071 炬燵
「そうだね。……大黒様って名前なんだから敬わないと」
瑞貴が犬に対しても敬語で話しかけていることを秋月は納得したように聞いていた。そんな様子を若干気に入らなさそうに見ていたのは早川だったが、瑞貴が気に留めることもない。
「あっ、秋月さん本屋に用事があったんじゃないの?……早く済ませて、食べに行こうよ」
瑞貴が傍にいることが嫌だったのだろう。早川は秋月を急かすようにして声をかけた。
「あぁ、悪かったな。……それじゃ、俺は行くから」
瑞貴は繋いであったリードを解いて手に持った。この状況で瑞貴が一緒にいることは場違いに感じていたし、長く居てしまえば辛くなる。
知らなければ何も感じることなく過ぎ去っていた時間だが、運悪くなのか瑞貴が知ることになってしまった。
「……あっ……、えっと、それじゃぁ、また学校で」
立ち去ろうとする瑞貴に秋月が話しかけた。何かを伝えたそうにしているが、上手く言葉にできないような態度にも見える。
瑞貴も口にする資格がないことは自覚しながら『行かないでほしい』と口にしそうになる弱さを押し殺すので精一杯だった。
「お待たせしました。……さぁ、帰りましょうか」
大黒様は予想外にすんなりと歩き始めた。
秋月が来ることを大黒様が分かっていたのであれば、この場を避けてくれたはずなので何か意味がある行動と考えていた。だが、瑞貴の期待に反して大黒様は何も考えていないようだった。
――大黒様も秋月が本屋に来ることまでは分からなかったんだ。……眠たかったのかな?
この時点で大黒様が秋月が来ることを分かっていていながら遭遇させたと瑞貴は全く疑っていない。そんな嫌がらせのようなことを大黒様がするはずないと瑞貴は確信していた。
アニメ鑑賞は遅い時間まで続くことがある。天照大御神のように一人で部屋に籠って見ていることはないが注意しておいた方が良いかもしれない。
「……パンケーキ……、か」
思わず瑞貴から漏れ出した単語だった。散々悩まされることになった物だが、かけがえのない思い出になっている。
そして、覚悟を決めた二人の武将を思い出させる。
――俺もカッコイイ大人にならないと!
小さな女の子のために閻魔刀を振るった姿も甦ってきた。その姿は瑞貴の判断が間違っていなかったことを証明してくれる力強い姿だった。
――よしっ!……天照大御神を天岩屋戸から引っ張り出すことが最優先だ。こんな曇り空が続いてるから気分も暗くなる
自分を奮い立たせるように言い聞かせて瑞貴は振り返ることなく歩き始めた。
家に戻ってきた大黒様は軽快な動きで水を飲み、瑞貴の部屋に戻ってアニメを見始めてしまった。
――あれ?眠たくはないのかな?
鬼と話をしてから本屋まで巡っているので結構な距離を歩いているが、疲れている様子は見られなかった。瑞貴は椅子に腰かけて買ってきた本を読んでみる。
――鬼は参加してくれるみたいだから、あと一人だな
念のため、同じ本を二冊購入してある。
現状を鑑みても急いで天照大御神を部屋から出さなければならないが、なんとなく気が重くなっていた。気が重くなれば身体も重くなり、行動に移せなくなってしまっていた。
だが、瑞貴が相手しているのは神様であり、瑞貴の心情などお見通しで先手を打たれてしまう。スマホに着信があった。
「……はい、滝川です」
『こんにちは。采姫です。……昨日の今日で憚られたのですが、瑞貴さんなら良いアイデアを思いついたのではと思って、ご連絡差し上げました』
内容は瑞貴への気配りを感じるが、実際には全て分かった上で連絡してきているので恐怖しかない。
――この神様は、どこかで俺を監視してるんじゃないのか?
