7.お前なんか嫌いだ
「はぁ~っ、ようやくお腹いっぱい! 俺、今日はよく寝れそうです」
こんなに動くことってあんまりないのでと言うロイに、エディスは「おいおい、体力持つのか」と笑いながら肘で突いた。しかし、こんなことを言っている割に一日中要塞内を歩き回っていた自分に文句ひとつ言わずついて来ていたので、本人の自覚よりも体力はある方なのだろう。
「あっ、王子~月が綺麗ですよ」
見て見て、と手を取られて空を指差される。はしゃぐ声色に、子どもかよと笑いながらも空を見上げた。半透明の防御壁の向こう側で輝く月は円を描いていて、尚且つ普段よりも大きい。
「綺麗だけど、遠くないか?」
ロイはえ~っと残念そうに声を出すが、エディスの手を握ったまま「王子と一緒だから月も星も綺麗に見えるのかもですね!」と笑いかけてくる。エディスはそれになんか違うくないか? と身を固めた。
「こんばんは~! いい月が出てますよ!」
するりと手を離したロイが、小道の向こう側から歩いてくる人影に向かって大きく腕を振るう。どんな人かも分からないのに絡むなよ……と思いながら陽気な己の賢人を横目で見ていたエディスだったが、ふいに違和感を覚えて、近づいてくる人物を目を凝らして見る。
「ロイ、俺の後ろに来い」
腕を引っ張ると、彼は「えっ、なんですか!?」とうろたえながらもエディスの後ろにやってきた。ひしっと肩に両手を置いてくっついてくる彼を背に庇い、耳に手を触れる。街灯のない路地を歩いてくる男の前髪が目を覆い隠す程に長く、色も黒だと気が付いたエディスは呆気に取られ、息を吸う。
「お前、イーサン……?」
グレーのくたびれたシャツに黒のスラックスは彼がよく着ていた物だ。だが、ループタイにはめ込まれている緑色の宝石は割れて欠けてしまっている。
「えっ、知り合いですか」
よかった~と気軽に言って出てこようとするロイを手で押し返して「ハイデの宰相候補だ」と言うと、ぎえっと声を上げて引っ込む。
「え、でもトリドット公って金髪じゃあ」
「そういう魔法を使えるんだ」
イーサンの体がぶれて、被さった紙を剥がすように影に落ちていく。現れた豊かな金髪が風によって広げられ、ロイがヒッと息を呑んだ。
ギジアは焦燥した様子だった。
「……九歳の誕生日だった」
「あ? はあ? いや、お前もう二十一じゃ」
「あの日は大雪で、偶然暖炉の部屋で二人きりになったんだ。君が……君が、兄から素晴らしい人だと聞いていると」
――突然現れて、一体なんの話をしているのかと思った。けれど、これはレウとギジアの思い出話なんだろう。
「立派な領主になってください。そう、笑ったじゃないか……ッ」
どうして忘れてしまうんだと叫んだギジアから、膨大な魔力が放たれる。咄嗟に張ったシールドに細かな傷がつき、エディスは愕然と目の前の男を見つめた。
泣きはらした目元は痛々しい程で、赤く充血した金の目が真っ直ぐにエディスを睨みつけてくる。視線が噛みあった途端、それは恐ろしい速度で腕を振り回してやって来た。
「うわああああッ、エディスッ!」
「ひっ、き、きたあ!?」
首を狙ってきた手を払って、ジャケットの襟を掴んでギジアの体を前に浮かして背中に担ぐ。肩口から投げると簡単に地面にひっくり返った。受け身も取れずに倒れた男を見て、半泣きのロイが「えぇ……」と握った両手を顔の下半分に押し当てる。
「見る度に違う男を連れてる、尻軽が」
「お前の中で雄のドラゴンって愛人の部類に入れたりするのか」
馬鹿馬鹿しいと笑うと、ギジアは拳を地面に叩きつけて上体を起こす。憎々し気な顔で、涙を頬に伝わせて睨まれる。なんでこんなに怒ってくるんだよと原因を考え、ああと脱力する。
「まさかお前、レウと喧嘩でもしたのか? それでそんな怒って」
