10.まつろわぬ者
長いまつ毛を震わせて瞼が開く。青い目を動かして自分がいる場所がどこか確かめたエディスは、肘を突いて体を起こす。
「……ぃっ、」
エディスが痛みに息を詰めると、水差しを手に取ったロイが振り返って「起きたんですか!?」と明るい声を出す。水差しをテーブルに置き、慌てて駆け寄ってくる部下が無事であることにエディスは安堵した。
「まだ起き上っちゃ駄目ですって」とベッドに横たわらせようとしてくるロイに逆らわず、寝転ぶ。
「お医者さんは二日くらい寝てろって言ってたからね」
「ロイ、なんか掛かり方がすげえ中途半端なんだけど……もっかい治癒魔法掛けてくれないか」
記憶を遡ると今こうして話が出来ているのが不思議なくらいだ。ギジアの禁魔術で喚び出されたものに全身を強打されたにしては全身のピリピリとした痛みは微弱な方だ。だが全快とは言い難く、何度も悪いなとは思いつつも頼むと、ロイは眉尻を上げて拳を握って口を開く。
「そんな簡単に治癒魔法が掛けられると思わないでほしいんですけど!?」
「……あ、そうだよな」
あれだけの負傷なら掛ける方にだって負担が大きい。
ずっと軍属として従じてきたエディスは連日連夜戦うこともざらにあるので、これくらいの怪我で動けなくなったりはしない。念の為に救急袋に入れてきた痛み止めでも打つかと、鞄を取ってほしいと頼むと「なんの為にですか」と冷たい視線を向けられた。
「ごめん、謝るからそんな怒んないでくれよ」
こういう時は素直に謝るのが吉だとエディスは手を挙げて降参を示す。けれど、顔を上げて見たロイは目に涙をたっぷり溜めて今にも泣きそうな様子で、ぎょっとしたエディスは身を固めた。
「ろっ、ろい……」
声を掛けると我慢していたものがついに決壊したのか、ロイはぼろぼろと大粒の涙を零して泣き始めた。今まで倒れたり怪我したりで怒られたり殴られたことは山のようにあれど、ここまで感情を全面に出して泣かれたことはない。
「お、俺が悪かった。つい、その魔物だった時の習慣が抜けなくて。ちょっと前までは多少怪我してもすぐに治ってたからさ……」
言い訳を口にすると、ロイはしゃくりあげて「なんで俺を庇ったんですか」と嗚咽混じりに言う。じっと見つめられたエディスは「なんでって……」と困惑しつつも手招いた。ロイはエディスの傍に寄って床に直に座り、膝に上体を伏せて泣く。
「お前を悲しませる前に、ちゃんと説明しておく必要があったな」
心の準備ができてなかったよなと柔らかい茶色の髪を撫でると、背中の引き攣れが余計に酷くなる。息をするのも苦しそうなロイの背中も撫でて、ちゃんと息をしろよと柔らかい声を出す。
「俺は十二歳の時に黒杯の軍に入隊したんだ。それから今まで軍人であることを誇らしく思っている」
「それはっ、わ、わが、るんですけどっ」
掛け布団と顔の間に腕を挟み込んで涙を拭い、ずっと鼻をすする。
「お前は俺の未来の外交官だろ。軍人が外交官を庇わないことがあるか?」
「でも、あなたは軍人である前に王子だ」
なによりも優先されるべき人物なのだと言われたエディスは「俺は今まで王子として生きてきてなかったんだ」と自分の胸中に渦巻いている困惑を少しさらけ出した。
ロイがそれを受けて顔を上げたので、彼の手をしかと握って視線を合わせる。ロイはまた涙を滲ませ、エディスの手にもう片方の手を重ねてきた。
「こんなことが続くと思うと、胸が締め付けられて……っ、辛い」
「辛いなら辞めてもいい。まだお披露目前だ」
実を言うと契約を結んだ後で人員の変更が可能かどうか知らなかったが、本気でロイが後悔しているならどうにかしてやるつもりだ。
「でも、機会をくれるなら。奴隷や軍人としての生き方しか学んでいない俺に、お前が教えてほしい」
ロイが外交官として成長していくのと合わせて、二人で新しい自分に変わろう。そういう気持ちで伝えると、ロイは俺がですか……? と不思議そうな顔でエディスを見てきた。「そうだ、お前も一緒に。な?」と微笑み掛けると、彼は顔に喜色を滲ませて「俺も……」と呟いた。
「俺もっ! 俺も、あなたと成長していきたいです!」
ガッシリと手を握り返してきたロイの顔にようやく笑顔が見え、エディスは安堵する。
ドアに手を掛けた時、背後から名前を呼ばれて振り返った。壁にもたれかかっていたギールに「なんだよ」と言うと、彼はこちらにやって来て頭を撫でてくる。
「あんなことを言ったのに行っちゃうんだ」
