第29話 珠理の魔法
結局俺はその後数時間ほど居間で眠り込んでいたらしい。目が覚めたのは、台所から料理をする音が聞こえてきてからだった。
目を開けると、弥織がまた髪を結って台所に立っていた。横には珠理がおり、そんな彼女をキラキラした眼差しで見上げている。
「あ、おはよう。っていうより、こんばんは、かな?」
起きてきた俺を見て、弥織は少し悪戯げに笑った。今朝のやり取りの仕返しをしたつもりだろうか。
「そうだな。こんばんは、だな」
俺は特段反論する事もなく、肩を竦めてみせた。
外を見ると、もう薄暗くなってきている。時刻は十七時半を回ったところで、反論の余地もなかった。結構ぐっすりと寝てしまっていたらしい。
「てか……もしかして、晩飯も作ってくれてるのか?」
「うん。ナポリタンの材料を少し余らせてたから、それと冷蔵庫の中にあったもので、ありあわせだけど」
まな板の上ではいくつかの野菜が切られていて、ボウルにはかき混ぜられた卵がある。
「おむらいすー!」
何を作ってるんだ、と俺が訊く前に珠理が教えてくれた。
ナポリタンとオムライスか。子供が好きな食べ物ランキングトップファイブに入ると言っても過言ではないメニューだ。
「ナポリタンと殆ど同じ材料で作れるから、おすすめだよ」
簡単だしね、と弥織は付け足してコンロに火を点した。
「夕飯も一緒に食べてってくれるのか?」
「あ、ごめん。今日も夜はうちで食べるから、作るだけ」
それを聞いて、残念な気持ちになってしまった。
そう……俺は、彼女にもっとここにいて欲しいと思っていたのだ。
「そっか……なんか悪いな、何から何まで」
その残念な気持ちを隠して、俺は微苦笑を浮かべてみせる。
彼女にこれ以上を求めるのは良くない。きっと、今でも十分過ぎるくらい無理をしてくれているのだ。
そして、それは俺の為ではない。珠理の為なのである。俺の望みをそこに混ぜてはいけない事など明白だった。
「ううん、いいよ。珠理ちゃんに美味しいもの食べて欲しいし。ね、珠理ちゃん?」
「うん! おかーさんのご飯もっとたべたい!」
あと数十分程度の、束の間の親子が笑みを交わし合う。
それからおかーさん特製オムライスの作り方を横で教えてもらいながら、彼女が料理する姿を眺めていた。彼女の説明など途中から殆ど頭に入っていなくて、ただただその姿を俺は目に焼き付ける。
彼女が台所に立っていて、それで珠理が嬉しそうで……もし俺が社会人で、本当に〝おとーさん〟だったなら、この光景を守る為に何だってするだろう。そんな気にさえさせてくれた。
もしかすると、世のお父さん方はこうした光景を守る為に毎日汗水垂らして働いているのかもしれない。俺の親父は、その守るべき光景すら失ってしまったから、帰ってこなくなってしまったのだろうけど。
──もうこの家で暮らしてくれよ、弥織。
そんな願望がふっと脳裏に浮かぶが、言えるわけがない。
俺と弥織は〝おとーさん〟でもなく〝おかーさん〟でもない、ただのクラスメイト。この二日間も、ただ珠理の願いを叶えてやっているだけの、大袈裟な御飯事に過ぎないのだ。
それを想うと、少し寂しかった。俺が彼女に感じているこの妙な親しみは、珠理がいないと成り立たないもので、珠理がいなくなった瞬間、俺達はただのクラスメイトに戻ってしまうのだ。
視界の片隅に、『シンデレラ』の絵本が入った。弥織が持ってきてくれた絵本のうちの一冊だ。
子供に読ませる為の絵本だからだろうか。俺がイメージしていたシンデレラよりも、随分可愛いタッチで描かれている。
魔女の魔法によって馬車やドレスを手に入れたシンデレラは、お城のダンスパーティーに参加する。しかし、その魔法は一時的なもので、十二時の鐘が鳴ったと同時に解けてしまうものだ。その魔法が解ける前に王子の前から立ち去らなければならなかった彼女は、一体どんな気分だったのだろうか?
今のこの状態も、謂わばシンデレラが魔法を掛けてもらっている時と殆ど同じだ。
この状況は、珠理という魔法使いが俺達に掛けている幻想の魔法。そして、その魔法は珠理がこの『御飯事』の必要性を感じなくなったら、解けてしまう。馬車がただのかぼちゃに戻ってしまうのと同様に、俺達が〝おとーさん〟と〝おかーさん〟でいられる魔法も解けてしまうのだ。その時、俺は一体どんな気持ちになるのだろうか。
それはきっと、魔法が解けた瞬間のシンデレラと同じ様な気がした。
「はい、注目っ。ここで何と、依紗樹くんが散々バカにしていた蜂蜜を投入しま~す!」
「え、嘘だろ!? オムライスにも蜂蜜入れんの!?」
「わあ、はちみつ~!」
伊宮弥織のお料理教室は、その後も続いた。
こんなに明るい我が家のキッチンは、珠理が生まれてから初めてだった。
だが、これもその魔法の賜物だ。そして魔法はいつ切れるかわからない。
──いっその事、本当に夫婦と親子だったらよかったのに。
こんな子供みたいな事を考えてしまう俺は、やっぱり大人にはまだまだ程遠い様だった。




