1.非人道的作戦
「Baku which gives this dream」
悪夢に魘される夜、優しい主人は枕元でそう囁いてくれた。何度も、何度も――手を握って。熱に浮かれて見た彼の髪はまるで夕日のようで、見る度に安堵を感じたんだ。
命をくれた優しい魔物も、星が瞬く夜のようだった。暗い路地や一人きりの部屋で、彼らを想った日は数えきれない。
一緒に逃げようと懇願しても、人や魔物を殺しても、悪い魔女の魔法を解いたとしても――俺を「好きだ」という人は現れなかった。
なにかと理由をつけて、誰もが離れていく。父の面影や知らない女の気配が薄雲のように張り、求められる理想を演じていて、尚。
シュウとシルベリアの間にあるような、柔くて温かな感情がそこにあるのか分からなかった。見ているだけで幸せだと、自然に微笑んでしまうような傍にいたくなるような恋を素敵だと羨んだ。
だから、捨てられると思った。
「人間じゃない」だなんて忠誠心を試すようなことをしたのに、彼は「振り下ろされる気もないくせに言いやがって」と吐き捨てるだけで片腕に抱き上げた俺を下ろす素振りの一つさえ見せなくてーーそれが、すごく嬉しかったんだ。
「……ぅ」
呻きながら目を開ける。生っ白い手に銀の輪がはまっているのが見え、眉間に皺を寄せた。体を起こそうとするが、いやに重鈍い。眼球を動かして辺りを見渡したエディスはふっと目を閉じた。微量な魔力を体から発して周囲を検めるが、人や魔物の気配はせず息を落とす。
(左足は……折れてるか。よくて打撲だな)
足首に違和感と鈍い痛みがある。恐らく鎮痛剤が打たれているのだが、両手首だけでなく足首にも手錠が掛けられているようだった。首にも冷たい感触がするので、そこにもあるのだろう。そして、これだけ金属との差があるということは熱が出ている。
完全にヘタを打った。任務地に着いてすぐに奇襲に合い、囲いから出たところまではすぐに思い出せる。その後は――手に鍬や木棍を持った一般市民がそこら中から出てきた。
さらには貧困で飢えた顔をする老人や、子どもを背に負ぶった母親なんてのも窓から顔を覗かせて罵倒とともに石を投げられた。正直、市民の後ろで構える革命軍よりも余程厄介だった。
エディスが一般市民を攻撃することがないと理解した上での作戦。なんとか逃げようとした時、大人に押されるようにして子どもがよろけ出てきて、抱き留めたのがいけなかった。
その子どもごとだったのだ。
魔法ではなく爆弾が投げられ、シールドを張ったエディスの元に慌てて人が集まってきた。助かる為ではなく、手に構えた農具で殴るために。
当たる前に自分の周りだけに張り直すと、甲高い音を立てて跳ね返る。シールドの向こう側から見上げた光景は異様だった。
わんわん泣いて胸元に縋ってくる子どもを抱き締め、呆然とするエディスに対し民衆の怒りは収まりを見せない。
【こ、黒の印を……】
退避の魔法を唱えようとしたエディスの視界が赤く染め上がる。見下ろすと、子どもが自らの胸にナイフを突き立てていた。驚きのあまり息を吸って、手を伸ばそうとしたエディスの周りに張られていたシールドが消える。風船が割れる時のような音を立てて。
「え?」と口から声が漏れる。出がけにリスティーに結ってもらった髪が乱暴に掴まれ、引っ張り上げられた。痛みに呻いたエディスの腕から子どもが転がり落ちていき、慌てて手を伸ばす。
「やめろっ、あの子!」
なんらかの魔力異常者だ。あの子の血が体に掛かってから、なんの魔法も作動しない。髪を掴む手を外そうとするが、離れずに揺さぶられて何本か千切れる。地面に擦れて、服や肌が汚れて擦り切れた。
台に乗せられ、首に輪が掛けられる。視界に斜めにはめ込まれた刃の影や光が入ってきて、「あ……」と引き攣った声が出た。舞台上に転がっていくガイラルの顔が想起され――そこで意識が途絶えたのだ。
ここまでの失態は経験したことがなかった。震える手で触れる頸が落とされていないのが奇跡だ。あるいは、誰かに助けられたのか。
口に手を押し当てる。どう考えても今、頭に浮かんだ人物ではないことだけは確かだ。彼なら自分に手錠を掛けて家に放置するはずがない。
それに、見た限りではこの家には使用感がある。ならば連れてきたのはここの住民か、脅しているかのどちらかだ。やはり彼ではない。
そして、軋んだ音の後に「ああ良かった、気が付いたんだね」とのん気にも取れる声が耳に入ってきた。事実を認めたエディスは目を閉じ、ぐっと口を噤む。
(やっぱりというか、予測はしてたけど)
目を開けてベッドに手をつき、緩慢な動作で体を起こす。
「……久しぶりだな」
戸口に立っていた背の高い男の髪は、深い森の色。こちらを見透かすような金の目を細めて笑った。
「うん、久しぶりだね」
背の高さと長いもみ上げにしか特徴が感じられない。わざと強く印象をもたれないようにしているのか、本当に素朴な容姿なのか。普通の人間には感じられないような雰囲気と混じって、何度も見てもどこか変な男だ。
「君を迎えに来たんだ」
「へえ、じゃああの市民はおたくのせいで?」
わざと棘のある話し方をすると、男は目を丸めて驚いてから「そんなわけないじゃないか」と眉を下げる。
「あれはこの辺りを治めている、革命軍の小隊長ニコラス・ランページの手法だよ」
下衆の真似事が好きな男なんだと手を返す男に、エディスは「じゃあこれは」と両手を顔の前まで上げて手錠を見せつけた。
「それは俺。大丈夫、」
これからは俺と一緒に暮らそうねと、男は言った。喉の渇きを覚えながら「それは都合がよくねえか……?」と声を絞り出す。
「何度も助けてくれて、アンタには感謝してる」
悪い魔女が掛けた魔法を解くのは、王子様の役割だ。”本物”と証明されたエディスは、彼を縛っていた茨を取り去ったのだろう。
だが――魔法を解いたからといって結婚しなければいけない道理はない。
「その口ぶりだと、感謝されてるだけなのかな」
俺はいつも君の悲しみに寄り添ってきたはずだけどと眼差しを向けてくる男を睨んで、「遅いんだよ」と詰った。
「学も金もねえ子どもを死体だらけの犯行現場に置き去りにして、よく言えるな」
路地裏で兄貴が拾ってくれなきゃ、あんなクソガキのたれ死んでた。いつもいつも見てたくせにと訴えかけるエディスに、男は薄気味悪い笑みを浮かべたままだった。
「試練を乗り越える時の君は美しくて、輝いていて。俺が摘み取っていいのかと悩んだよ」
熟す前の果実が好きでねと語る口の合間から見える牙、唇を湿らせる舌。胸に当てた手の、爪の長さに頭がくらんだ。
「アンタ、あの女の兄貴だったもんな……」
口の端を引き攣らせたエディスは、イカれてると呟いた。