9.ライオネルはたくましい
そうして、庭にはまた静けさが戻ってきた。立っているのは、私とライオネルだけ。
辺りに満ちていた霧も、いつの間にか消えていた。すっかり元通りだ。慣れ親しんだうちの庭、隣には大切なライオネル。
安堵で涙が浮かんでくる。まばたきをしてごまかしながら、そろそろとライオネルに尋ねた。
「ねえ、さっきのは何だったの? 大きい犬がやってきて、それがあなたになって……分からないことだらけだわ」
ライオネルは朗らかに笑うと、しっかりと私を抱きしめてくる。その無邪気な様子に、もう大丈夫なのだと確信できた。
「そうだね、もう全部説明してもいいかな。……ちょっと信じがたい話かもしれないけれど、これから僕が話すことは全て真実だからね」
「人間が子犬になって、また人間に戻った。そんなとんでもないものを見てきたのよ、今さら疑ったりしないわ」
「はは、それもそうだね。……ナディア、君は本当に強いなあ」
「強くなんかないわ。ただ、あなたが帰ってくるって信じてた、それだけで」
「そうか。……信じていてくれてありがとう」
そうして彼は、一つ一つ順に説明してくれた。
先日、私が山神様の山に駆けつけたことで、彼は人の姿を取り戻した。けれど実のところ、彼は人間に戻りきってはいないのだそうだ。
「今の僕は、山神様のしもべとでも呼ぶべき存在なんだ」
彼の口から飛び出た言葉に、思わず身震いしてしまう。
彼が山神様のしもべだというのなら、いつかまた彼がいなくなってしまうのではないか。そんな恐怖がこみ上げてきたのだ。
無言でおびえる私に、ライオネルは明るく笑いかけた。
「ああ、心配しないで。しもべといっても大したことはないから」
そうして彼は、ちょっと気取った口調で続けた。
「人の姿と犬の姿、その二つの姿を持ち、それにより人と山神様を隔てる壁となる。それが僕の新たな罰であり、使命なんだってさ」
「人と山神様を隔てる……それって、うちの家がしていることと、同じ……?」
「そうさ。あの山に入るな。そう、人間たちに知らしめる。それだけだよ」
それを聞いて、ほっとする。犬の姿を持っている、というのが気にはなるけれど、ライオネルがいなくなることはなさそうだ、そう思えて。
「で、思ったんだ。こんな僕の存在を、クラウスを追い払うのに利用できないかな、って」
「……利用……」
とんでもない言葉に、絶句する。
神の怒りに触れた上、人であり犬である存在に変えられた。普通の人なら、もっと思い悩むのではないか。
せっかくだから利用してみようだなんて、思い切りが良すぎる。
そういえばライオネルは、昔からかなり楽観的なところがあった。でもまさか、ここまでとは。
「そう、利用。普通の人間なら、人が犬になったり犬が人になったりすれば、とびきり驚くだろう?」
確かに、ライオネルが子犬のライになってしまった時、お父様は真っ青になっていて、おじさまとおばさまは寝込んでしまった。
私だってライの世話で忙しくしていなかったら、心労で倒れていたかもしれない。
「それを踏まえて、今日の作戦を立てたんだ。山神様の力を見せつけてやれば、クラウスを震え上がらせることもできるんじゃないかって」
「そうね、あなたが出てきてから、クラウス様の態度がまるで違っていたわ」
「だろう? それにうまくいけば、ついでに山神様の使命も果たせそうだって思ったんだよ。クラウスの口から山神様の力の恐ろしさについて語ってもらえれば、みんな信じるかなって」
「使命が、ついで……」
「そんな作戦をすぐに思いついたはいいものの、どうしても山神様の協力が必要だったんだ。だから先日、君と別れてからすぐに山神様を説得しにいったんだ」
なんだか、頭が痛くなってきた。
私や両親たちが真っ青になっていたというのに、犬になった当の本人は、妙にのんびりしている。というか、あまりにも普通とずれている。
「そもそも山神様って、説得できるの……?」
「ああ。話してみたら、意外と話の分かる人……じゃない、神様だった。結構楽しく話せたよ」
昔からライオネルは人懐っこかったし、行動力もあった。あったけれど。
「話の分かる神様って……あなた、山神様の罰で犬に変えられたのに……」
よりによって、そんな相手とまで仲良く話し合ってしまうなんて。とうとう頭を抱えてしまった私に、さらに彼は語る。
彼は山神様に、人の前で姿を変えることと、人の前で神の使いを名乗ることを許してくれと正面切って頼み込んだらしい。
当然ながら山神様はうなずかない。けれどライオネルはめげなかった。
なんと彼は、私たちの事情をまるごと全部山神様に話してしまったのだ。私と彼と、あとクラウスについて。
人間の婚姻事情なんて聞いても、山神様はぴんとこない気がするのだけれど。
「山神様が住まう山は、ナディアの家の領地にある。つまり彼女の家の当主がどんな人物かで、山の扱いも変わってしまう。そう言ったら、山神様の耳がぴくりと動いた」
耳が動く。ライオネルは、山神様の姿をちゃんと見たことがあるのだ。どんな姿なんだろう。今度、教えてもらえないかな。
「そこで僕は、一気にまくし立てた。もしもクラウスが君の婿になったら、どんどん山が荒らされるだろうって。彼は山神様なんて、これっぽっちも信じていないだろうから」
「それ……合っているわ。さっき彼はあの山を見て、切りひらいて花の咲く木を植えようって言ってたわ」
「だろう? 彼が自然のままの野山を嫌っていることも、僕は知っていたからね」
