ふたたび出会うその場所は
「約束……」
過去を思い出しながら、トレッキングスタイルのありすは、あの日の手紙を読み返していた。両親と縁を切ったわけではないけれど、自分で自分の道を決め、自分の思うように進んでいる、と、思っている。
「セイ……あなたの帰る場所は、見つかりましたか……」
森に調査に来るたび、ありすはつぶやく。どこかでセイが聞いていればと、思う。
ごろ。
遠くで、雷鳴がした。
「あ……」
降るかもしれない。ありすは用意してあったビニールシートをてるてる坊主のように被った。そのすぐあとに、雨が降り出す。やっぱりだ。教授はご自身でなんとかなさるだろうから、自分は自分でしのげるところを探さなくては、風邪をひく。
ありすはビニールシートをかぶったまま、小走りに駆け出そうとした。
しかし、すぐに、足を止めた。遠くに、見知った影が映った。
「あれは……!」
犬、もとい、狼の耳に尻尾を生やした、色白の青年――彼もまた、雨しのぎをするためか、小走りに駆けていた。だから、たぶん、ありすには気がついていない。
「セイ……セイ‼」
呼ばれてようやく、彼は顔を上げた。
年月が経ってはいるが、ありすの記憶の中にある彼と、その姿は同じだった。
「人間……?」
ありすは思わず駆け寄った。
間違いない。セイに間違いない。夢じゃない。夢であってほしくない!
「セイ! セイ‼」
「え…………」
戸惑うセイに、ありすは勢いよく抱きついた。あの日の光景を、思い出して。
「……探したのですよ、セイ……!」
あたたかさはあのときと同じだった。セイだ。セイだ。
「もしかして、ありす、かい? 大きくなったね……!」
「セイが歳をとらないだけでしょう? あのときのまま、変わらなくて、」
「さあ。それでも僕はずいぶんお爺さんになってしまったよ」
ありすは抱きついたまま、顔も上げずに、そのあたたかさに埋もれた。
「……知っています……だから探しました。もういちど、逢いたくて。きっとここに帰ってきていると思いました」
「どうして?」
「そっくりだからです。あのときの森と、ここが、そっくりだからです」
言われて、セイは気がつく。そうだ。もう、いくつめの森だったろう。なぜかとても懐かしくて、ここを、自分の最後の場所にするつもりで、僕はここに住むと決めたんだ――
「……そうか……そうだね。また、「飼う!」って、言うかい? あのときみたいに」
セイはいたずらっぽく聞いた。
ありすはすこしむくれて、「もう、いい大人なのですよ、わたしも。そんなこと、言
いません」と返す。それがうれしかった。
「そのために探したのかと思っていたけれど」
セイはくすくす笑う。
ありすはそんなセイを見て、ふかく微笑んだ。
「セイの好きだった場所、生きた場所、おばさまの愛した場所……を……守りたかったのです。その場所を愛して、セイがいてくださるなら、わたしは幸せなのです。ようやく……場所を、見つけられました。わたしも」
「――――ああ」
ありすに出逢い、母と再会し、そして、ふたりに別れを告げた、あの春のことを、セイは思い出し、そして、懐かしがるように、言葉を漏らした。
「あの森でまた逢うという約束は守れませんでした。だから、作りました。この森は、わたしの研究のひとつです」
「ありすが? この森を……作ったの……?」
「人工的に、ですが、緑を増やして、育てなおしているのです。まだ、これからです。でも、セイが戻ってきてくださったのなら、研究は半ば成功しています」
「そうか……。僕は、好きだよ。ここ。あの森に、匂いが、似てる」
「……よかった。――もしもセイがここに帰ってくるなら、セイに、この森を、見守ってほしいと、思っていました」
「僕に……?」
「この森はまだ子どもです。育つまで……きちんとした森に、なるまで。セイに、見守っていてほしいのです」
ありすの瞳はセイをまっすぐに見つめていた。
セイも、ありすをまっすぐに見つめた。
「わかった。約束、するよ」
たどたどしく小指を出したセイに、ありすは思わず微笑む。あの日のことを、思い出す。彼女も小指を出して、セイの指に絡めた。
「ありがとうございます」
いつの間にか、雨は上がっていた。ありすはビニールシートをたたみながら、よいことを思いついたというふうに、セイのほうを見た。
「――そうだ、久しぶりに、お食事をご一緒しませんか。おばさまから、セイの好きなもの、教わっておいたのです。ね?」
「そうなの? じゃあ、ごちそうになるよ」
「行きましょう。ふもとに、小屋があるのです」
ありすはセイにそう声をかけると、先に歩き出した。
セイは、ありすの大きくなった背中を見つめて、思わず、彼女の腕をつかんだ。
「ありす」
「え」
セイの腕が、ありすを力強く抱きしめる。
「ありがとう」
「セイ?」
急なことで、ありすは戸惑う。セイの声が、潤んで聞こえた。
「ありがとう、ありす」
「……え……」
「ほんとうに、ほんとうに……ありがとう……」
僕の森だ。ここは。
僕が暮らして、母さんが住んで、そしてありすがいる。
あの日のあの森と、おんなじ、森だよ。
セイの中で、言葉にならない想いが、たくさん、あふれた。
「生きていくよ。僕は、この森で、生きていく」
とっくに決めていたけれど。
ありすに居場所が見つかったように、僕にもやっと――見つかった。
「ありす。また、僕に逢いに来てくれる?」
こんどはありすの目の前が潤んだ。ありすはセイを、しっかりと抱きしめ返した。
何年も探した。セイのことも、自分の居場所も。
この何年かが、一気に溶けていく気が、ありすはしていた。
「いつでも……いつでも、逢いに、きます」
あの日のあたたかさを再確認するように、ふたりは長いこと、動かなかった。
森の優しい空気が、ひとりの人間と、一匹の狼を見つめていた。
――了――