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7.来訪、そして転機

「クラウス様が、いらっしゃいました」


 その知らせを部屋で聞き、緊張に顔をこわばらせる。ああ、ついに来てしまった。


 次にクラウスが来た時に、決着をつけよう。ライオネルはそう言っていた。つまり、今日この場を乗り切れば、ライオネルは本当に戻ってくるのだ。


 それは嬉しい。けれど、本当にクラウスを引かせることができるのか、ちょっと心配だ。


 結局ライオネルは、あれ以来姿を現していない。彼はいったい、どんな手を思いついたのだろうか。ああ、気になる。


「お嬢様、どうなさいますか? 今日は具合が悪いので申し訳ありませんと、クラウス様にそうお伝えしましょうか」


 ひっそりとやきもきする私に、ばあやが心配そうにそう言う。子供の頃から私の世話をしてくれている彼女は、私の一番の味方だ。


 ライオネルがいなくなって、ライの面倒を見始めた私を、ばあやはそれは心配してくれていた。


 絶対にクラウスの妻にはならない、そんな私の決意を一番よく知っているのも彼女だった。だから彼女はこうやって、彼を追い返そうとしてくれているのだ。


 その気持ちはありがたい。けれど、私は行かなくては。ライオネルとの未来のために。


「いえ、会ってくるわ。……それと、一つ頼みがあるのだけれど」


 静かに答えて、机の上の箱を手にする。それをばあやに差し出して、きっぱりと言った。


「この箱の中身を燃やして欲しいの。裏庭で、落ち葉のたき火に混ぜて。遠くからでも煙がよく見えるように」


 ばあやは困惑しているようだったけれど、箱を受け取ってしっかりとうなずいてくれた。


「分かりました。……どうぞ、お気をつけて」


 やはり心配そうな顔で出ていくばあやを見送って、軽く身支度を調える。


 クラウスを歓迎するためではなく、彼に立ち向かう気力を奮い立たせるために。




「今日も君は麗しいな、ナディア。私の伴侶にふさわしい、気品あふれる姿だ」


 自分に酔ったような声でうっとりとそう言うクラウスに、ぎこちない笑みを返す。ライオネル以外の人にそんなことを言われると気持ちが悪いのだと、つくづく思い知らされた。


 私とクラウスは今、庭にいた。ライオネルの指示通りに。


 クラウスをここに連れてくること自体は、あきれるほど簡単だった。天気がいいから外で話したい、そう言ったらあっさりうなずいてくれたのだ。


 あとは、ライオネルが駆けつけてくれるのを待つだけだ。それまで、どうにかクラウスをやり過ごさなくては。


 しかしそうして二人きりになったとたん、クラウスはべたべたとした甘ったるい言葉を吐き始めた。


「そのしとやかなたたずまい、控えめな笑顔……さすが、私が見込んだ女性だ」


「いえ、そんなことは……クラウス様には、もっとふさわしい女性がおられますよ」


「ああ、君は謙虚なのだな。そして心も優しい」


 クラウスはやけに上機嫌だった。いっそ、薄気味悪いくらいに。彼はきざったらしい仕草で、私を、庭を、そして屋敷をなめるように眺めている。


「そしてここが、私の新しい家となるのだな。とても趣味の良い庭だ」


 なんとも驚いたことに、彼はもう結婚後のことを語っているのだった。あまりのことに寒気がしてきた。


 ライオネルはまだかなとそわそわしながら、必死に平静を装う。そうしていたら、屋敷の向こう側、裏庭のあるほうから濃い煙が立ち上っていくのが見えた。


 ばあやが、あの何かを燃やしてくれたらしい。あとは、ライオネルがあれに気づいてくれれば。


 こみ上げる期待を顔に出さないように頑張る私をよそに、クラウスは視線を屋敷の外に向けていた。


 その先にあるのは、一切手の入っていない、豊かな緑に覆われた美しい山。ちょっと怖いけれど、小さな頃から慣れ親しんだ大切な場所だ。そう、山神様がおられる山。


 ついこないだまで、山神様のことを本気で信じてはいなかった。それでも、あの山は美しい場所だと思っていた。あそこが、好きだった。


 ところがクラウスは、山を見て思いっきり顔をしかめたのだ。まるで、虫でも見るような目だ。


「しかし、あの山はいただけないな……何とも見苦しい。切りひらいて、花の咲く木でも植えさせよう」


 鼻で笑っていたクラウスが腹立たしくて、つい言い返してしまう。


「あの山は、立ち入ってはならない場所です。そんなことをすれば、きっと山神様の罰が当たるでしょう」


 しかし彼は意味ありげに笑うと、こちらに向き直ってきた。


「山神の罰、か。それはなんとも恐ろしいものだ。となると、私もライオネルのように行方知れずになるのだろうか?」


 奇妙に明るい声で、彼はそう返してきた。山神様の罰と、行方不明のライオネル。


 どうやらクラウスは知っているらしい。ライオネルが行方をくらました時の事情の、少なくとも一部を。


 そしてきっと彼は、ライオネルが狩りに行くふりをして逃げだしたと、そう思っているのだろう。私を見る目に憐れみと、ほんの少しの蔑みが感じられた。


「ライオネルはもう見つかりました。故あって、まだ姿を現せないだけで」


 彼が戻ったことは、まだ内緒だ。それは分かっていたけれど、もう我慢ができなかった。


