第19話 これからは王子ではなく兄と呼んでいいですか?
翌日も私はローリエの手伝いをするために家に向かった。しかし、今日はあいているはずのドアに鍵がかけられていた。
「あれ? いないのかな?」
試しにノックしてみると、何も反応が来なかった。もしかして留守かもしれない。また日を改めて訪ねようと思い、立ち去ろうとした――が。
「ご主人様は留守だよ」
足元から急に声が聞こえてきた。サッと下を向くと、一匹の灰色の猫が私を見上げていた。
まさかこの子が……いや、そんな訳ないか。私はそのまま行こうとしたが、灰色の猫が通せんぼするかのように座っていた。
「まぁ、そう諦めないで。君は大きな分岐点に立っているんだから」
灰色の猫からハッキリと人の言葉が聞こえてきた。私は叫び声を上げて逃げようとしたが、瞬間移動したかのようにまた立ちはばかった。
「あ、あなたは何?! 私に何のようなの?」
「僕はただの猫だよ」
「ただの猫が人の言葉を話せる訳ないじゃない」
「喋れる熊は信じるのに、僕の言葉は信じないのかい?」
「あなたとは初めて会ったから、アップルちゃんとは全然違うのよ」
私はそう言って背を向けたが、三度目の通せんぼで、さすがの私も腹が立った。
「あなたは何がしたいの? 意地悪するんだったら怒るよ?」
「まぁ、そう焦らないで。今から君に幸せな選択肢を与えようと思っているんだから」
幸せな選択肢? 何それ。
「具体的には?」
「ふふん、ようやく聞く気になったね」
灰色の猫は上機嫌に鳴いた。
「単純な二択さ。このまま帰ってパイを焼くか、それとも待つか……この二つのどちらかを選ぶかで君の運命が変わる」
何それ、どういうこと?
なぜその二択を選ぶ事で私の未来が変わるっていうの?
訳が分からない。
「じゃあ、もしこのまま帰ったらどうなるの?」
「とびきり美味しそうなアップルパイが出来上がりそうだったのに、火加減を誤って焦がしてしまう」
「じゃあ、ここに残ったら」
「素敵な事が待っている」
うーん、何とも微妙な二択。もし帰ったらアップルパイを焦がすという悪い方の未来は明確なのに、肝心の幸せな未来は曖昧。
でも、それを知ってしまったら家に帰れなくなるじゃない。もしかしたら嘘をついている可能性も……。
「ねぇ、本当に当たるの?」
「僕を信じて」
灰色の猫はまたニャァと鳴いた。
「ユキ!」
すると、背後から聞き覚えのある声がした。いやいや、まさか……そんなまさか。
「ほら、もう素敵な事がやってきた」
猫はそう言うと、スタスタと庭の方に向かって消えていった。私はゆっくり振り返ると、シナーノ王子がいた。
「ど、どうしてここに?!」
「君を迎えに来たんだ」
王子はそう言って、いきなり私を持ち上げてお姫様だっこをしてきた。
「ちょっ、ちょっと待ってください! いくら何でも急過ぎます! 私はあの……その……」
急に王子との距離が近くなったせいか、どうしたらいいのか分からず、特にうまい言い訳が頭の中で浮かび上がることも無く、ドギマギしてしまった。王子は真剣な顔をして言った。
「国に戻って考えたんだ。君を悩ませているのは何か。それはこの森だ。森にいるから、一人で森に住んでいるから不安になったりするんだ。さぁ、今度こそ僕と一緒に森を出よう。そして、僕の国で新しい人生を過ごそう」
まさか二度目のお誘いを受けるとは思わなかった。嬉しい。とても嬉しい……けど。
「あの……あの家は兄との思い出が詰まっているんです。もし手放してしまったら……」
私は不意に王子と目があった。何故か兄のシルエットと重なって見えた。それもそうだ。シナーノ王子と兄はまるで双子かと思うくらい顔が似ているから、見間違えるのは当然だ。
だけど、今回は違う。まるで乗り移ったかのように鮮明に見えたのだ。
もしかして、シナーノの王子は兄の生まれ変わり……?
「あの……もし暮らすのでしたら、条件があります」
「なんだい?」
私が移住に前向きな返事をしたことに嬉しく思ったのか、王子は和やかな声で聞いた。
「これからは王子ではなく兄と呼んでいいですか?」
「……え?」
王子は明らかに戸惑っていた。自分でもおかしな事を聞いてしまったなと思った。
まだ出逢ってそんなに経っていない相手に移住しようと誘われたのは天文学的奇跡だというのに、王子を兄と呼んでいいのかだなんて……厚かましいにもほどがある。
「あのっ、い、今のは忘れて……」
「いいよ」
シナーノはニコッと笑った。
「君が一緒に来てくれるのなら、僕は兄でもいい」
何という事だ。まさか快諾してくれるなんて……あなたって人は本当に天使様。
「でも、僕も一つだけお願いを聞いてくれるかな?」
「……はい? 何でしょうか?」
王子の願い……一体何だろう。首を傾げていると、急に彼の顔が近づいた。そして、私の唇に暖かい感触が……って。
(いいいいいいいまのって、ききききききす?!)
たちまち脳内が沸騰し、顔も燃え上がるくらい熱くなった。
王子はなぜ急に私に口付けなんかしたの?
そう聞きたかったが、あまりの突然のことに私は黙って彼の顔を見ることしかできなかった。
シナーノはゆっくり元の位置まで顔を戻して、真っ直ぐ私を見て言った。
「国に帰るまでは僕の恋人になってほしい」
(え、えぇぇ、えええ、うぇえええ?!)
王子からのまさかの告白に私の脳内はパニックになり、どう返したらいいか分からず、暫く言葉も出なかった。
そして、そよ風が吹く中、ようやく出た言葉は……。
「み、短い間ですが、よろしくお願いします」
何とも堅苦しい挨拶で、王子の想いを受け取ってしまった。