思わず、そんな疑いを持ってしまいそうになるくらいに完璧なタイミングでの連絡だった。
『……どうかされましたか?』
「いえ、良いアイデアなのかは分かりませんが、ご提案したいことはあります。……思いついたわけじゃなくて、父の力を借りてしまいました」
『そうなんですね。……でも、他人からの力を借りられることも瑞貴さん自身のお力なんですよ』
「……俺の力……なんですか?」
『もちろんです。人間一人の力など知れたもの。借りた力を返していくことで、世の中は次の段階に進むことができます』
「進化するってことですか?」
『うーん、ちょっと違います。前進ですね。全ての人間が自分本位に借りたままで終わってしまえば、その場に留まることしかできません。……瑞貴さんは前に進めることができる人だと信じております』
流石は神様と言ったところだろうか。少しずつ身体の重さが消えていくように感じた。
「夕方、お部屋に伺ってもいいですか?」
『はい、お待ちしております』
それだけを伝えて電話を切った。
――そうだよな。前に進んで行かないとダメだ
閻魔大王からの罰として、秋月は記憶の一部を書き換えられてしまっている。瑞貴は、そこから前に進むことができていなかったことに気が付いた。
瑞貴の中で一緒に初詣に行く約束をした秋月のままで時間を止めてしまっていたが、秋月の時間は流れていた。そのことを心の底から受け入れることができていなかった。
――秋月さんは、ちゃんと前に進んでるんだ。……俺は、あの時に秋月さんから借りられた力を少しずつでも返していく努力をすればいい
ストーカーの件を解決していたとしても、あの時に秋月から借りていた力は返し切れていないと瑞貴は考えていた。
例え、秋月の横にいるのが自分ではなかったとしても、そのことを忘れずに進んでいくしかないのかもしれない。
そして約束通り、夕方には采姫たちの住むマンションに到着していた。大黒様の視察も同時に終わらせることができるので夕方という曖昧な表現にしたことは正解だった。
エントランスでインターホンを押して、開けてもらわなければマンションに入ることができない。
――神様が現代のセキュリティシステムで守られてるのって、変な感じ
女性の声で応答があったが、采姫の声ではなかった。天照大御神とは話をしたことがなく声は知らない。
「えっ……、あの……、俺、滝川瑞貴といいます。市村采姫さんと約束をしていたんですけど……」
「あっ!はい。聞いてますよ。……どうぞ、お上がりください」
言い終わると同時に自動ドアが開いた。もう一人の同居人が帰ってきていたのかもしれない。
――ビックリした……。一緒に暮らしている『人間』がいるって言ってたもんな
マンションの中に入りながら、そんなことを瑞貴は考えていた。
――『人間』がいるって……、俺も『人間』なんだ
特殊な環境が続いていたせいで、自分が人間であることの認識が薄くなりそうだった。瑞貴が他者のことを『人間』として意識してしまっている考え方は注意していかなければならない。
大黒様を伴ってエレベーターに乗る。大黒様にとっては、エレベーター初体験のはずだが落ち着いていた。
部屋の前のインターホンを鳴らすと、今度は采姫がドアを開けてくれる。
「お待ちしておりました。……さぁ、どうぞ、中へお入りください」
「えっと……、失礼します」
采姫だけではないことが分かり、妙にオドオドとした態度になってしまう。玄関では小柄な女性も待っていてくれた。
「こんにちは。私、富永あずさといいます。……ここで同居させてもらっているの、よろしくね」
笑顔の可愛らしい明るい女性だった。眼鏡をかけたロングヘアで幼い雰囲気があり、高校生くらいに見えてしまう。
あずさは手に濡れたタオルを準備してくれており、大黒様の足を拭いてくれた。犬連れであることも采姫から聞かされていたのだろう。
「あっ、すいません。ありがとうございます」
早川への威嚇行動を見た後だったので大黒様が吠えたりしないか心配ではあったが、大人しく足を拭かせていた。
「あの、この犬は大黒様で、俺は滝川瑞貴です。……お邪魔します」
あずさはクスクスと笑っていた。大黒様の名前が可笑しかったのではなく、犬の名前を先に紹介したことが可笑しかったことに瑞貴は気付かない。
そして再び炬燵を囲むことになるが、大黒様が炬燵には嬉しそうに反応した。エレベーターの時に見せた反応とは全くの別物だった。
――これは、俺の部屋でも炬燵を要求されないか心配だな……
炬燵で寝転んでアニメ鑑賞をすることになれば、シヴァ神のイメージから益々遠くなっていく気がした。