くなっているような気がする。恐らくその子も……。
私は覚悟を決めた。切開なんてやった事ないけど、ナイフで腹を裂いた。死後少しだが、止めどなく血が溢れてくる。
両手に新しい布を巻きつけて、腹の中に突っ込んだ。それらしきものを掴むとソォっと取り出した。
想像していたが、まだ未熟だった。身体は林檎みたいに真っ赤だった。へその緒は繋がっているし、形もキチンと人だと分かるが、両手に収まるぐらいの大きさだった。
やはり早すぎたんだ――と思ったが。
「おぎゃーーー!! おぎゃーーー!!」
大きな産声が上がったのだ。私は信じられなかった。まだこの世に出てくるには未熟な赤子が小屋中に響き渡るぐらい泣き叫んでいた。
「ほらほら、早くへその緒を切らないと」
老人にそう言われたので、私はローリエと赤子との縁を切った。赤子はうるさいくらい泣いていた。でも、ここから先どうすれば……。
「それを私に渡しなさい」
すると、老人は手を出してきた。
「渡すってまさか……赤ちゃんを?」
「あぁ、そうだ」
老人がこの赤子をどうするつもりなのだろう。
「心配するな」
すると、近くで別の声が聞きこえた。猿だった。
「どっちみち、今渡した方がいいぞ。でないと、せっかく苦労したのが水の泡だ。
それに契約とはいえ、その子の父親だ。母亡き今、親権はこいつにあるだろう」
確かに彼の言う通りだ。私は慎重に老人に差し出した。老人は「ありがとう」と皺だらけの手で受け取った。
「これで若返る事ができる」
老人は赤子をフードの闇の中に放り込んでいった。




