夫と間男
ドレスを乱れさせて靴さえなくしたエニードは、ラーナによってせかせかと部屋に連れて行かれた。
「閣下と二人きり……」
すれ違い様にジェルストの小さな呟きが聞こえた。ラーナは「ジェルスト様、頼みましたよ」と、釘を刺すように囁いていた。
エニードは、世話になった上に客人として家にきてくれたのに、もてなしもせずに着替えに行くことを申し訳なく思った。
部屋に押し込まれる間際に、クラウスに座って待つように伝えると、クラウスはどういうわけか厳しい眼差しをジェルストに向けていた。
さては、やっと気づいたのだな……!
長かった。果てしなく長い道のりだった。
ジェルストはセツカの副官である。エニードの家にジェルストがいるという時点で、セツカとエニードの繋がりは明白だ。
流石にクラウスは、エニードの秘密(別に秘密ではない)に気づいただろう。
「ラーナ。ジェルストに、何故私をエニードと呼ばせているんだ?」
部屋の扉を閉めて、エニードの着替えを手伝いだしたラーナに、エニードは尋ねた。
ラーナはまたもやドレスをクローゼットから引っ張り出して、ところどころが破けているドレスを脱がしたあとに、エニードに着せ始める。
「それはですね、エニード様。ジェルスト様が、閣下とエニード様が喧嘩をしているのではないかと心配をして、お土産を持って遊びに来てくれたのですけれど」
「案外いいところがあるな」
「ジェルスト様は優しい方ですよ。少々女好きでいらっしゃいますが。でも、特にエヴァン様と義兄弟でいらっしゃるところが素晴らしいと思います」
「そうか」
ラーナは瞳をきらきら輝かせている。
もう家に帰ってきたのだからドレスを着る必要はないのだがと思いながら、エニードは頷いた。
やはり、クラウスの前でドレス以外の服を着るのは失礼にあたるということだろうか。
確かに母も、父の前ではいつも小綺麗な格好をしている。
伯爵夫人なので当たり前といえば当たり前なのだが。
今は、もう兄が爵位を継いでいて、両親は隠居の身ではあるのだが、やはり家に帰るといつでもドレス姿で出迎えてくれる。
兄嫁もまたそうである。
公爵家の嫁になったからには、エニードも今までのように立場に甘えて、さもない服を着ていてはいけないのだろう。
ちなみにエニードは、基本的に家の中では開襟白シャツに黒いトラウザーズである。
シンプルで格好いいエニード様と、兄嫁にも喜ばれるスタイルだ。
「ジェルスト様にも、説明をしたのです。エニード様と閣下が今どのような関係かについて」
「それは、クラウス様が私をセツカだと気づいていないということをか?」
「はい。セツカが好きとは伝えませんでしたけれど、二人は別人だと思っているとお伝えしました。閣下は、過去助けられた恩義をセツカに感じているというお話もしました」
「まぁ、その程度なら、いいのか……?」
クラウスが男が好きだと言うことは内密である。
ラーナの説明はそのデリケートな部分についてはぼかしているので、秘密は一応守ることができている。
とはいえ──クラウスは騎士団に訪れて思い切りセツカが好きだと態度で示し、その上大橋で告白して恋を諦めるというような大それた行動をとっているので、聡いジェルストのことだ。
気づいてしまったかもしれないが。
「ジェルスト様は大変面白いことになっていると喜んでいらっしゃいましたよ」
「面白くはない」
「ごめんなさい。そうですよね、エニード様にとっては不愉快なことですものね」
「不愉快というわけでもないのだが」
何故気づかないんだと疑問には思うが、面白くもなければ不愉快でもない。
ただ、最後まで見届けようという意地があるだけである。
「私としても、閣下はエニード様にひどいことをしましたので、ジェルスト様の口からあっさり真実が伝わってしまうのはちょっと違うかなと思いまして。先手を打ったというわけです」
「別にひどいことはされていない」
「妻に愛さないと言うのは十分ひどいことですよ。私は怒っているのです」
「まぁ、シルヴィア様も積極的にクラウス様に何か伝える気はないようだったしな。ジェルストを口止めする程度で気が済むのなら、私は何も言わないが」
