041 偽善者
本屋から瑞貴は休むことなく走って、辿り着いた先は熱田神宮である。
何をしたいのかも分からないままだったが瑞貴は山咲瑠々の顔を見たかった。顔を見ても辛くなるだけなのも分かっているが、今の瑞貴は理屈で動いてはいない。
「あっ、お兄ちゃん。どうしたの?」
目の前には山咲瑠々が立っていた。
山本が言った話に間違いがなければ、たった1年前までこの子は生きていた事実を知る。
「…………ごめん」
瑞貴は膝をついて泣きながら謝るしかできなかった。人通りが少ない場所ではあったが、日曜日の午前中はそれなりに混雑している。
道行く人たちは一人膝立ちで泣いている瑞貴を好奇の目で眺めながら通り過ぎていく。
「……ごめんね」
繰り返し同じことしか言えないでいる瑞貴の頭を瑠々が撫でてくれた。
「……助けてあげられなくて、ごめん」
瑠々も泣きそうな顔になっていた。その顔を見た瑞貴も悲しくなってしまうが、どうすることも出来ない。
「……ごめんね、折り紙、好きじゃなかったんだよね?」
「ううん、さっきね、折り紙の『くす玉』を見つけたの!……色がいっぱいでキレイだった。みんなで折り紙で作るの楽しみだよ」
「……そっか、良かった。……嫌いになってなくて本当に良かった」
嫌いになってしまうには嫌いになる理由がある。瑞貴が深く考えることなく提案した『折り紙』で苦しさを思い出させてしまっていたら、あまりにも悲しいことだった。
「……ごめんね。お兄ちゃん、知らなかったんだ」
「大丈夫だよ。……よし、よし」
瑠々が泣いているとき、みんなが慰めてくれている言葉を覚えているのだろう。今の瑠々は瑞貴に同じことをしてあげていた。
気付けば信長と秀吉が瑞貴たちの横に立っていた。好奇の目に晒されないように目隠しのつもりで立っているのだが、二人が普通の人間から隠せるものなど無い。
二人はその行為が無意味だと分かっていても、そうしないではいられなかった。
「瑠々はね、悪い子なの。……だから、お兄ちゃんが謝ったらダメなの」
「瑠々ちゃんは、悪い子なんかじゃないよ。お兄ちゃん知ってるから、瑠々ちゃんは良い子だよ」
「……でもね、良い子は好き嫌いなく何でも食べてママを困らせない子なんだって言ってたよ。……でも、瑠々は何でも食べられなかったの」
だから、『紙』なんて食べて良い子になろうとしたのか。そうだとしたら、この子への救いがなさ過ぎる。
「……違うんだ。食べちゃいけないモノもあることを瑠々ちゃんは知らなかっただけなんだ」
「でもね、ママは、お腹空いた子は邪魔な子だって言ってたの。だからね、瑠々は邪魔な子だったの」
子どもにとって絶対の存在である『ママ』に裏切られていたのであれば、この子は何を信じれば良かったのか瑞貴には分からなくなっている。
この子は、この子の世界の『神』に裏切られた。
瑠々の言葉を、これ以上否定することなど出来ない。瑞貴の言葉が『神』の言葉を超えることなどあり得ないことだった。
――だから成仏することでしか救われないのか……
信長の言葉の重さが瑞貴にのしかかってくる。
おそらく信長も秀吉も瑠々の『神』の言葉を否定し続けていたのだろうが、瑠々には届かなかった。二人も瑞貴と同じで言葉が届かない無力感を味わっていたことになる。
瑞貴を己の無力を恨んで泣くことしか出来なかった。
信長と秀吉は泣いている瑞貴に背を向けて、無意味な目隠し役を続けてくれていた。
ここに居た三人の男は自分がそんなことしか出来ないことが堪らなく嫌だった。
しばらく、その状態が続いていたが、秀吉に促されて瑞貴は立ち上がり脇に移動して腰かけていた。
「貴方が言っていた意味が分かりました。……成仏でしか救えないんですね。俺の言葉は届かないんですね?」
