8.捨ててしまいたいと思っているのに
「エディス、どこに行くんスか」
その夜、ホテルを抜け出そうとしたエディスを廊下で待っていたのはジェネアスだった。驚きに目を丸くしたエディスを目の端で見咎めた彼は「油断しすぎじゃないッスかね」と息を吐く。
腕を組んでもたれ掛かっていた壁を指で叩き、横目で見てくる。
「あの子は反軍のリーダーの娘なんスよ」
敵だと言うジェネアスに、エディスは「敵と友だちになっちゃいけないのか」と力なく笑う。
「心配なんスよ、エディスは。ブラッドの息子とも仲良くなったりして」
俯いた友だちの横顔に影が差し、エディスは「帰ってくる」と口走った。それにジェネアスが驚いたのか、口を薄く開いて呆けた顔で見てくる。しばらく見つめ合うと、ジェネアスは耐え切れなくなったのか小さく笑った。すぐに深夜だということを思い出して口に手を当てて噛み殺そうとする。
「嫌われ者ばっか集めて。命知らずすぎなんスよぉ」
「同類ってやつだろ、きっと」
俺だってそうだと言って、ジェネアスの手を握る。少し汗ばんだ手の平に彼の緊張を感じ取り、何度か握り直しているとジェネアスはへへっと笑った。
「分かった。……ちゃんと、起きて待ってるんで。帰ってきてくださいッス」
試してごめんなさいッスと首を傾ぐので、「いいよ」と首を振って彼の肩を叩く。
「心配してくれてありがとな」
行ってくると言って手を振り合い、廊下を進む。
ホテルの玄関を通り抜けてから帽子に銀の髪を隠し、暗闇に紛れ込んで約束の場所へと駆けていく。ぬるい海風が吹き付けてきて、エディスは顔を上げた。
自分と同じように黒い衣装に身を包んだリスティーの姿を見つけると、手を振る。「来たわね」と肩を叩いて走り始める彼女の後ろを追っていく。
「おい、どこ行くんだよ」
「海の魔女のところ」
ひそりと訊ねたことの返答に、エディスの中に生まれた疑惑が心臓から浮き上がってくる。咥内に広がる苦さに眉を顰めていると、リスティーが小さく、波の音に紛れさせるようにそっと歌を紡ぐ。
遠い昔、小さな頃にしか聴いたことがない歌だった。忘れようのない、冷ややかな腕の中で聴いた子守唄。いなくなった者が戻ってきたような驚きに包まれたエディスが思わず足を緩め、遂には立ち止まってしまうとリスティーは振り返ってきた。
「……なんで、知ってるんだ」
胸に釘が刺さって抜けない。そんな現実に起こってもいない、小さくも確実な痛みに苛まれ、エディスは胸元を押さえた。
「魔女が、この歌を作った人だから」
捜そうとも思っていなかった人物に、知らずの内に辿り着いてしまった。喉の奥に手を突っ込んで引っ掻き回されているような不快感。
「……確かめたいと思ったこと、なかったの?」
自分が王族の血を引いているって。そう静かに訊ねられたエディスは目を泳がせる。
「親父は、迎えに来なかった」
毎日毎日、いつ迎えに来てくれるんだろうと期待した。熱に浮かされながらも母を求めたこともあった。けれど、ただの一度も彼らはエディスの”家族”として現れることはなかったのだ。
「こんな髪や目の色だけで騒ぎ立てられて、俺は迷惑してんだよ。俺も、向こうだって家族を捨てたんだから」
負け惜しみを口にして、唇を閉じたくて噛む。
対峙している少女ほど真っ直ぐ前を見据えていられず、目を伏せる。生まれが違うだけで、どうしてこうも振り回されるのだろうかと。
「確かめようよ、エディスのこと」
「……それが、お前が知ってる情報?」
うん、とリスティーが頷く。結局この少女でさえ、自分を色眼鏡をつけて見るのだ。それがやけに悲しく思え、エディスは自嘲的な笑みを口端に浮かべた。