エディスの発言を聞いたロイがえっ!? と驚きの声を上げ、「レウって……もしかしてお兄さん、アイツが好きなんですか!?」と半笑いの口の前に手を持っていく。
「うわっ、可哀想だけど早いこと諦めた方がいいと思いますよ!」
うちの王子の愛人なんで~とエディスを指差して言ったロイに、ギジアが目を大きく見開く。激高した黄金の目が輝き、ただごとではない険しい形相になっていくのを目の当たりにして、「下がれって!! 煽るな」とロイを押し返す。
だが、ロイはエディスの脇から顔を出してきて「昨日の夜もこの人を困らせて、俺が怒ったんですからねっ」とエディスから考えても余計なことを口にする。なんてことを人に言うんだと恥ずかしさから顔を赤くして、馬鹿ッとロイの頭を叩く。
「……ああ、だから?」
ふ、と笑ったギジアが目を覆って背をのけ反らせて天を向き、突然哄笑した。急変にエディスは「だ、大丈夫か?」と声が裏返る。
「だからお前、余裕そうなんだ。そういうところ、心っ底! 気持ち悪いんだよね!」
ロイをその場に置いて近寄ろうとしていたエディスは、ギジアの体から魔力が放出されたのを見ると跳んで後退した。
「彼の純潔を返してくれよ……」
「いやアイツ自分で童貞じゃねえって言ってたけど!?」
奪ったの俺じゃねえって! と地面を凹ませる程の威力の魔法弾を避ける。
「そうですよ、奪われたのは王子の方です!」
「もうロイは黙っててくんねえかなあッ」
防御壁は簡単に割られ、自分の周りにシールドを張るとそれごと後ろに跳ね飛ばされる。四重、五重に掛けたロイの周りの防御壁もすぐに削られるので忙しないこと他ならない。
「わ~~っ、なんで親切心で忠告したげたのに怒るんですかっ?」
「お前のあれは煽ってただけだろ!」
理不尽だとしゃがんで叫ぶロイの上に覆い被さって頭を押さえつける。パキッという音がして、エディスはん? と下を見た。石畳に大きなヒビが入っていて、口の片端をひくりと動かす。ロイを横抱きにしてその場を飛び退こうとしたが、そこをギジアに狙い撃たれた。
【極東の主よ ここに集え!】
連発してくる魔法弾のいくつかを切り捨てるが、相手は無尽蔵に撃ち放ってくる。地面に着地したエディスは踵を二回蹴って、一気に反対側の建物まで跳んでロイを下ろす。狭い小路に向かって背を押して「ロイ、お前どっかに隠れてろ」と言って戻る。
「俺と二人きりになれば、彼の目も覚めるよね」
歪な笑みを浮かべるギジアの体から黒い煙霞が滲み出てきて、エディスは呆然と目の前で行われていく光景を見つめた。
「やめろ……ギジア、分かってるだろ、禁魔術は」
【ロクタ フレイル ルレロ イロア……】
禁魔術は、常人でも使えないことはない。だが、エディスのように膨大な魔力を持つ”魔力増大病”の患者か、余程その魔法と魔力の属性が合わない限りは、施行者はなんらかのリスクを負う。今ギジアが展開しようとしている魔法は、恐らくギジアのなにかを削るだろう。
それを抑止しようと、エディスは全力で頭を回転させる。中和しようと反対の属性の魔法を展開させようと、大規模範囲魔法の紋章を空中に描く。
「王子、危ない!」
呼ばれた声に、弾かれるように顔を向ける。焦った表情でこちらに走ってくるロイの姿がスローモーションで見え、エディスは床に手を突いてそちらに走り出そうとした。
【……るるあ あくたりぁ】
その瞬間、ギジアの詠唱が完成してしまいーー彼の周りの地面が引き剥がされていく。発光する熱源の前に両手を開いて躍り出たロイの胴体に腕を巻きつけ、全身の力で引き倒す。
【護り神 此処にーー】
唱えた魔法が掻き消えていくのが見え、妄執に憑りつかれた男の念が自分を上回ったことを悟ったエディスは口端を引き攣らせた。




