二、アンドレア
状況を整理する。
まず、自分は悪役令嬢のレイティアであること。レイティアはわがままな性格で敵も多いが、男を虜にする不思議な魅力がある。
レイティアはアンドレアに思いを寄せていたが、正ヒロインナディアに敗北する。それがきっかけでレイティアは悪の道に進む。さらに、ナディアとアンドレアがくっついたことにより、クレスもまた、闇堕ちする。
「レイティア、家事は召使たちがやるのに」
「お母さま。でも、中央貴族学院は全寮制です。私も料理のひとつも覚えなければ」
とはいえ、寮には寮母がいるため、必ずしも自炊する必要はない。
だが、レイティアが料理にいそしむのは、ひとえにこの世界の食べ物を把握するめである。
レイティアはこの世界の食材をほとんど知らない。調理されたものを食べることしかしてこなかったためである。あの夢で見たニホンでは、レイティアはそこそこ料理ができた。だがそれは、あの国の食材に限る。
今の世界での食べ物は、ニホンのものとは全く違った。だからレイティアは、料理も洗濯も掃除も、一から学びなおす必要があった。
「レイティア・クレセントです」
万全の態勢で臨んだ入学式、案の定レイティアは「浮いていた」。
国中にレイティアのことはうわさされていたし、そのレイティアが十五の誕生日を境にがらりとひとが変わってしまったこともまた、貴族たちの間では噂になっていた。
「噂は本当だったのね」
「憑りつかれてるのかも」
「猫かぶってるんだろ」
ひそひそと噂話が絶えない。レイティアは居心地の悪さを感じた。
「レイティア、こっち!」
自己紹介ののち、自席に戻ろうととぼとぼと歩くレイティアに、ひとりの女子生徒が朗らかに手を振った。
「……ナディア……?」
見知った顔だった。レイティアが接近しなければならない張本人、ナディアである。
すでにクラスでは派閥が出来上がり、レイティアはそのどこにも所属できなかった。そりゃあそうだ、あれだけ横柄な態度をとっていたのなら、みなに嫌われて当たり前。
ゲームのなかでは、レイティアはそれでも一人を貫き、徐々に徐々にクラスメイトを支配していくのだ。そうしてナディアを孤立させ、いびり、ときにアンドレアを誘惑する。
「あ……私なんかとかかわったら、アナタまで嫌われちゃうよ」
「なんで? 私、ずっとお話してみたいなって思ってたのよ?」
にこやかに手を引かれ、レイティアはナディアの隣に座る。ナディアの手はあたたかい。きっと心もあたたかい人間なのだろう。
だからこそ、だからこそ、なのだ。ナディアには、クレスとくっついてもらわなければならない。そのためにはまず、第一のイベントのシナリオを変える必要がある。
「ナディア、ありがとう」
「なんでお礼なんて言うのよ。私のほうこそ、なんだか強引にごめんね」
朗らかに笑うナディアに、レイティアの決心が揺らぎそうになる。しかし、気を取り直して、レイティアは男子のとあるグループに視線を向ける。
「あの子、なんて言ったっけ」
「どの子?」
「あの、ブラウンのヘアに緑色の瞳の」
言うまでもなく、クレスである。レイティアはわざと、ナディアに聞いた。
「ああ、クレス・マイレイト?」
「ああ、そう。そうだった。彼、すごく優しいんだよね」
レイティアが想起したのは、十五の誕生日のことである。
あの日レイティアはクレスの前で気を失った。そのさなか、クレスがレイティアを部屋まで運んでくれたのだと、あとから両親に聞かされた。
見ず知らずの自分に、ましてやレイティアのような悪い噂しかないような人間にも、クレスは平等に優しいのだ。
「私が倒れたとき、迷わず抱き上げて運んでくれて」
「へえ。……もしかして、レイティアってクレスのこと……?」
「あ、あ。いや、違うからね⁉ 私はただ、いい人なんだよっていいたいだけで!」
にやにやとナディアがレイティアを見てくる。やりにくい。
レイティアは話題をそらそうと必死に顔を動かす。その時、ふいにとある人物と目が合った。
「ちっ」
「うわ、うわ、嫌な感じ!」
金髪に青い瞳、色素の薄い肌は女の子顔負けである。なにを隠そう、彼こそがクレス――ひいてはレイティアの宿敵、アンドレアである。
舌打ちしたアンドレアに対して、レイティアもまた、あからさまにふいっと顔をそらしてやる。
あんな奴のどこがいいのか。
しかし、レイティアにはわかっている。ああ見えてアンドレアは、友達思いだ。つんけんしているけれど、本当は優しい。
この中央貴族学院は、貴族か金持ちか、相当の才能を持った人間のみが入学できる、いわばエリート校だ。そんな学院でも、アンドレアはさらに稀有な存在だった。
成績は常に学年トップ、運動もできるし頭も切れる。そんな完璧な彼であるが、唯一、クレスにだけは心を開くのだ。
