8.対決の結果は
いきなり辺りが霧に閉ざされて、とっても美しい犬が現れて。そうしたらその犬が、ライオネルに変わった。
不思議なことが次々と起こり過ぎて、まだ頭がついていっていない。呆然としている私を、ライオネルはしっかりと抱き寄せた。私を守るかのように。
「こんにちは、クラウス。久しぶりだね。今の僕は山神様の使いにして、ナディアの婚約者さ。どうぞよろしく」
「なっ……! ど、どうして君が、ここにいる! 一月も行方不明だったのだろう!? それに、山の神の使いだと!?」
私以上に訳が分かっていないのだろう、クラウスは目を白黒させながらライオネルを問い詰めている。
けれどクラウスは、ライオネルのほうに歩み寄ろうとはしなかった。まだ、腰が引けたままだ。
一方のライオネルは、いつも通りに落ち着き払った様子で答えている。
「そうだね。僕がいなくなっていたせいで、ナディアには苦労させてしまった。けれどこうして、僕は戻ってきた。これからは、僕が彼女を守っていくよ」
私の肩に置かれたライオネルの手に、力がこもっていく。さっきクラウスにつかまった時の嫌悪感とはまるで違う、ほっとする気持ちが胸に満ちていく。
今の彼は、『神の使い』を名乗るにふさわしい風格をたたえていた。いつも通りの柔和な笑みが、ひどく頼もしく感じられる。
「彼女の婿は僕だ、君じゃない。どうかお引き取り願えるかな、クラウス?」
クラウスは答えない。彼は明らかに、ライオネルに圧倒されていた。彼は無言のまま視線をさまよわせ、ぐっと奥歯を噛みしめている。
ここからどうなるのだろう。様子をうかがっていたら、クラウスが気を取り直したように咳払いをした。
そうして彼は、やけにふてぶてしくライオネルに言い返す。
「あいにくと、今は私がナディアに求婚しているのだ。邪魔をしないでもらえるかな、犬っころになり果てた元婚約者殿?」
クラウスはとっても尊大な口調だった。けれどやっぱり、ほんの少し腰が引けている。強がっているのがばればれで、どうにも格好がつかない。
そうしていたら、今度はライオネルが言い返した。とても落ち着き払った口調で。
「何とでも言えばいいさ。僕は彼女を愛している、その思いは変わらない。たとえ、どんな姿になろうとも」
彼はこんなに頼もしかっただろうか。小さい頃は、いつも私が先を歩いていたのに。大人になっても彼は穏やかで、私のほうが気が強いくらいだったのに。
でも、その変化が嬉しくてたまらなかった。涙ぐみそうになりながら、彼にそっと寄り添う。クラウスが顔をゆがめるのが見えた。
「クラウス。僕は絶対に、ナディアのことをあきらめない。君が僕の邪魔をするというのなら、僕の持てる全ての力を持って相手をするよ」
「はっ、君の全力など恐るるに足らないな。そもそも私は、彼女の両親に了承を得ていて」
「それは、僕が行方不明になっていたからだろう? 僕が戻ってきたとなれば、彼女の両親も考え直してくれるさ」
「ええい、面倒な……君が戻ってこなければ、全て丸く収まったんだ」
クラウスの腹立たしげな言葉に、ライオネルはふと口をつぐんだ。
見上げた彼の横顔に、不敵な笑みが浮かぶ。とても楽しそうなのに、どことなく危険な香りがする笑顔だ。
「それを言うなら僕としても、君がいなければ丸く収まるんだ」
さっきまでとはまるで違う、低くすごむような声。クラウスはもちろん、私もちょっと震え上がってしまった。
「き、君ごときに私をどうにかできるとでも!?」
「僕は山神様の使いだと言っただろう? 僕は今ここで犬の姿になり、君と戦うことができる。それこそ、力ずくで君を排除することだって」
そう言うライオネルの姿が、一瞬揺らぐ。さっきの神々しい犬の姿が、ライオネルの姿に重なってすぐに消えた。
「ほら、犬っころの僕は強そうだろう? 戦ったことはないから確信は持てないけれど、たぶん人の姿の僕よりはずっと強いよ」
