マチコがドン引いたその訳は
マチコはたくさんのタオルを支度して、再び本に目を落としていた。
雨は上がったようだった。そろそろ、ありす様が帰ってきてもよいのだけれど、と、マチコは思っていた。
そのときちょうどよく、玄関先からありすの声がした。
「おばさま! おばさま!」
「まあまあ、ありす様。お帰りなさいませ!」
マチコが立ち上がって玄関へ向かうより先に、ありすが入ってくる。
「お出かけ中に、雨に降られたのではないですか? お風邪など召されては――」
マチコはタオルをありすに差し出そうとしたが、見た目にも、ありすはほとんど濡れていなかった。
「大丈夫です、ごらんのとおり、濡れていませんわ」
「またそれはどうして……? 結構降っておりましたのに?」
それでも髪の毛がすこし濡れているようにも見えて、マチコはささっと拭いてやる。
ありすは身を任せながら、説明した。
「確かにわたし、森の中で、雨に降られてしまいましたの。でも、犬のひとに助けていただいて、濡れることも凍えることもなくすんだのです」
「まあまあ、それはそれは、……。犬のひと?」
「それで、わたし、このかたを飼いたいのです。聞けば野良だとおっしゃるし、あたたかいところで、美味しいお食事を一緒に食べたいし……」
「さよう、で、ございますか……」
マチコはどうしても、ありすの言葉の端々にある違和感をぬぐいきれない。言っているのは犬のことなのか人のことなのか? 聞いたら野良だと言った? 飼う?
「別に噛みもしないし、とても優しいのです。いま、連れてきているのですけれど、確か首輪がありましたね?」
「ええ、玄関の戸棚の奥にしまってございます……が……」
マチコがようやく言葉を吐き出すと、ありすはうれしそうに玄関へ消えた。
「ありがとうございます。すぐ、連れてきます」
その直後、玄関先で男性の声がした。
「ありす、つけにくいよ」
「我慢してくださいな、じきに大きいものを買いますわ」
ありすの声も間違いなくする。……ならばやはり人? しかしなぜ首輪が? マチコは声のほうがどうにも気になるが、ありすが来ないことには何もわからない。とりあえず椅子に掛けたが、そのすぐ後だった、ありすがセイを伴って現れたのは。
「おばさま、セイです」
目の前の状態に、マチコは椅子ごとひっくり返った。見た目には人間の男性に首輪がはまっていて、ありすがそれを引っ張っているという、なんとも倒錯的な絵面だった。こんなものを旦那様と奥様に見られたら事態はえらいことになる。
「あ……ありす様、」
マチコは言いかけて、セイの顔を見た。セイは恥ずかしいような、困ったような顔でうつむいていたが、その顔は間違いようもなく、マチコの記憶にある顔だった。
茫然とセイを見つめるマチコに、ありすは不可解な顔をした。
「おばさま、どうなさったの?」
「あ、ああああああありす様、そそそそそれはちょっとその!」
絵面的にマズいです、とはさすがに言えず、マチコは別の言葉を探した。
「どうして? セイって犬なのですって。きっと夜なんかは普通に犬の姿で眠るのだと思うのですけれど」
「いや僕、犬じゃないんだけどなあ」
「よ、夜は! 夜は狼になるとしても! いまはひとなのですし、そっ……ソレをつけずとも、このかたは逃げることはしないでしょう?」
セイはそのとき、マチコが言った『狼』という言葉に、反応した。ありすはそのことに気がつかなかったが、セイは初めて、ありすが『おばさま』と呼ぶその婦人のことをしっかりと見、そして、驚愕した。声にまで出さなかったのは幸いというほかなかった。
「それもそうですね……申し訳ありません、セイ。外しますから、こちらへいらして。あ、おばさま」
「はい⁉ ななななんでしょうか」
マチコはうろたえたまま、直立不動で答えた。
「今夜のお食事はセイのぶんも用意していただけますか?」
「は……はい、かしこまりました」
ありすはセイと一緒に玄関まで行きながら、楽しそうに会話をしていた。
「セイ、夕食はなにがよろしいですか? 犬は確か肉食でしたね」
「あ、だから僕は犬じゃなくってね……」
「お食事のときは床に座っていただいたほうがよろしいのかしら」
「いや別に無理に犬食いしなくても大丈夫だからね?」
「あら、やっぱり犬ですのね」
「あのね、そういうことじゃなくてね?」
ありすとセイの姿が見えなくなってから、マチコはその場にぺたんと座り込んだ。その表情には、絶望も、希望も、そして悲しみも喜びも、すべてが織り交ざっているように見えた。
複雑なこの気持ちをどこに持っていけばいいのか。とりあえず、いまは、できることをするしかない。マチコは夕食の支度をはじめた。