「……其方が何を知ったのかまでは分からないが、儂らも慰め続けたのだ。だが、聞き届けてはもらえなかった。……何万、何十万の兵を従えてきていても、たった一人を諭すことも出来ない。……何とも情けのない話ではないか」
織田信長が自分を情けないと認めてしまうほどに、瑠々の神は手強かったらしい。大人でも神を盲信してしまうと周囲のことなど目に入らなくなる。誰の言葉も聞き届けてもらえなくなる。
「貴方が情けなかったら、俺なんてもっと情けない。」
まだ涙が止まらないでいた。『泣きたいときには泣けばいい』と言われているが、それでも泣くことしか出来ないことが情けなくなっていた。
「一年前、だったんですね。あの子が死んだのって」
「一年と少し前か。……まだ夏だった」
「……夏、ですか?」
「何かを知ってしまったんだな」
「『まだ』ほんの少ししか、知らされてません」
ほんの少しではあるが、ほとんど全ての情報になるのだろう。誰も瑠々からの言葉を聞かれれてなどいない。
瑠々の言葉を聞いていなければ、山本の言っていた情報が全てになる。
「一年前の夏なら、俺は受験勉強を頑張っていたのかな?暑い日だったら、クーラーが効いた部屋で不自由なく過ごしてたのかも。……当然、お腹が空いたらご飯を食べて。母親が夜食を用意してくれることもあったと思います」
瑞貴は、淡々と話を始めていた。
「……そんな中で、あの子は空腹が耐えきれずに口にした『紙』が喉に詰まったんです。……あっ、暑い日だったら喉が乾いていて貼り付いちゃったのかも……」
何となく光景が目に浮かんでしまい、再び涙が零れていた。
「苦しかったろうな、たくさん苦しんだんだろうな。……助けてあげたかったな」
それだけのことだった。それだけのことが、どうにも難しい。難しい事が分かっている瑞貴は天を仰ぐことしか出来ない。
瑞貴にとって助けられなかった瑠々が目の前に居ることが辛かった。手を伸ばせば触れてしまうのに『死』という事実だけは変えられない。
今、笑って他の子たちと遊んでいる瑠々の姿が見えているのに。
「……時は戻らぬよ。それだけは確かだ」
信長の言葉が残酷な事実を伝える。
「そうですよね。……もう、あの子は死んでしまったんだ」
知らなければ過ぎ去ってしまうだけのことなのだが、知ってしまった瑞貴には次にするべき行動が決まっていた。
「山咲瑠々ちゃんに何があったのかを、ちゃんと調べてみます」
「……もっと辛くなるだけだぞ」
「それでも、やっぱり、知らないままでも辛いんです」
「知っても何も変わらない。それは分かっておるのか?」
「分かってます。でも、せめて俺だけでも瑠々ちゃんのことをちゃんと覚えていてあげたいんです。……他の子は名前と年齢しか分からなくなってるけど、瑠々ちゃんは生きていたときの情報が残ってるんです」
「そうか、覚悟があるのなら、もう何も言うまい」
山咲瑠々について知れば、また沢山泣いてしまうかもしれない。自分の無力が辛くなるだけかもしれない。それでも、知ることを恐れていてはいけなかった。
「そうしなければ、偽りの神が残した証言だけで瑠々ちゃんの命が語られてしまう」
まだ、今なら山咲瑠々のことを知る機会は残されていた。
他の子たちは顔と名前しか記憶に残してあげられない。でも、山咲瑠々は違う。
どんなに辛い事実だったとしても、生きていた時間を知る機会があるのだったら自分だけでも正しく知っていてあげたいと瑞貴は考えていた。
――それも『偽善』なのかな?
それでも、『偽善』は『悪意』ではない。
本物になれなかっただけの『善意』が『偽善』であるなら『偽善』も積み重ねれば本物になれるかもしれない。