そう言って、ライオネルは身構える。
「そうだ、ナディアを賭けて決闘というのはどうかな? ……僕が勝つのは決まっているし、君が痛い目を見るだけだから、この申し出を受けずに下がってくれてもいいよ。どうする?」
「……あ、ああ、その勝負、受けて立とうではないか!」
ライオネルの挑発に、クラウスがあっさりと乗ってしまった。どうやら、ライオネルの挑発に引っかかってしまったらしい。
「それじゃあ、決まりだね」
そう言って笑うライオネルの目には、それはもう楽しそうな光がともっていた。
「それでは、これより決闘の開始を宣言します。いずれか一方が戦闘を継続できなくなるか、あるいは負けを認めたら終了です」
相変わらず霧に閉ざされた庭で、私は精いっぱい厳かにそんなことを言っていた。決闘なんてしてどうするのよ、と内心思いながら。
私の目の前には、ライオネルとクラウス。二人とも剣術の稽古用の柔らかい木剣を手に、黙って向き合っていた。さっきライオネルがささっと屋敷に入って取ってきたものだ。
「それでは、両者、構え」
私の言葉を合図に、二人が剣を構える。
「始め!」
次の瞬間、ライオネルが飛び出していた。とっさにクラウスが剣を振り下ろす。ライオネルはその剣を自分の剣で受け流し、するりとクラウスの背後に回り込んだ。
そして彼は、大きな犬に姿を変えた。……のはいいけれど、そのままクラウスのお尻に噛みついている。
気のせいかな、真剣勝負のはずなのにどことなくこっけいなのは。
手加減したらしく服は破れていないし血も出ていないけれど、クラウスは情けない悲鳴を上げていた。
「ええい、忌々しい犬めが!」
叫びながら、クラウスは犬のライオネルの背中に剣をたたきつけようとしている。
しかしライオネルはすぐに人間の姿に戻り、地面に伏せた。彼の背中の遥か上を、クラウスの剣が空振りしていく。
そこからも、だいたい同じ調子だった。
人の姿と犬の姿を使い分けて攻撃と防御を器用にこなすライオネルに、クラウスはずっと振り回されっぱなしだった。
ライオネルは私と一緒に、小さい頃から木登りだの鬼ごっこだの山歩きだの色々こなしてきた。全身を大きく使って、汚れることも気にせずに動き回るのは、大の得意だ。たぶん犬の姿で暴れなくても、互角以上に戦えていたんじゃないかと思う。
一方のクラウスは、どうやらちゃんとした剣術の経験しかないらしい。太刀筋は結構美しいのだけれど、めちゃくちゃに動くライオネルにちっともついていけていない。
さんざんに振り回されて息が上がったクラウスが、まなじりをつり上げてライオネルをにらむ。
「はあっ、はあ……ライオネル、卑怯だぞ! 剣を放り出したり、犬になったり! これはとても決闘とは言えない代物だ!」
「でも、僕のほうが有利にことを運んでいるのも確かだろう? これが決闘ではなくて実戦なら、君はとっくに敗北しているよ。……犬の姿で喉笛を狙えば、一撃だからね」
その様を想像してしまったのだろう、クラウスがぶるりと震えた。それでも一生懸命に言い返してくる。
「ふ、ふん! 実戦などと、ありえない状況を挙げてどうする!」
「ないとは限らないよ。僕はどんな手を使ってでも、ナディアを守り抜く。君にはできる?」
嬉しい言葉に思わず笑みを浮かべていると、クラウスがぴたりと動きを止めた。ライオネルを見つめたまま、必死に何か考えているような顔をしている。
やがて、クラウスがぶんと大きく首を振った。うっとうしい虫でも振り払うような、そんな仕草だった。
「ちっ、今日のところは引き下がってやろうではないか。だが、私はあきらめた訳ではないからな!!」
短く吐き捨てて、彼はこちらに背を向ける。そうしてそのまま、霧の中を走り去っていった。
よほど気が動転していたのか、彼はよろめき、幾度となく転んでいた。
私はただ、その姿を見送ることしかできなかった。いや、見送ることができてほっとしていた。