第42話 父子の会話再び
美味しくラザニアを食べて珠理を風呂に入れて、寝かせる──これまで通りと言えばこれまで通りだった。
だが、美味しいものを食べるとその分満足感も大きいのか、珠理を寝かせる際に絵本を読んでやっていると、俺も一緒に寝落ちしてしまっていた。
意識が戻ってきた時には、深夜一時を回っていた。
「あ、やべ……完全に寝てた」
まだ洗い物もしていないし、洗濯もしていないのに、これはまずい。せめて洗い物だけでもしておこう──そう思って、珠理を起こさない様にゆっくりと起き上がった。
珠理が寝ているのを確認すると、そのまま豆電球だけ消して、そっと部屋から出て一階に向かう。
階段を降りて一階に降り立った時である。耳に異変を覚えた。台所から水の音がしたのだ。
──あれ、もしかして俺水止め忘れてた⁉
そう思って慌てて台所に向かうと、男がカチャカチャと洗い物をしていた。もちろん、この家の本来の主である親父だ。
今気付いたが、洗濯室から乾燥機が回っている音もする。どうやら、俺が溜めてしまっていた食器洗いや洗濯を代わりにやっておいてくれたらしい。
──そんな気は回さなくていいからさ、もうちょっと別のとこ気を回してくれよ。
俺は内心で溜め息を吐いて、父の背中をふと見る。
洗い物をする親父の背中は、やけに小さく見えた。昔はもっと頼りになって、何でも解決してくれると思えた逞しさがあった。しかし……今はその背中が、随分と小さくて頼りない。
「おお……依紗樹。起きてたのかい」
親父が俺の気配に気付いて、振り向いた。
前に会った時よりも顔の疲れが増していた気がした。いや、生気が減っている、とも言い換えるべきだろうか。
「親父……わり、珠理の絵本読んでたら寝ちまってさ。後は俺がやるよ」
「もう終わったよ」
親父はそう言って水道を止めた。そして、皿を布巾で拭いて行く。
ちらりと居間のテーブルを見ると、二十四時間営業の弁当屋の容器がおいてあった。これが彼の夕飯だった様だ。
「今日は……ラザニアだったのかい?」
親父が皿を拭きながら訊いた。
「え? ああ……」
「難しい料理を作るんだね。いつの間にか料理の腕も上達したと言う事か」
俺の血を引いているというのに、とどこか諦めた様な笑みを浮かべる。
「料理が苦手なのは、相変わらずさ。あんたの血のせいでな。同級生の料理が得意な子に……教えてもらって作ったんだ」
ふと弥織の顔が浮かんだ。
ここ最近の、俺と珠理の笑顔を生み出してくれる女の子。天使や聖母みたいな女の子だ。
「そうかぁ……ラザニアなんて食ったのはいつ以来だろうなぁ。最後に母さんが作ってくれた時以来かなぁ。母さんの作ったラザニア、覚えてるか? とても美味かっただろう」
「ああ……そうだな。もう味は思い出せないけど、美味かったのは覚えてるよ」
また過去の話だ。俺はもう苛立ちすら浮かばなかった。
こうして父親と夜に話しても、こんな話にしかならない。だから俺はいつも、彼と話すのを避けるのだ。
──いつまで過去に生きてるんだよ、お前は。
何度こう怒鳴ってやりたいと思っただろうか。
だが、怒鳴って治るくらいなら、親父だってこんな風にはなっていない。両家の祖父母共々、親父には何度も叱咤激励していた。しかし、親父は変わらなかった。愛妻がいなくなったこの家庭から目を逸らし続けたのである。
そして……追憶の中にいる、母さんを今も求め続けている。今きっとこの瞬間も、ラザニアという単語だけで過去に旅立っているのだ。
「ああ、依紗樹。生活費の事だけどな」
珍しく親父が少し明るめの声で話し出した。こんな声を聞いたのは、何年ぶりくらいだろうか。
「父さん、この不景気の中昇給してな。来月からお前に振り込む生活費を二万程アップしておくよ」
「そんなに? いや、もう十分だよ。今でさえも使い切れてないのに」
光熱費やインターネット代、そして俺のスマホ代も親父の口座から自動で引き落とされている。その他、珠理の保育園代等もいつの間にか親父が支払ってくれているのだ。
金の使い道は、殆ど食費代や生活消耗品のみだ。後は珠理の玩具代くらいだが、それもそんなに金がかかるものでもない。
「高校二年といえば、色々金の使い道もできてくるだろう? 好きな女の子とデートに行ったり、友達と遊んだり、お洒落を楽しみたい時期でも──」
「珠理がいたら、できるわけないだろ。あいつがお祖父ちゃんにもお祖母ちゃんにも懐かない事はわかってんだろ? 俺が、面倒みるしかなんだよ」
親父の言葉を遮って言った。
きっと、俺が一人っ子だったなら、嬉しい言葉だった。小遣いやるから遊んでこいと言われたら、きっと喜んでいただろう。でも、うちの家は、そうじゃない。
