もふもふあたたかいその青年は
果たして、マチコが予感したとおり、遠くから雷の音が聞こえてきた。
ありすは空を見ながら、雲の色がさっきと違って見えることに、気がついていた。
「いやだ、雨が降りそう……せっかく草の上でお昼寝しようと思いましたのに」
頭の上に、水滴の感覚。
「あ……?」
ありすは空を仰いだ。ほどなくして、大粒の雨が降ってきた。
「やだ、降ってきましたわ!」
ありすは小走りに、雨宿りできる場所を探した。屋敷からの距離を考えると、どこかでまず雨をしのいだほうが得策だと思った。
それと同時に、色の白い青年が走り込んできていた。ありすは気がついていなかったが、背の高い青年には、ありすが見えていた。
「…………人間?」
ありすはほとんど足元しか見ないで走っていたため、青年に気がつくことのないまま、ぶつかってしまった。青年はありすをとんと受け止める。
「ひゃっ」
「あぁ、大丈夫?」
「はい、申し訳ありません、大丈夫です……」
ありすは抱きとめてくれた人物の身体に、なにか違和感を覚えた。ふわふわとあたたかい、それは毛布のような肌触りだった。違和感には違いなかったが、このときばかりは、その気持ちよさが勝った。
「わぁ……」
青年はぺたぺたとありすに体を触られ、照れていいのかどうしたものか、困惑した声を上げた。
「え……えーっと……」
「ありがとうございます、あたたかいかた」
またありすは青年の身体にぎゅーっと抱きつく。このままつつまれて眠ってもいいとさえ思った。
「どういたしまして。ここは冷えるからね、あっちで雨がしのげるよ。おいで」
青年はありすを抱えるようにして、岩場の陰に導いた。
「ほら、ここならもう大丈夫」
「こんなところ知りませんでしたわ。ありがとうございます」
「見慣れないけれど、君は、このあたりの子?」
「いえ、このすこし先の別荘に来ているのです」
「そうだったの。どうりで」
そのとき、雨に濡れて冷えたのか、ありすの身体が震えるのを、青年は見た。
「寒い?」
「はい、すこし」
「僕の身体ならあたたかいよ。使って……というのは、ちょっとおかしいかな?」
青年は軽く笑った。
「申し訳ありません、見も知らぬかたに、」
そこまで言って、そのときありすは初めて、青年をきちんと見た。
透けるような肌の、美青年。だが、青年というには、おかしなものがついていた。
犬のような耳。
そして、ぴこぴこと動く、犬のような尻尾。
ありすは不思議そうにそれを眺め、首が何度も何度も上から下までを行き来した。
「…………あのう…………」
「どうしたの?」
「ハロウィンというには、時期がすこし違うような気がいたしますが」
「はろうぃん?」
なんだいそれ、と、青年は笑った。
ハロウィンを知らないのに、
「森の中で、どうして仮装なさっておいでなのですか?」
ありすはそう聞いてみる。
「仮装?」
「だってそのお耳としっぽ……」
「ああこれ? これは僕のだよ、本物だよ」
青年は至極当然にそう言った。
「本物⁇」
ますますわからなくなったありすは、すこし考えて、「失礼いたします」と言って
青年の尻尾をきゅっと握ってみた。
「ヒャアアアアア」
青年は頓狂な叫び声を上げた。続いてありすはにゅうと引っ張ってみる。
「痛たたたたたた」
「まあ。ほんとうに取れないわ、本物ですのね。でも、そうだとしたら、あなたは人間ではないのですか?」
青年は尻尾をなでながら答える。余程びっくりして、そして、痛かったらしい。
「うん、まあ、そんなとこだね」
「犬のようなお耳としっぽ……すみません、乱暴にして」
「犬。……ああ、まあ、仲間のようなものではあるけど」
「では犬のお姿にもなれるのですか?」
「昼間はめったにならないけれどね」
「素敵! そういうかた、わたし、はじめてお逢いしましたわ!」
ありすは興奮した。物語の世界に出てくる、いわゆる、半獣半人というものだろうか。本物がいるとは思わなかった。
青年は「まあ、そうだろうね」と苦笑した。こういう反応をもらうのは、初めてだったらしかった。
「お家はどこかにございますの? もしかして森全体がお家なのですか?」
「僕のすみかはここだからね。とくに、家、は、ないなあ……」
「では、野良犬さんですね?」
目をキラキラさせながら聞くありすに、青年は「野良……」と絶句した。
「…………あ、僕、犬じゃなくてね、」
「ね、よろしかったら、わたしの別荘で、あなたを飼いたいのですけど!」
「飼う⁉」
「あ、そうだわ、飼う……のは、おばさまのご許可がいるので、まだ、わかりませんけれど……おばさまはとても美味しい料理を作ってくださるの、せめてお礼に召し上がってくださらないかしら」
ありすは自分でも、こんなに積極的になったことはなかったと、のちに思うくらいに、強引に青年に迫った。
青年はすこしたじたじとなりながら、飼われるのはともかく、と前置いたうえで、言った。
「わかった、じゃあ、ごちそうにはなろうかな」
「ありがとうございます! わたし、とってもうれしいわ、……あ、」
「どうしたの?」
「あなたのお名前をまだ伺っていませんでした。もう、つけられたお名前がおありなのですか?」
ありすは悩んだ。呼ぶべき名前がないと、それはそれで困る。わたしがつけてもいいのかしら、とつぶやきかけたときに、青年が、すこし寂しそうに、言った。むかしのことを、思い出しているようでもあった。
「セイ。僕はセイっていうんだ。ごめんね、この名前は、母さんがつけてくれた大切な名前だから」
「セイさん、ですか。とっても素敵なお名前ですね」
「さん、は、つけなくっていいよ。君の名前はなんというの?」
ありすは丁寧にお辞儀をして言った。しつけのたまものであった。
「西宮ありすと申します。どうぞ、ありす、と呼んでくださいな」
「ありすか。かわいい名前だね」
言われて、ありすは照れた。いままで誰も――マチコは別にしても――そういうふうにほめてもらったことはなかった。ありすはセイの腕をぐいとつかむと、引っ張るようにして歩みを進めた。
「雨も上がりました。参りましょう、セイ」
「はいはい」
そうして、ふたりは連れ立って、別荘へ向かうのだった。