わたしの歩くその場所は
その森には、緑が広がっていた。
トレッキングスタイルの女性が、双眼鏡を持ち、木々を観察しながら、森の中を歩いている。
「この辺はまだ成長しきれてないわ……日照も関係してるのだろうけど、もうちょっと育てないと」
手にしたノートにがりがりとメモをしながら、女性――西宮ありすはつぶやいた。ようやくここまでできたのだから、できれば、完成させたい。
同行していた男性がありすを呼んだ。
「西宮くん」
「教授? どうされました?」
「私はここらで植物細胞の採取をするよ。先に行っていてくれたまえ」
「はい、わかりました。お気をつけて。……ええと、次はこっちのブロックね……」
森の奥まで、ずんずんと歩みを進めるありすの脳裏に、過去の記憶がよぎる。
あの日もこんな天気だった。太陽がふわりとあたたかい、春の日だった。
「おばさま! マチコおばさま!」
幼き日のありすが、屋敷のひと部屋に走り込んでくる。安楽椅子に掛けた、マチコと呼ばれた婦人が、穏やかに本を読んでいた。
「あら、ありす様。お勉強が終わる時間にはまだ早うございますが……?」
「きょうの分はもうすんだのです。天気もいいことだし、お散歩に出かけてもいいでしょう?」
「まあまあ、さすがありす様。お出来のよろしいこと! 旦那様と奥様がさぞかしお喜びになるでしょう」
ありすはそれを聞いて、すこし、眉をひそめた。両親の話を聞くのは好きじゃない。まして、自分の出来について喜ぶなんて、本当かどうかもわからないことを。
「それで、お出かけしてきていいのかしら」
「あまり遠くにはゆかれませんように。ここのところときどき、遠くのほうで獣の鳴き声が聞こえることがありますし、ありす様の身に何かあっては、わたくしは旦那様と奥様に申し訳が――――」
言いかけたマチコの言葉をさえぎって、ありすはしっかりと言った。
「大丈夫、危ないことはしませんから。行ってまいります、おばさま」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
「はい」
ありすはにこりと笑って部屋を出て行った。
マチコは再び本に目を落とす。しかし、すぐに、顔を上げた。何かに気がついたようだった。
「――――おや。しまった、じきに雨がくるわ……ありす様! 雨が来ますよ、お出かけは――――」
玄関先に声を投げてみたが、返事はない。自身も玄関先まで出てきたが、風のように素早く、ありすの姿はもうなかった。
「なんて早いこと、もう出てゆかれた……せめてお部屋を暖かくしておきましょう。
それからタオルをたくさん……」
マチコは安楽椅子に置いていた本を片づけ、支度に走りながら、ため息をついた。
「……むかしは雨が降っても、なんでもなかったのに」