1.家族、売られました
記憶を遡り、最初から目を覚ます。すると、いつも決まってあの女が出てくる。
陽に照らされた銀の髪、青色の目。左耳につけた三日月のピアス。
兄と名乗る男に連れて行かれるまで、俺はいつだって寂しがった。誰がいても、どれだけ”愛”の体裁を保った言葉を囁かれても。
皆が俺を通して別の誰かを見ている。そんな気にさせられるからだ。その飢えは、実は十三歳になって職を得た今でも変わっていないんじゃないかと思わされる時がある。
「そう。にーっと! そー、かーわいっ!」
甘ったるい声。顔に押し付けられた、ふくふくと柔らかい胸。あの女といると、笑っていなくてはいけない。
「もっと綺麗で可愛くなって、いい人の所にいくのよ」
「うん!」
あそこはこの国の中でも汚らしく、人の欲望が渦巻く所だった。毎日ぶくぶくと腹を膨らませた金持ちが気に入った人間を金で買っていく。その金欲しさに商人たちは目を光らせる。
奴隷市なんて、今になっても珍しいものでもない。
「可愛いから、君はきっと高く売れるわ」
「うん。ありがとう!」
俺はその奴隷市の中でも特別な商品が作られる小屋に、その女と詰め込まれていた。
「いい奴隷は頭も良くなくちゃ! さ、お勉強の時間よっ」
「ええーっ!?」
エディスと名乗る、得体の知れない女と。
子どもの俺は、エディスさんの歌が好きだった。
あの人の歌声が好き、歌っている時の目が好き、優しくて綺麗なエディスさんが好き。鼻で笑ってしまうような感情だ。
「エディスさんが歌ってるの聞くの、僕好きっ!」
ある日そう言ったら、あの女は俺の両肩を掴んで顔を覗きこんできた。
「なら、一緒に歌いましょう!!」
だと。獣みたいに息を荒く吐いて、飢えた目をして。
それから繰り返し毎日歌って、勉強して、体を磨いて。毎日、ご主人様への教育をされた。それは俺の髪が腰に届くまで続いた。
そんなある日、あの女の様子があからさまにおかしくなった。
少しも落ち着かず、俺の髪を引き抜こうとしているのか、なにかを確認しているのか触る。問うても答えようとしない。
一際大きな歓声が聞こえてすぐ、人が入ってきた。女が両脇を二人の男に抱えられて理解した。買われたんだなって。
「エディスさ」
「エディ……エドワード!」
腕を振り回して逃れてきたその女に引き倒され、胸が詰まった。
「ああ!できれば貴方も連れて行きたかった! エドワード……私の」
青い目に心臓を掴まれるようで、思い出すと今も息が止まりそうになる。
「私の、息子」
母だなんて言えない。言ったことすらない。
「あの歌を、舞台に上がる時に歌いなさい。そうしたら、お父様が迎えに来るから。いいわね。絶対にお父様、この国で一番偉い人が貴方を六歳までには迎えに来るから」
「エディスさん……」
歯を剥き出しにした女の顔が滲んでいく。
「エドワード。エドワード・ティーンス。それが貴方の名前よ。いい? 覚えておくのよ、しっかり」
「うん」
「だけど、これからは私の名前を。エディスを名乗りなさい。いいわね?」
「……うん」
鼻の奥に煙ぶる、花のような香水。人の温度なんて感じなかったのに、離れていくと空気との違いが分かる。
「エドワード。愛してるわ。だから、這いずってでも生きなさい」
きっと母を想うには十分な時間があった。けれど、俺が母を知るには足りなかった。
俺は今でも、家族を理解できていない。
それから半年が過ぎ、俺は六歳を迎えた。なのに誰も迎えに来ない。
真夏に――年間を通して気温の低い国だが、その日は少し温かった覚えがある――俺は売りに出されることになった。
全て嘘だった。気が狂っていて作り出した虚像だったのかと毎日疑って、疑って。
小屋から出て歩き回る俺は、頭から水を浴びせかけられた。
「おーい! 大丈夫ッスかー!?」
呆然とする俺に駆け寄ってきたのは、真っ黄色の長い髪の男児だった。全身泥で汚れていたから、一目で奴隷だって分かったな。
「あー、随分濡れちまったッスね、お前さん。ま、夏だからすぐ乾くッスよ」
ごしごしと荒く顔を拭かれた。寄ると、つんっと汗の匂いが鼻をつく。
「あ! もしかしてお前、今日の大目玉ッスか!?」
「う、うんっ。多分」
「うわーっ、さっすが! 僕らとは違うッスね!」
僕も今日売りに出されるんスよと、なにが楽しいのか笑っているソイツ。ソイツに、俺は子どもの時にどう思ったんだったか。そうだ、「そうなのっ!? いっしょだね!」なんて思って、手を握ったんだったな。
「どうせ安くたたかれるッスよ」
前歯の欠けた口で笑って、みすぼらしい。なのに楽しそうだ。
「でも僕、奴隷に収まるつもりないッスから。絶対、偉くなってやるッス! 奴隷なんかで人生終わらせてやらないッスよ!」
子どもの拳が空に向かって突き出される。夢物語、あの頃の俺には考え付かないような言葉だ。
「僕はジェネアス! お前は?」
「エ、エディス……!」
拳は俺にも突き出されて、それに恐る恐る合わせると「また生きて会おうッス!」なんて言ってきた。
到底現実になるとは思えなかった。だけど、俺にとっては初めて果たされた約束だったな。
ソイツが走って行ってしまって、馬鹿だった俺はびしょ濡れになった自分の服を握って立ち尽くしたまま。何分も、何十分も。
「大丈夫? 寒いでしょ」
そう言って、着ていた上着をかけられるまでそこにいた。
見上げたら笑われて恥ずかしくなる。あの女以外とロクに話さなかったせいで声が言葉にならない。
「だ、駄目だよっ。これ……」
客だ。慌てて上着を返そうとしても受け取ってもらえなかった。
「着ててよ。こっちが寒くなるから。見ててさ、辛いんだよね」
濡れている俺を抱きしめてくるその人の体も、上着も温かくて。言葉も身に染みわたるようだった。
「ねえ。君、今日売りに出される子?」
「え? う、うんっ」
体を離して見上げると、また笑われる。
「だったら、俺と一緒に来ない?」
差し出された手を取りたかった。きっと”主人”として俺に良くしてくれると確信できる。
だが、その手を取ったらエディスさんとも父親とも会うことはできない。
「あの……ご」
「ねえ。俺寂しいんだ」
綺麗な服が汚れるのも気にせず俺の前にしゃがむこの人は、俺に『家族』になってほしいと言った。
「新しい家族はいらない?」
首を少し傾けて見つめられた俺は「家族」と言葉を繰り返す。
家族は変えられるものなのか、金で買うものなのか。エディスさんは幻影か本物か。誰も迎えに来ない、捨てられた。
「ほしい……ほしい、よ!」
本当の家族にとって俺が不要なら、この人には必要だというのならば。
「あなたの、家族になりたい……」
本当の名前なんていらない、家族もいらない。今抱きしめてくれるこの腕がいいと思った。
「うん。じゃあ、おいでよ。絶対にお父様に勝ち取って貰うから!」
堂々と宣言するその人に頼もしさすら感じて、今から家族になるのだと誇らしくなる。
「俺はドゥルース。君は?」
「僕の……僕の名前は、えっと……エディス!」
なのに口の中に苦みが走る。酷い気持ちになって、吐きそうだ。




