4.慰めのキス
「疲れたな~……」
洞穴を出てまた海を泳いでいる最中に送って行くぞと言うと、リスティーは笑いかけてきて大丈夫だと断ってきた。
「明日も学校あるし、アンタも早く寝なさいよ」
じゃあ! と最後までエディスの手を引っ張って沖に上がると手を振って走っていく。アイツいつも走ってんなと考え、ぷっとふき出して笑った。
魔法を解いて、後ろ手に握って海岸を歩く。自分ひとりなら軍人に見つかっても構わない。
何気なく見上げた夜空には星が瞬いていて、エディスは頬の力を緩める。なんなら朧げながらも三日月まで浮かんでいて、いい夜だなんて言葉が喉を突いて出そうなくらいだった。
そうやってしばらく歩いていく内に、前からやって来た人とすれ違う。エディスは顔を海の方に向けていて、横を通っていった人の顔になど気がついてもいなかった。
「……君は」
だが、背後から漣に掻き消されてしまえそうな程に小さな声が耳に入ってきて、振り向く。
興味なさそうだった目が見開かれていき「アンタ」と口をついて出る。
ガス灯のない道、薄暗闇に紛れられる深い緑色の髪。月をはめ込んたような金の瞳がこちらを射止める。服はあの時とは違い黒の揃えではなく、無難なTシャツにジーンズという装いだったが間違いない。
ーーあの時出会った、吸血鬼だった。
「こんな時間に散歩だなんて。悪い子だ」
首が傾いて、下ろしている髪がサラリと広がる。斜め上に引っ張られている口角に、笑っているのかと気がつく。
その青年を例えるなら、今日のような夜空が相応しい。明るくもなく、暗くもない。ほんのりと月光をまとって、なんとはなしに寄り添ってくれる。そんな気配がした。
「……寝る気になれなくて」
素直に口にすると、口から息が吐き出される。ふふ、とあえかな笑い声の後、「俺もだよ」と繋いだ。
「あのさ、一緒に歩こうぜ」
胸に手を当てて、勇気を出して口にした言葉がまっすぐ彼に向かっていく。風に吹かれる髪を耳にかけて「いいよ」と、くすぐったそうに笑いかけられる。
恋っていいものなのか? かつてシルベリアに心の中で投げかけた台詞が脳内に戻ってきた。
もし、本当に自分が王子様で。悪い魔女にかけられた魔法を、おとぎ話のように解くことができたのならーー
「行こうか」
自分よりも少し体温の高い手に握りこまれて、前に足が進む。リスティーの時みたいに引っ張られるというよりも、導かれると言った方が合っていると思うような感覚だった。
初めは、ただ歩くだけだった。エディスよりも余程背が高いその人と歩幅が全く合わなくて、その背中を見つめるばかり。
「なあ、お妃様が好きなのか」
あの時コイツはそう言ったのに、シュアラロは俺に恋をしたと言う。本当はどっちなんだという意味をこめて問いかけると、手を引き寄せられる。
存外しっかりと筋肉のついた胸に受け止められて、腰を曲げた魔物が耳元に顔を近づけてきた。
「君だよ」
囁き声に驚いて、耳を押さえて身を離す。夜目にも見えるほどに顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。そう想えば急に総毛だって、血が足元へと下がっていく。自分の中のなにかが歓喜し、それが体内にあるコイツの命だと気づいた時、後ろへ下がろうと足の踵が上がる。
指を当てて笑う男の唇が、「おいで」と動くのが見えて唾を飲みこむ。
夜になると無性にもの悲しくて、人肌が恋しくなる時がある。今がその時なのだと思う。そう言い訳をして、エディスは名前も知らない男に腕を伸ばした。
抱えられて、どこに連れて行かれるのか。迷い、訊くと「もう少し行ったところにベンチがあるから」と答えられ、なんだと胸をなで下ろす。
男の肩に手を置いて背を伸ばすと、海岸線がよく見えた。夜の海は綺麗だけど、危険だから一人で行かないようにねとリキッドが言っていた通りだ。日中よりも嵩の増した海が立てる音が心地よく、男にもたれ掛かって目を閉じる。
「疲れちゃった?」
「うん。色々あってさ」
ずっと、この男に会いたかった。けれど、いざ会うとなにを話せばいいのか。顔を合わせた時にあった戸惑いは、男が歩く振動に消えていく。
なにも話さなくてもいい。そう感じられる雰囲気が二人を包んでいた。
海を見渡すために作られたらしい、噴水のある小さな公園に辿り着く。人影は見当たらなかったが、万が一軍人に見つかったらと思うと気が気ではなくなりそうだったので下ろすよう頼む。
だが、男は平然とした顔つきでエディスを抱いたままベンチに腰掛けた。えっ? と目を丸くしつつもベンチにぶつからないように足を丸めていたエディスだったが、靴を脱がされると「返せ」と手を伸ばす。
しかし地面に置かれて、膝の上に横向きに座らされると(なんだこれは……)と眉間に皺を寄せ、憮然とした顔つきになった。
膝を抱えて座ると「かわいい」と言ってそのまま抱きしめられる。八歳の頃よりは大きくなったものの、まだ子どもの範囲内ではあるのだ。特にこれだけ体格の差があると、自分がそのくらいの年に戻ったかのような違和感を覚えてしまう。
子どもじゃないのにという気持ちが顔に出ていたのか、男に「そんな顔しないで」と背を優しく触れられる。
「大人扱いしていいんだったら、するけどね」
悪戯っぽく言われ、からかわれているのだとふてくされたエディスの頬をつつきながらも男がそう言う。売り言葉に買い言葉、幼い頭ではそう思い「やってみろよ」と答えた。
いいの? と再度了承を得ることなく、男の顔が近づいてくる。男の方に顔を向けられ、顎をそっと指で押さえられて唇同士が触れ合う。
シュウが誘っても一緒に来てくれないからという理由で連れ出された舞台で、遠目に見えたものだ! とかつて見た映像が脳裏を通り抜けていく。あれは実際に口を合わせていなかったけど、解説を頼んだシルベリアがそう言っていたからこれに違いない。
口はすぐに離れていって、また戻ってくる。そっと気遣うように口づけられ、漠然とした不安に駆られた。
(あれ? でも俺、本当に子どもなんだよな……これって、いいのか?)
親鳥が子どもに餌を与える時のような、触れては離れるキスの繰り返しだけなのに次第に意識が霞んでいく。
はしたないだとか、恥ずかしいだとか。そういう常識が失せてきた時、唇に湿り気を感じた。それが舌に舐められたのだと気付く間もなく、口のあわいを舌先で開かれる。入り込んできた慣れない感触に背をひくつかせると、慰めるように撫でられた。
「あ……はぁ、ふあ……っ」
口の間から漏れていく声が妙に耳に響いて、息苦しさから目尻に涙が浮かんでくる。ようやく解放されて、男にもたれかかって息を継ぐ。どうしようもない不安感が消えない胸を押さえ続ける。
「君が成人したら、奪いにくるから」
ぼんやりと薄らぐした意識の中「今は意味が分からなくても、覚悟はしておいてほしいな」と言われ、わけも分からないまま頷いた。