クレスは貴族ではない、一般の人間だ。つまり、クレスもまた、アンドレアに匹敵するほどの才能を有しているからこそ、この学院に入学できた。
そんなふたりが唯一無二の学友になるのは、時間の問題だった。そして、ライバルになることだって、必然だった。
「おい、オマエ」
ずかずかと歩いてきたのは、アンドレアである。ゆうに百八十は超える身長で、レイティアをにらみ見下ろしている。
しかし、レイティアはスンとしたままで、返事すらしない。それがアンドレアをいらだたせた。
「おい、聞こえてんだろ?」
「オマエって誰のことかしら?」
なおもすました表情のレイティアに、アンドレアはばん!っと机を叩き威嚇した。隣にいたナディアの肩がびくっと震えた。
計算内だった。レイティアにとって、これは計算のうちだ。
本当ならば、入学式でのナディアとアンドレアの出会いはもっと違ったものだった。
ふたりは教室で目を合わせて、それでアンドレアがナディアに話しかける。「オマエ、どこの出だよ」。
しかし、レイティアがナディアと接触したことによって、シナリオがだいぶ変わった。
「暴力的な男は嫌われますよ」
「俺が誰だかわかって言ってんのかよ」
「さあ、どこのどなただか私にはさっぱり」
曲がりなりにもレイティアは貴族だ。それが、アンドレアを知らないはずがない。アンドレアは貴族のなかでもさらにエリートの一族。目をつけられたらきっとこの先の人生は真っ暗だ。
だが、だからどうした。
「オマエの噂、聞いてるぜ」
「そう。ならなおのこと、かかわらないほうがいいのでは?」
「話するときはこっち向け――」
ぐいっとアンドレアが体をかがめてレイティアの顔を覗き込む。
その、顔が。
「……っ!」
「……? なに?」
アンドレアはすぐさま顔をそらした。
悪名高いレイティア・クレセント。多くの男を弄んだ悪女。好き放題わがまま放題の嫌な女。
そんな噂を、アンドレアは信じていた。だからこそ、ナディアを助けようと思って声をかけた。
それなのに、なんだこれは。アンドレアは、言い知れぬ感情に支配されていた。
「オマエ、ソイツのこと梃子にするつもりじゃないのかよ」
「ソイツって、ナディアを?」
「そうだよ」
周りからはそう見えているらしい。レイティアは改めて教室内を見渡す。
みな、一様にレイティアとナディアとかかわるまいといった空気を出している。
ああ、そうか。どこまで行っても悪役令嬢は悪役令嬢のままなのだ。
「少し話してただけ。私は別の席に行く――」
「待って。待ってよレイティア。ねえ、アンドレア。アナタって最低ね」
「な……なんだよ、俺はただ」
じとっとしたナディアの視線に、アンドレアがたじろぐ。
絆は下がっただろうか。この調子でいけば、アンドレアルートは阻止できるだろうか。
そんなことを考えれば、意外にも助け船を出す生徒がいた。
「レイティアもナディアも。やめなよ」
「あ。クレス」
クレスであった。一連の騒ぎを見かねたクレスが、レイティアたちのもとに歩み寄り、困ったように笑っている。
突然の推しの登場にレイティアは困惑するも、ナディアは依然警戒したままである。
「クレスも、レイティアを悪者にするの?」
「まさか。俺はナディアの味方」
「はあ? オマエ、男のくせに女の肩持つのかよ」
ぎろっとアンドレアがクレスをにらむ。クレスは人好きのする笑みを浮かべ、アンドレアの肩に手を置いた。
「いくら君でも、女の子に手を出すって言うんなら、俺も黙っていないよ」
「あ? やんのかよ?」
ざわざわと教室がざわめいた。
あの、アグルガー家の跡取りと、一般人ながらこの学院に入学したクレスの対決となれば、どちらが勝つのか気になって当たり前だ。
「表出ろ」
「暴力はよくない。そうだな、アンドレア。どうやったら君はレイティアへの非礼を詫びる?」
「はっ。俺の言うことが間違ってるか? だってコイツ、男を弄ぶわ性格悪いわで町中の噂になってんだ――」
パシン! と乾いた音があたりに響いた。ナディアの手がアンドレアの頬を叩いていた。
「なん……俺はオマエのためを思って……」
「そんなこと頼んでない。レイティアもレイティアだよ。なんで黙ってるの」
「えーと……うん、アンドレアくんが言ってること、間違ってないし」
あはは、と笑うレイティアに、拍子抜けしたかのようにアンドレアが舌打ちした。
「その化けの皮、いつかはがしてやるかんな。それとクレス、だったか?」
「なんだい」
「オマエも、いつかぎゃふんと言わせてやる」
ひとまず。レイティアの思惑通り、ナディアとアンドレアのお互いの印象は最悪だ。
このままいけばきっと、きっとナディアはクレスを選んでくれる。
とはいえ。
「まだまだ気は抜けないなあ」
クレスとアンドレアの背中を見ながら、レイティアは小さくため息をついた。