 私の家に、私の人生に勝手に踏み込んできたクラウスを、一刻も早く追い出したかった。私の大切なものを、私自身を蔑むこの人と、これ以上一緒にいたくなかった。


「……そして、私の婚約者は彼だけです。私があなたの求婚にうなずくことはありません。どうぞ、お引き取りください」


 眉間に力を込めて、精いっぱい強気に言い放つ。子供の頃、こういう顔をしたらライオネルが怖がっていたなと、そんなことを思い出しながら。


 しかし、クラウスは少しもひるんでいなかった。彼は目を細め、不満げな顔でこちらに向き直る。


「ああナディア、私の愛しい人。君はまだ、ライオネルなどという名前を口にするのか。まったく、嘆かわしいにもほどがある」


 そう言って、彼はゆっくりと私に近づいてくる。何やらただならぬ気配をまとって。


 自然と身が震えてしまう。蛇ににらまれた鼠は、きっとこんな気分なのだろう。


「君は私だけを見ていればいいんだ。ほら、このように」


 言うが早いか、彼は片手でがっちりと私の肩を捕まえてしまった。もう片方の手を私のあごに添え、無理やり上を向かせてくる。


「は、離してください!」


「いいや、離すものか。よそ見をする君が悪いのだから」


 彼の腕をつかんで、振りほどこうとあがく。けれど、彼の腕はびくともしなかった。私の細い腕は、あまりにも非力だった。


 悔しさに、ぎりりと唇を噛む。その間にも、どんどんクラウスは顔を近づてくる。このままだと、大変なことになる。それだけは絶対に駄目。


 ライオネル、早く来て。クラウスが来ているわ。彼を追い払ってくれるって、必ず駆けつけるって、そう言っていたでしょう。


 一生懸命、心の中で呼びかけた。でも、ライオネルがやってくる気配はない。


 ……こうなったら最悪、頭突きをしてでもクラウスを止めよう。このまま彼の好きなようにさせてたまるものか。


 本気でそう覚悟を決めて身構えたその時、突然辺りに霧が立ち込めた。


 みるみるうちに、庭が白く塗りつぶされてしまう。見えているのは目の前にいるクラウスと、近くの花壇だけ。


 それくらいに濃い霧だったけれど、なぜか不思議と心は落ち着いていた。この霧は、とても優しいもののように感じられたのだ。


「何事だ、これは!? 今の今まで晴れ渡っていたというのに!?」


 しかしクラウスは、あからさまにうろたえていた。ばっと私から手を放し、戸惑いもあらわに周囲を見渡している。


 クラウスの注意が私からそれた隙に、じりじりと彼から離れてほっと息を吐く。さっきまでつかまれていた肩を、こっそりと手で払った。


 ああ、よかった。本当に助かった。でも、この霧は一体何なのだろう。


「こんな風に突然霧がわき起こるなど、聞いたこともない……どうなっているのだ」


 クラウスのその声に答えるかのように、やけに近くから狼の遠吠えが聞こえてきた。彼はおびえたような顔で、びくりと身を震わせている。


 その気持ちは分からなくもなかった。この辺りには狼はいない。狼たちが暮らすのはもっと森深い、山の奥だ。こんなに近くで遠吠えを聞いたことなんてない。


 突然現れた不思議な霧に、いるはずのない狼の遠吠え。何から何まで普通ではないこの状況は、もしかして。


 いよいよ、ライオネルが来てくれたのかもしれない。両手を祈りの形に組み合わせて、彼が現れるのをじっと待つ。


 と、霧の向こうから小さな足音が聞こえてきた。息をのむ私たちに向かって、その足音はどんどん近づいてくる。


 とすん、とすん。明らかに、人のものではない足音。まさかライオネルではなく、狼が来てしまったのだろうか。


 とっさに身構える。野の獣には背を向けてはいけない。そう聞いたことがある。


 いずれライオネルが助けにきてくれる。それまで、絶対に生き延びなくては。


 視界の端に、へっぴり腰で後ずさるクラウスの姿がちらりと見えていた。彼に構っている暇はない。視線を前に戻して、じっと音がするほうをにらみつける。


 やがて、霧をかき分けるようにしてそれが姿を現した。


「何だ、犬か……驚いて損をした」


 拍子抜けしたような、でも震えて裏返った声で、クラウスがそうつぶやいているのが聞こえてくる。


 霧の中からやってきたのは、一頭の大きな犬だった。私の知っているどの犬よりも大きくて、美しい。


 毛並みは優しいトースト色、緩やかに波打っていて、まるで王の衣のようにその身を彩っていた。


 すっと鼻筋の通った、利発そうな目をした犬だった。大きさも姿もまるで違っていたけれど、その犬は不思議なくらいにライを思い起こさせた。


 そしてその犬は、優雅な足取りで私たちに近づいてくる。


「な、何だお前は! あっちへ行け!」


 声を張り上げて、クラウスが犬を追い払おうとする。どうやら彼は、この謎の犬を恐れているようだった。


 なおも後ずさりながら、威嚇するようにぶんぶんと手を振るクラウス。けれど、犬の歩みは止まらない。


 すると、少しずつ犬の姿が変わっていった。犬の姿がふわりと薄れて揺らぎ、その向こうから青年の姿が見えてくる。まるで、二つの幻を重ねたかのように。


 そうして美しい犬は、凛々しいライオネルへと姿を変えていた。

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