「そうか……そうだな。すまない」
親父は首を垂れた。
そう、こうやって何か言っても、親父は謝る事しかしない。息子が生意気いいやがって、と怒鳴る事もなければ、殴ってくる事もない。ただ、俺に対して申し訳なさそうにしているのだ。
「金なら今ので十分だからさ、親父も自分に使えよ。いいもん食ったり、どっか若い女がいる店で遊んだりさ。別に俺、そういうの何とも思わねえし、ずっと母さんの事想ってるくらいだったら、それで──」
俺がそう言うと、がん、と拭いていたコップをキッチンカウンターに強く置いた。コップを握る親父の手は、震えている。
「ふざけた事を……言うんじゃない」
呻く様な低い声が、台所から漏れてきた。
その声を聞いて、こちらも一気に罪悪感に見舞われる。やはり、これは触れてはいけない事なのだ。
「……悪い。ちょっと言葉選びが悪かった。そういう意味で言ったわけじゃないさ」
俺は両手のひらを天井に向けて、肩を竦めた。
親父はそこではっとしてコップを握る力を弱め、「わかってるよ」と力なく笑って首を横に振る。
「それにしても……依紗樹、もしかして、何か良い事があったんじゃないか?」
洗い物を終えて、冷蔵庫を開け缶ビールを一本取り出すと、親父が言った。
「え? いや……なんで?」
「いつになく口数が多いからな。普段なら、俺とは一言二言喋ったら上に上がるだろう」
親父はくっくっと喉の奥で笑って、缶ビールのプルトップを開けて、ビールをひと口飲む。
言われてみれば、そうだった。高校に上がってから親父とこんなに言葉を交わしたのは初めてかもしれない。
「別に……こんな時間に起きちまったから、目が冴えてるだけさ」
一瞬、弥織が〝おかーさん〟を務めてくれている事を話そうかと思った。
その御蔭で珠理が普段より笑い、美味しいものを食べさせてやれる様になった事も。
だが、彼に行って何が変わるものでもない。彼には、関係ない話だからだ。
「それはそうと、親父。来月に林間学校があるんだ。一泊二日だから、最低一日は誰かが珠理の送り迎えをしてやらなくちゃいけない。頼めるか?」
祖父母に頼んでおいてくれないか、とは敢えて言わなかった。
普段ならこんな頼み方はしないだろう。それに、どうせ彼がその狙いに応えない事などわかっている。
だが、それでも俺は敢えてこんな頼み方をした。それはきっと、弥織が『お父さんに頼んでみては』と漏らしたからだ。
「ああ……じゃあ、うちの方に頼んでおくよ」
親父はビールをひと口飲んで瞑目すると、そう答えた。
うちの方とは、父方の祖父母だ。母方の方とは連絡が取りにくいらしく、こういったお願いは基本的に父方の祖父母に頼むのが通例となっている。
彼は自分のせいで母さんが亡くなったと思っているのだ。自分が二人目を願わなければ母さんは死ななかった、と夜中にずっと一人で泣いていた。だからこそ、母方の祖父母には顔向けできないのだろう。
俺は心の中で舌打ちをした。
こう答えるのはわかっていた。わかっていたが、どこか期待してしまっていたから、余計に腹が立って来る。
俺が踵を返して階段の方に向かうと、彼が俺の名を呼んだ。
「……苦労ばかり掛けて、悪いな」
その言葉に、思わず奥歯をぎりっと噛み締めてしまう。
そう思っているなら、立ち向かってくれと怒鳴りたい。怒鳴りたいけれど、それが彼にとって酷な事も、できない事もわかっている。
だから俺は、「いいよ、もう。慣れたし」と頷くしかないのだった。
「でもさ……珠理、もう五歳なんだ。来年には小学生になる。いつまで経っても、父親がいねーって事を誤魔化し切れるわけもないだろ。あいつはもう、自分に父親と母親がいない事もわかってる。わかってるのに、何も言わないんだ。それがどれだけ辛い事か、わかってんのかよ……!」
兄と兄のクラスメイトを〝おとーさん〟と〝おかーさん〟に見立ててその寂しさを紛らわせないといけないくらいには、珠理も苦しんでいる。
もしかすると、弥織も珠理のそんな気持ちを何処かで察しているからこそ、ここまで手伝ってくれるのかもしれない。
「……すまない」
父のその言葉に、俺は首を横に振る。
親父がそう答える事など、わかっていたはずだ。
「まあ……あんまり飲み過ぎんなよ」
そうとだけ言って、珠理の眠る部屋へと戻った。
部屋に入ると、寝惚け眼の珠理が「おにーちゃん……どこ?」とむくりと起き上がった。
どうやら物音で起こしてしまったみたいだ。
「悪い悪い、トイレ行ってた」
隣に寝転がると、甘えたな猫の様に「おにーちゃん」と言って抱き付いてくる。そして、次の瞬間には眠っていた。
──バカ親父……俺に謝ってどうすんだよ。
珠理の頭を撫でながら、父親に対する苛立ちを必死に抑え込んだ。




