2.三日月のピアス
「新聞は読まないのか。俺が誰か分からないような奴の保護はいらねえんだけど」
挑発のような言葉を口にしながらも、魔法が使えないか体内で生成を試行する。だが、何度やっても細い糸を手繰り寄せたところでぷつりと千切れてしまうような、そんな曖昧な感覚しか得られなかった。
「君が生まれた時に立ち会ってたからね、知ってるよ」
できれば他の人には知られたくなかったんだけどと、ため息を吐きながら男は歩みを進める。ミシアの寝室に飾られていた、一枚の写真。そこに映っていたのはこの男本人で間違いがないだろう。
「緊張なんてしなくていい。遠慮もね」
片膝で乗り上げられたベッドが軋んだ音を立てる。唐突に近くなった距離を広げる為に腕を前にやり、壁際に後退した。
「俺は君を幸せにしたいだけなんだ」
それでも優れた体躯を持つ男に、距離を縮められる。覆い被さるように見下ろしてくる男の瞳は、神殿の前で慰めの言葉を囁いてきた時と変わらずに優しいままだ。だが、明かりのない所では暗く澱んだような印象も感じられる。
「他人から一方的に与えられる幸福に意味があるのか」
「考えなくていい。君はもうなにも苦しんだり、悲しまなくていいんだ」
コレクターの飾り棚に押し込められろということかと詰ってやろうと顔を上げようとした。だが、大きな手に頬を包み込まれて、無理に首を上げさせられる。
「でもね、エディー。俺は君が幸せでないと我慢ならないんだ」
見開かれた金の眼は暗闇の中でも煌々と輝く。その美しさに呑まれそうになる。薄く開いた口が戦慄き、体の震えが抑えられない。
「どうして君がエディスと名乗らなくてはいけない、なんで俺に触れた唇で人じゃないモノすら愛すって言うんだ」
シャツのボタンを引きちぎられ、現れた父の防御魔法の紋章に歯を立てられる。鋭い牙が皮膚を破る感触がして、エディスは手で押し返した。
「やめっ、い」
痛いという言葉は首筋に突き立てられた牙が奪っていく。ぐじゅる、と少量溢れてきた血を啜ろうとする音が耳元で響き、エディスは悲鳴を喉元に引っ込めた。
「絹のように美しい肌、清らかな香り。それに、甘やかな血……確かに君は、まさしく生贄として逸品だろうね」
ぐるりと手首に回った大きな手に引っ張られ、彼の腕の中に招き入れられた。恐怖と疑惑がない交ぜになって背から駆け上ってきて、頭がじんわりと熱を持つ。
「どうして君が生贄になる必要が? 民衆の為に身を削る意義は?」
なにもしなくていい、俺の腕の中で笑ってくれればいいと吹き込まれては頭が傾ぐ。熱に朦朧とする体に自由などなく、景色が滲む。
「君が愛しても、恋しくても。人は同じ情を返してくれるとは限らない」
言い返す言葉がなかった。傍にいてくれる騎士たちの目にどう映っているのか、過大評価をされるばかりだが実情はただ生き汚いだけなのだ。口で嘯いているような立派な志などエディスは持っていない。
反抗心を失くしたように見えるエディスをいい子だと褒めるためか、頭を撫でて柔らかく抱き締めてくる。これで終わりなはずがないと、身を硬くした時だった。
ブツリと――音が聞こえた気がした。
「は……え?」
体が跳ねるような微弱な痛み、耳たぶに触れる手の冷たさに意識が覚醒したエディスはなにをと身を離す。壁に背をぶつけたが、構いやしない。
「塞がらないように、一旦これをつけててね」
血が付着した鋭い針がベッドに放られ、エディスは自分の身になにが起こったのかを察した。
「一日早いけど、十八歳の誕生日おめでとう」
手の平を上向けた状態にされ、これは俺からのプレゼントだよとなにかがのせられる。
それは、金の三日月と小さな満月が淡い青色の宝石で繋がれたピアスだった。「俺とお揃いだよ」と長い横髪を掻き上げて自分の右耳を見せてくる男に、エディスはなにをと呟く。
ここ、と淡い青色の宝石を指で示され「通信機能をつけているんだ。いつでも俺と会話ができる。君の位置も分かるよ」と説明を受け、腕を引っ込めそうになる。だが、男に握られている手首は頑として動かない。
耳から生ぬるく伝った血が肩や襟元に落ちる。唖然としたまま男の顔を見つめるしかできなくて、声が嗄れたように出せない。
じんじんと痛む耳に触れることすら億劫だった。だが、このまま引っ込んではいられない。これは――まさしく死活問題だ。
「……助けてくれるってなら、俺と契約してくれたらいいんじゃないか」
恐らくここ十年ずっとつかず離れず動向を伺われてきた。南にいた時も、そして北でもだ。
お前はさ、と名も知らぬ男の素性をせめて訊ねておこうとして口を閉じる。この男を知る機会はいくつもあった。断片を拾っただけでも協力者になってくれれば心強い。
そう思っての誘いだったのだが、「俺が二十そこらの子どもに思える?」と首を傾げられてしまう。
木々のささめきのような笑い声を立てた男に訊ねられ、エディスはそうだよなあと首を振るう。彼の初めて出会った頃と今は寸分変わらない姿をしているからだ。
「それに、俺は君のお父さんの騎士だったからね。二代続けてはなれないよ」
残念だったねと下唇を撫でられ、ベッドに押し倒される。シーツの上に広がった白銀の髪を指で梳いて整えた男の影が己の上に差す。暗い色の髪が窓から差してくる月の光すら遮る。
ーー食べられると、直感した。
大人にと迫ってくる父の姿と重なり、こんな時になってから彼の言葉の意味を理解する。恋情のない、欲の滲んだ言葉だったのだと。こんな風に消費され、汚れていくのかと落胆で思考が鈍り、体が重怠くなっていく。
だが、弾かれるように上体を起こす。思わず名前が口から出そうになり、そんなはずはないと手を当てる。
(レウが、いるはずーー……)
躊躇うエディスの目の前で木製の屋根が、壁が吹っ飛んでいく。よく研がれた包丁で切られたかの如き鋭利な切り口を、大口を開けて呆然と見上げた。