第56話
先程の話を聞いていた限り、二人は望んで結ばれて、婚姻関係を結んでいた。両家には反対されていたが、駆け落ちまでしてしまう二人である。むしろ、子を望んでいたのではないかとさえ思えた。
弥織によると、二人は両家にしっかりと認めてもらった上で婚姻生活を送りたいと改めて思う様になったそうだ。
本当に愛し合っているのだから、後ろめたさをもって生きるのは違う。何も後ろめたいものなどなく、二人は愛し合っているからこそ婚姻した。祝福してくれとまでは言わないが、認めてくれ、と誠心誠意を以て歎願しようと決意したのだと言う。
そして、実際に弥織のお父さんは、両親に理解を得ようと実家に赴いた。
しかし──二人の願いは通じなかった。勝手に籍を入れた事にお父さんの両親は激怒し、その挙句にショックでお父さんの母親──即ち、弥織の父方の祖母──が心筋梗塞になってしまったのである。
「え、亡くなったの⁉」
「ううん。危なかったみたいだけど、命は取り留めたみたい。でも、それが切っ掛けでペースメーカーが必要になっちゃって」
それから機械を身体に入れないと生命を保てなくなったのだと言う。
そして、弥織の両親はその事で深い罪悪感を抱いた。自分達がそんな事を言い出さなければ、こっそりと暮らしていれば、こんな事態にはならなかったのではないか、と思ったのだ。
その気持ちはわからないでもない。心筋梗塞と言うと、本当に亡くなるかどうかといったところだったのだろう。生きていたからよかったものの、自分達の歎願のせいで人が生死を彷徨ったのだ。罪悪感を抱いてしまうのも、無理はない。
そして、その矢先に──
「お母さんの妊娠が、発覚したの」
弥織は諦めた様な笑みを浮かべると、そう言った。
タイミングとしては、最悪だ。きっとその歎願をする前であれば、二人は子を宿す事を心から喜べたであろう。だが、自分達のせいで人が死にかけた後に、子を宿している事が発覚した。無論、妊娠の事など言えるはずがない。健康な時ならまだしも、お父さんの母親はペースメーカーがないと生きていられない状態。そんな時に子供ができたなどと報告すれば、今度こそ心臓が止まって死んでしまいかねない。
弥織のお父さんとしても、そんな母親を見捨てるわけにもいかなくなってしまった。しかし、その母親が折れる事は有り得ない。
そこで、弥織のお母さんは『別れるしかない』と悟ってしまったのだ。徐々に距離を置いて、弥織が生まれたタイミングで離婚を切り出したのだと言う。
その時に彼女の両親の間でどんなやり取りがあったのかまではわからない。きっと揉めたのだろう。結局、弥織のお母さんが突き通して離婚を認めさせて、生まれたばかりの弥織と共に、家を出て行った。そこで、二人の幸せだったはずの結婚生活は終焉を迎えたのだった。
そこからは、以前聞いた話の通りだ。弥織のお母さんは女手一つで弥織を育てようとしたが、結局身体を壊して病に伏せてしまった。
お父さんは離婚後一度実家に戻ったが、弥織の母の死を知って、結局家を出て行ったのだと言う。そこでも、どれだけの揉め事があったのかは容易に推測できる。
弥織のお父さんは……きっと、実家を強く怨んだのだろう。憎んだだろう。同じ男だからか、俺はその気持ちが何だかよくわかった気がした。
それ以来、お父さんの行方はわからないらしい。もしかすると、弥織の祖父母は知っている可能性があるが──或いは、弥織を引き取ろうとした可能性もある──敢えて彼女には隠しているのかもしれない。
この話の中で最も切ないのは、そうまでなっているのに、一度もお腹の子を諦めるという選択肢が二人になかった事だ。二人の愛がどれだけ本物だったか、弥織がどれだけ二人に望まれた存在だったかを物語っていた。その存在が、二人の別離を生み出したというのに。
「ね……? 私のせいでしょ?」
話し終えた時、弥織の声と肩が震えた。
「私が生まれてなかったら、お父さんとお母さん、別れてなかった。別れてなかったら、きっとお母さんは今も生きてて、二人とも幸せだったかもしれないのに……私が、できちゃったせいで。私なんて、いなかった方がよかったのにッ」
その言葉を吐き出した瞬間、弥織の両の瞳から雫が溢れた。彼女は慌てて両手で顔を覆ったが、間に合わなかった。
この時俺は、伊宮弥織という女の子の新しい一面を知った気がした。
優等生で学校一の美少女で、誰もが憧れる女の子……しかし、彼女自身は、自らの存在を忌まわしいものだと呪っていたのだ。
横に座る彼女の肩を抱こうと迷う俺の手は、未だ宙を彷徨っていた。情けないながら、どうしていいかわからなかったのだ。
違う、と言って肩を抱いてやりたかった。お前は望まれていたんだ、お前のせいじゃないと言ってやりたかった。
だが、きっとどれだけ違うと言っても、彼女はそれをただの慰めとしか受け取らないだろう。
それに、その気持ちが『違わない』事を、俺はよく知っていた。
──やっぱり、弥織と珠理は……。
そう……立場や事情は大きく異なるが、珠理は弥織とよく似た状況に置かれていた。
珠理がいなかったなら、俺の家族も今とは全く異なっていたものだったのだ。
母さんは今も生きていて、俺を優しく見守ってくれていただろう。父さんも毎日家に帰ってきていて、あんなに生気を失っていなかった。きっとあの家は父さんの幸福の象徴として、今もあったはずだ。
珠理さえいなければ──これは、絶対に考えてはいけない事だ。だから、考えなかった。
しかし、きっと俺自身心の何処かで抱いていた本音だった。確実に一度は何処かで無意識に考えてしまっていたと思う。今、弥織の言っていた事をどこかで受け入れられてしまった事が、それを証明している気がした。
それもそのはずだ。これだけ毎日珠理を中心に生活していて、学生としての本分を半分放棄しているのだ。苛立った時や疲れ切っていた時、子育てで苦しくなった時に無意識に考えてしまっていただろう。そんな事など考えていないと自分に偽りながら。
「珠理ちゃんも……私と、同じなんじゃないの?」
弥織が咽び泣きながらこちらをちらりと見ると、そう小さく呟いた。
この言葉を聞いて、やはりな、と思ってしまう。
妹の出産が原因で命を落とした母親、以降家に殆ど帰る事がなくなった父親に、一人で苦労しながら幼い妹の世話をする高校生の兄。その状況から、珠理が切っ掛けで家族がおかしくなったと推測するのは容易い。
或いは、珠理があらゆる事実を知った時、彼女も将来自分と同じ気持ちを抱くのではないか。弥織はそうどこかで感じ取っていたのかもしれない。それを考えれば、弥織が俺達に世話を焼く意味も少し見えてくる気がした。
彼女の瞳からは、未だとめどなく涙が零れている。その涙を拭う権利など、俺にあるのだろうか。その震える肩を癒す権利が俺にあるのだろうか。
俺だって、珠理を内心……
──何を言ってるんだよ、俺は!