くすりと笑ったギールに、エディスは仕方ないだろと言い返す。
「俺が自分でやるって決めたんだ」
「誰かに手伝ってもらったらいいのに」
駄目だと首を振り、エディスは軍服の襟を留める。体に馴染んだ詰襟の戦闘服の腰に四角い救急袋を提げ、ベルトにL.A-21を通す。
「……エディー、いつでも僕の胸に飛び込んできてくれていいんだよ」
辛くなったら頼ってねと言うギールの言葉に対し、半眼になったエディスは無視を決め込んだ。
解錠魔法を使って強引に開けた事務室のドアを横に引き、中に入っていく。開放的な窓から差し込んでくる月明かりに照らされた中ーーそれはこちらを見ていた。
「よく来たな、愚か者」
背を覆う斜陽の髪、舞台女優のような化粧が施された白い顔かんばせが印象的な男だった。なにより、こちらを刺し抜くような鋭いオーカーの目から視線が外せない。
「アンビトン・ネージュ……」
ふ、と口端を僅かに動かした嗤い方は嫌味っぽく、エディスは皺になりそうな眉間を揉みこんだ。
カツコツとヒールの音を立て、緩く腕を組んだネージュがこちらに寄ってくる。一歩進むごとにエディスの顎が上がっていく。
「その目ーーあ奴らの息子か」
「国王のことか?」
「素直に父と呼べ。奴には目しか似なんだか」
俺の母親はどんだけ性格が悪いんだよ……! と同じ話題ばかりであることに呆れたエディスは拳を握る。その様子をどう見ていたのか、ネージュは「似たのが顔だけだといいな」と首を右に倒す。
「あんな物に挑もうとする耄れ者がまだいるとはな」
人が適う相手だとでも? と上から蔑みの目線を向けられたエディスは、唾を飲み込んだ。ネージュは190センチ以上あるギールより更に頭一つ分くらい背が高かった。
「魔人くらい一人で倒せなきゃ、神を討ち果たすことなんかできない」
「ーーふむ、あのような年代物を有難がる粗末な頭でないようでなにより」
ふふ、と細長い指を口の下に触れさせて笑んだネージュはエディスの旋毛にもう片方の手を当ててくっと指に力を入れた。
「あれを潰せる力、あやかりたいものだな」
「え、なんであなたが」と言ったが、魔人は不老不死だ。例えこの世を憂いたとて、その方法がない。一冊の本になるといえど、その本はどのような方法をもってしても焼けることも破けることもない。
「汝と私の願いは近しい。結びつきもあろう」
それはエディスの願いを理解し、手伝ってくれるということなのか。期待に頬を紅潮させたエディスを前に、ネージュは腕を組んで心理的な距離を取る。
「だが、私は凡俗の野蛮思考は好かん」
腕を組んで睨み据えたエディスが「つまりは」と問うと、ネージュの大きな口が開き、そこからサメのように尖った歯が生え揃っているのが見えた。
「最も清らかなものが欲しい」と、重なり合ったレースに隠された胸元に手を当て、目を閉じる。
「あの子のありあまる愛に埋もれて、満たされたまま終わりたいのだよ」
告白とも取れる言葉を聞いたエディスは細長く息を吐いた後で、首の後ろを掻く。どう伝えればいいものかと口を開くのも躊躇うが、せめてこの男には己の感じていることを知らせるべきだと目線を真っ直ぐに向けた。
「これは友だちからの依頼でな。無事完遂できたら、なんでも欲しい物をくれるってことになってるんだ」
「ほう。あの子がか」
そうそうと頷いたエディスは、挑戦的な笑みをネージュへと向けて口を開く。
「俺は、この要塞の宝を貰おうと思ってる。いいよな」
「あの子が構わないというのであれば。だが、宝とは?」
「先に取られたら困るから言わねえよ。でも、ここで一番大切にされてるものだ」
胡乱気な顔をするネージュに、早い者勝ちだろと心の中だけで舌を出す。
「それと……これは親切心からの忠告なんだが」
ここまで近くで見ると、オーカーに見えていたネージュの目は本当は黒で、歯車の紋様が浮いているせいでそう錯覚するのだと理解ができる。そう、このように何事も見方を変えれば色を変えてしまう。
「人の心って、傍で見てても分からないもんなんだぜ。アンタの掌に収まらないものもあるかもな」
よく注意していてもなにが起こるかはと言うエディスに、ネージュは目を細めて笑む。ーーこの私に注進するか、といった顔だ。
「お友だちとしての心配だ。じゃあ、よろしく言っておいてくれ」
そう言うと、ネージュが薄く口を開ける。エディスは唇に指を当てて見せ、それから事務室の真ん中まで進んでいく。机の下に潜りこみーー「見つけた」魔法陣に手を触れた。