「だって、アンタずっと落ち着かないから。知ったら迷わないでいいのかなって」
肩を掴まれ、弾かれたように顔を上げる。薄暗闇の中、リスティーの眼差しだけが明るかった。
「それだけよ? あたしはアンタが誰だっていい。だって、友だちだもの!」
ホテルに残してきたジェネアスに、ほらと言ってやりたい。お前みたいな奴が他にもいたんだって、笑って聞かせたい。そう思って、思わず体が動いていた。
「ちょ、ちょっと!?」
耳元でリスティーの慌てた甲高い声が響く。抱きしめた彼女の背中を叩いて、「ありがとう」と言うと抵抗が緩んで、最後に頭を小突かれる。
「……いいから、行くわよ」
馬鹿してないでと睨まれて、エディスは体を離す。こっちだからと指を差されて、海岸に沿って姿勢を低くして歩いていく。
昨日の昼に来たばかりの海。大きな岩に背を隙間なくつけて隠れる。軍は眠ることがない組織だ。夜でも誰かが必ず見張り台にいる。
手を前に出して何事かを呪詛のように呟いているリスティーを横目で見、「なにしてんだ?」と訊ねた。
「体を見せないように隠すシールドと、水の中に入っても大丈夫な空気の膜を魔法で作りたいの。……もうっ、この魔法難しいんだから、話しかけないでよ!」
すると集中していたらしい彼女が目を吊り上げて小声で叱りつけられる。エディスは首を竦めて「悪ィ」と詫びた。だが、なかなか出来上がらないのを見て、焦れて口を出す。
「呪文教えろ」
それを聞いたリスティーが頬を膨らませたが、ぼそぼそと小さく呟く。リスティーがしていたように手を前に突き出したエディスが詠唱すると、瞬きの時だけ周囲が黒くなった。これでいいのかと問うと、リスティーは親指を立てて見せる。
【深海に住む姫に請う
その身に纏いし
海の羽衣の力を
我らに与えたまえ】
続けて、空気の膜を作り出す。リスティーはぼよぼよと手を跳ね返してくるそれを触りながらエディスの方を見てきて「ありがと!」と満足そうに笑った。
エディスはそれに少し驚いてから「別に」と言いながら頬を掻く。
「じゃ、あっちよ!」
少女が指差す方になにが待ち受けているのか。
エディスは唾を飲み込み、暗く底の見えない水の中で足を動かす。
夜の海は暗がりで満ちていた。その中をリスティーはエディスの手を握って泳いでいく。ろくに泳ぎ方も知らないエディスは、ほとんど彼女に引っ張られているようなものだった。
「あそこよ。入って!」
リスティーが指で指し示す方に目を凝らすと、珊瑚に囲まれた大きな洞穴があった。
「分かった」
中に入った途端に魔法が全て解け、エディスは慌てて口を手で覆った。
「大丈夫! ここは海水が入ってこないようになってるから」
だが、リスティーに肩を叩かれると手を恐る恐る離し、口を開く。その様子を苦笑しながら見ていた彼女は、エディスの呼吸がちゃんと整ったのを確認すると「ここを真っ直ぐ行ったら、彼女の部屋だから」と洞穴の奥を指差す。
「ここに……」
深い海の中に住む魔女。
一体どんな人が待ち受けているのか。いや――そもそも人なのかさえ分からない。騙されているのかもしれない。誰にもバレずに父の敵を殺す常套手段の可能性だって捨てきれないのだ。
不安、恐怖を振り払うように濡れてもいない髪に触れる。
あの日出会った、魔物に会いたいと願った。素性も知れない男だというのに、寂し気に立ち尽くしていた姿がどうしても忘れられなくて。
「エディス?」
リスティーに呼びかけられ、「悪ぃ」と夢か真か未だに分からない幻想を振り切る。次第に深くなりゆく闇に自ら潜り込んでいくエディスの目に、幽光が舞い込んできた。