ラーナは楽しんでいるわけではなく、クラウスに怒っている。
ジェルストとシルヴィアは恐らく、ことの成り行きを眺めて楽しんでいる。
だが──さすがに、ここまでくればもう、色々なことが片付くだろう。
エニードはクラウスに怒っていないし、嫌いでも好きでもない状態から、少し好きになりかけている。
妻として愛しているが、人としては少し好きだ。
夫婦として仲良くしていけるのならば、それが一番だろうと思う。
その際、もしかしたらエニードがクラウスをどうにかして襲わなくてはいけないので、それだけが少し気がかりではあるのだが。
ドレスに着替えて髪を整えて、新しい靴に履き替えたエニードが部屋から出ると、リビングルームでは何故か直立不動のジェルストを、クラウスが睨み付けていた。
クラウス様もそのような顔をするのだなぁとのんびり考えながら、エニードはラーナに「皆に飲み物を出してくれるか」と頼んだ。
エニードが茶をいれてもいいのだが、そうするとラーナがこの場に取り残されて困ってしまうだろう。
ラーナがてきぱきとキッチンに向かうのを、アルムが追いかけていく。
エニードはジェルストの隣に並ぶと、どうしたのかとその顔を見上げた。
「エニード。君は恋人はいないと言っていたが、彼は君の恋人ではないのか?」
「……ジェルストがですか?」
思いも寄らぬことを言うクラウスに、エニードは驚いて更にまじまじとジェルストの顔を見つめる。
ジェルストは困り果てた顔で「エニード様、あんまり見ないでください」と恥じらう乙女のようなことを言った。
「違うのですよ、閣下。俺はエニード様の恋人などではありません」
「はい。ジェルストは恋人などではありません」
「ではなんだ? 何故、主が不在中の家に入ることが許されている? エニードはラーナと二人暮らしだ。女性しかいない家に男が入るなど不謹慎ではないのか。それに、エニードは私の……その、契約上の妻だ」
「それもそうですね」
確かにクラウスの言うとおりである。
ラーナは年頃の少女なので、女好きのジェルストと二人きりにするというのは不安だ。
ジェルストも、心配して土産を持ってきてくれたはいいが、家にまであがりこむというのは、さすがに不謹慎だ。
おそらく、新たな面白い話を聞きたくて、家にあがりこんだのだろうが。
そういう軽薄なところがある男なのだ。
生真面目が服を着て歩いているエヴァンと仲がいいというのが、不思議でならない。
「さては、エニードの美しさの虜になったということなのか? 誉れ高き騎士団の、しかもセツカ殿の副官でありながら、人妻に懸想して家におしかけるなど……」
「滅相もございません……! 勘違いがすごいのですが……!」
ジェルストは更に困り果てて、それから思案するように腕を組んだ。
「あのですね、俺は……ええと、そう。ラーナちゃんの家庭教師として雇われているんです」
「……本当か?」
「ですよね、エニード様」
ジェルストが助けを求めるような視線をエニードに送っている。
エニードは少し考えて、「私の副官です」と言おうとした。
クラウスはここまできても気づかないのだ。
もう、伝えるしかない。嘘をつくのはよくない。あと、若干ややこしすぎて面倒になってきた。
「閣下、ジェルスト様は私の家庭教師なのですよ。セツカ様に紹介していただいたのです」
「セツカ殿に……?」
「ええ。セツカ様は以前私を、人買いの牢獄から助けてくれて。それ以来のご縁なのです」
「……すまない。そんな話をさせる気はなかったのだ」
ラーナが紅茶と、おそらくジェルストが買ってきた、白い饅頭に猫の肉球の焼き印が押されている、王都名物にくきゅう饅頭を並べながら、にこやかに言う。
ラーナは家庭教師のくだり以外、嘘をついていない。
嘘というのは真実で塗り固めて、その中に少し混ぜるとばれないものである。
嘘はいけないが、仕事上嘘をつかなければいけないときもあるので、エニードはそれをよく知っている。
エニードは感心しながら、紅茶を口にした。
ラーナにはスパイの才能があるかもしれない。