貴族の令息たちはサロンなどでよく顔を合わせているから、ある程度互いの人柄や好みなんかも知っている。
特にライオネルは人懐っこくて友人も多いから、自然と色んな情報が集まっていたのだろう。
「屋敷のそばにある山なんて、真っ先に彼のえじきになってしまうでしょう。山を切りひらきに来た民をいくら脅しても、クラウスには届きません」
ちょっと芝居がかった表情で、ライオネルが言う。ここにいない山神様に語りかけるように。
「その点僕なら、山神様の恐ろしさを子々孫々まで語り継げます。なんといっても僕は、あなたの力を身をもって知る者ですから。ですからどうか、僕に力を貸してください。クラウスを退けるために」
切々と語っていた彼が、不意ににっこりと笑った。
「そうやって一生懸命に説得を続けていたら、どうにかこうにか山神様も許してくれたよ。……ちょっとため息ついてたけど」
「……それはまあ、ため息の一つや二つ、つきたくもなるでしょうね。罰を食らわせた相手が、ひるむことなく図々しいお願いをしているのだから」
そう答えつつ、どうにも笑みを抑えられない。なんともめちゃくちゃだけれど、ライオネルらしい。
「でもお願いを聞いてくれたし、やっぱりいい神様だよ。あの霧も、僕の作戦を聞いておまけで出してくれたんだし」
「本当にもう、あなたってすごいわ……」
こんな風に楽しく話すのは、久しぶりだ。彼が本当に帰ってきてくれたから、こんなに幸せな気分になれるのだ。
二人でくすくすと笑っているうちに、ふとあることに気がついた、
「ねえ、ライオネル」
「なんだい、ナディア」
「さっきやってきたあなたは大きな犬だったけれど……まさか、急に育ったの? ほら、ついこの間まで子犬だったし」
真面目にそう言ったら、ライオネルが吹き出した。
「急に育った、か。いいなそれ。神の使いっぽくて」
「ちょっと、笑わないでライオネル! だって、他に説明がつかないでしょう?」
「ああ、ごめん。ナディアは可愛いなって、そう思ってさ」
突然そんなことを言われて戸惑う私に、彼はやはり軽やかに笑いながら説明してくれた。
「クラウスを脅かすには、あの小さい姿じゃ無理があるからね。山神様にさらにお願いしたんだよ。少しの間だけでいいですから、もっと成長した姿にしてくださいって」
そうお願いされた時の山神様の表情が目に浮かぶようだ。もっとも私は、山神様の顔を知らないけれど。
「まあ、一回だけだって念を押されてる。だから今から犬の姿になっても、たぶんあの小さなライにしかなれないけどね」
「そうだったの……大きいほうの姿、素敵だったわ。すらりとして凜々しくて神々しくて……もう見られないのは、ちょっと残念かも」
思うままを口にしたら、ライオネルが露骨に照れた。
「聞き慣れない褒め言葉ばっかりで、くすぐったいな……一、二年もすればまた見られるから、ちょっとだけ待ってて」
そわそわと身じろぎしている彼に、こっそりと打ち明ける。
もう何も心配しなくてもいい、そう思えるようになった今だからこそ感じられる、そんな思いを。
「だったら、ゆっくり大きくなってくれると嬉しいわ。ちっちゃなライも、とっても可愛かったから。またあんな子犬を飼いたいなって、そう思えるくらいには」
「……そっちを褒められるのは、少々複雑な気分だけど……君に喜んでもらえるのなら、まあいいかな」
ライオネルが眉間に小さくしわを寄せて、それから覚悟を決めたように大きくうなずいた。
「うん、それじゃあしばらくは……君の婚約者兼愛犬ってことで、改めてよろしく」
愛犬って。その言葉に吹き出しそうになりながら、彼の顔をまっすぐに見上げる。
「ええ、よろしくね。……もう二度と、いなくならないでね」
「もちろん。……もう、君を一人で泣かせたりしないから」
そんなことを言い合って、どちらからともなく抱きしめ合う。
やっと、元の幸せが戻ってきた。いいえ、もっと大きな幸せがやってきた。
彼の腕の中で目を閉じて、心からの笑みを浮かべた。
それから私たちは、二人でうちの両親とライオネルの両親のところに足を運んだ。
ライオネルの両親は、彼の姿を見たとたん泣き崩れてしまい、まともに話すこともできなかった。でも、二人がどれだけ喜んでいるのかは、すぐに分かった。
だからライオネルは二人に抱きしめられるままになっていたし、私はもらい泣きをしながら、そんな三人を見守っていた。
けれどうちの両親は、ほんの少し複雑そうな顔だった。
それもそうだろう、かつて二人はライオネルが戻ってこないと考えて、私との婚約解消を認めてしまったのだから。
どことなくぎこちない態度で、無事でよかったと言う私の両親。そんな二人に、ライオネルはさわやかに言い放った。
「おじさん、おばさん。僕のせいで、ご迷惑をおかけしました。それはそうとして、僕はナディアと結婚します。どうぞよろしく」
結婚させてください、ではなく、結婚します、だ。なんともすがすがしい。
「クラウスについては、僕のほうから手を引くよう言って聞かせます。どうぞご心配なく」
「お父様、お母様。私も、ライオネル以外の人と結婚するつもりはありませんから」
二人でたたみかけるように言い立てると、両親がそろそろとうなずいた。まだ戸惑っているようではあったけれど、ほっとしたような色が二人の顔に広がってきている。
それを見て、ライオネルと顔を見合わせて笑った。晴れ晴れとした声を上げて。