一瞬、浮かんだ言葉を否定する。
確かにそう無意識のうちに考えてしまった事はあるのかもしれない。いや、あのままひとりで珠理の面倒を見ていれば、そう思う気持ちはどんどん強まっていただろう。
だが、今は違う。今の俺は、一人ではない。
「違うよ。全然違う」
大きく息を吐くと、俺はある決意をして、弥織の震える肩をそっと抱き寄せた。
「珠理には、お前がいる。俺もいる。仮初めだけど、〝おとーさん〟と〝おかーさん〟がちゃんといる。同じじゃない」
それに、と俺は続けた。
「お前だって、そうだ。弥織が居なかった方がいいだなんて、絶対にない」
「でも、私がいたせいで──」
「お前が居てくれた御蔭で、珠理があんなに笑えて楽しそうに過ごせてるんだろうが」
弥織の言葉を遮って、はっきりとそう断言する。
彼女が存在しない方が良かっただなんて、俺が言わせない。
「お前の両親がどう考えてたかまでは俺にはわからないけど……でも、そんな状況でもお前を諦める選択肢は二人にはなかったんだろ? その結果お前は生まれてきて、今もこうしてちゃんと生きている。そんなお前が、望まれてないわけがないだろ……!」
語気と共に、彼女の肩を抱く力を少し強める。
そのまま泣く妹をあやすみたいにして頭を抱え込んで、その艶やかな黒髪を撫でてやった。
彼女は俺の首元に顔を埋めて、息を殺す様にしてすすり泣いている。俺の制服の裾を掴んで、何かを堪える様に涙していた。
彼女の髪の匂いと体温を感じながら、頭上の水槽を見る。
水槽の中の魚達は、俺達が重い話をしているにも関わらず、優雅に泳いでいた。
こいつらも俺達を観察して楽しんでいるのだろうか──そんな事を想いながら、弥織と珠理について考える。
弥織のこの話を聞いた今となっては、何となく全てが必然だった様に思えた。
どうして珠理が弥織を求めたのか。どうして弥織が珠理に惹き寄せられたのか。そして、どうしてその真ん中に、俺がいるのか。その全てが、この話を聞いて必然だと思えたのだ。
それは、俺なら何とかできるからだ。いや、俺がこいつらを何とかしてやらなくちゃいけない。
珠理に弥織が抱いた様な苦しみを抱かせるわけにはいかないし、弥織が抱いている悲しみは、俺が否定してやらなきゃいけない。
俺が珠理の兄で、おとーさんで、そして、弥織に傍にいて欲しいと願うなら。それはもはや、俺の使命だ。
「それに……俺だってそう望んでる」
「え……?」
弥織が俺の首元から顔を離して、こちらを見上げた。
涙で赤くなった目で、きょとんとしている。
「……お前が傍に居てくれなきゃ、困る」
言ってから死ぬほど恥ずかしくなって、顔から火を吹いた。
赤くなった顔を見られたくなくて、彼女の頭をもう一度抱え込み、軽く俺の首元に押し付ける。
強く抱え込んでしまったので、彼女は小さな悲鳴を上げていたけれど、すぐに呆れた様な溜め息が聞こえてきた。
「ねえ、依紗樹くん」
鼻を啜りながら、彼女はその体勢のまま俺の名を呼んだ。
「ん?」
「その……手、繋いでいい?」
その問いに答える様に左手を広げてみせると、弥織がおずおずと自らの右手を重ねてきた。そして、あの時の国営公園の時の様に、しっかりと互いの指を交互に絡ませる。
「依紗樹くん……」
彼女は同じ体勢のまま、もう一度俺の名を呼んで、こう続けた。
「ありがとう」
俺は何も言わず、弥織の手を強く握る事で返事をする。それに応える様に、また彼女も俺の手を強く握ってきた。
それから暫くの間、彼女の歔欷は続いた。
その間俺は、彼女の手のひらから確かなあたたかさを感じながら、ずっと頭上を泳ぐ魚達を眺めていた。




