【完結】幻の街
美味しい肉は正義です
すぃっと風に乗って漂ってくるのは香ばしい醤油が焼ける香りだった。大通りの雑踏に紛れぽつんと佇んでいた私の鼻腔をくすぐり、道行く人の空腹を誘い、軽く空気に溶けてどこまでも広がった。
この通りはずっと先まで屋台が立ち並んでいたはずだ。そのどれかからだろうと私は見当をつけた。
あぁ。腹が減るな。
私は夢遊病患者のようにふらふらと匂いを辿り往来を行く。目が痛くなるような鮮烈なコショウの香りと異国情緒のある甘いスパイスの香りが交じり合う。
ふしゅうっふしゅうっと勢いよく吹き出す蒸籠の湯気。
じゃじゃじゃっと油で魚を揚げる音。
熱い油で肉の脂が溶けて焼けるこくりとした匂い。
ちょうど蒸しあがって並べられた饅頭のふっくらとした白さも美しいが、その隣で揚げたての赤い魚のうろこの輝きも捨てがたいし、深いつやのあるとろりした薄茶色いたれをまとった焼き肉の串は文句なしに完璧でよだれが出そうだ。瑞々しく甘酸っぱいにおいを漂わせる果物の山を見れば一つ失敬してがぶりとかぶりつきたい。新しい食べ物を見るたびに心惹かれてその味や食べている自分を想像した。どれもこれも思うままに食べてみたいが、私は最初の料理がどれだったのか気になった。風に乗ってずいぶん遠くまで匂いだけが運ばれたのかもしれない。
物珍しさにあちらこちら見回しながらお目当ての屋台を探していくと、一つ目に留まった。簡素な木で組まれ、申し訳程度の短いのれんがかかっている。中には一人、私と同じような中年の男が額に汗を流しつつ次々と丸鳥の生肉を逆さにして下から嘴にむかってぶすりと太い棒を刺していた。
きっとここだ。一歩また一歩と屋台へと私は近づいていく。
男の後ろには焼く前の羽根をむしられた丸鳥がすだれのように紐に縛られて無造作にぶら下がっていた。鳩よりも小さくて雀よりは大きいからうずらかもしれない。
男の前には大きな寸胴にたれがたっぷりと入っている。がっしりとした木枠の中には砂がつめてあるようだった。砂の上にこんもりと盛られた炭はゆらゆらと空気を歪ませながら赤く燃えていた。
串刺しにした鳥を男はたれにざぶりとつけて炭火の前に並べた。少し奥にある出来上がった丸焼きはこんがりとやや濃いめのきつね色で熱い脂でつやつやと輝きパリッとはち切れんばかりだ。あふれ出たぽた、ぽたりとたっぷりと含んでいる肉汁が棒を伝って流れていき、熱い砂に落ちた。
「たまらないな」
溜まった唾液が邪魔で私はごくりと飲みこんだ。私が飲みたいの生唾ではなくてジューシーで熱い肉汁と肉の脂だ。一羽丸ごと原始人がごとく我を忘れて貪りつきたいのだ。
でもだめだ。
こんなに鮮やかで色も匂いも暑さも現実なのに。
私は思い出した。これは最近よく見るおかしな夢の世界だ。いつのまにか眠りにつくと私はこの知らない街の中で佇んでいる状態で目が覚める。からりと晴れた青空が似合うエネルギッシュな異国の不思議な街。行きかう人も言葉も何もわからない。
今日は寝入る前に土産でもらった外国の酒をたらふく飲んだせいかもしれない。いつもならすぐに思い出すのに気づけなかった。どうせ食べられないのだ。現実の私は寝室で酒を飲んでだらしなくいびきをかいている。
最初の頃は身振り手振りで交流を試みたが、私はここでは幽霊のようで相手に触れることも出来なかったしそもそも相手にも気づかれもしなかった。
だから私は驚いた。
「何本買うんだ?」
屋台の中年の男は私に向かってぶっきらぼうに話しかけてきた。私は至近距離から聞こえた声に自分がいつの間にか身を乗り出すように肉の焼ける様子を覗いていたことに気づいて罰が悪くなった。
「わ、私が見えるのか?」
屋台の男は私の質問がよほどおかしかったのだろう。一瞬口をぽかんと開けてから訝しげな顔をした。
「見えるも何もそこにいるだろう?」
気味の悪いものを見る顔をされたが、会話が成立している! 私は湧き上がる歓喜に焦り、男の言葉を遮った。
「すまない、腹が減っていたんだ」
正確には会話にはなっていないけれども。
「そうか、何本買うんだ?」
男は素っ気なく聞いてきた。それはそうだ。若い可愛い女の子ならいざ知らず、会話の成り立たない中年男なんてどこにも需要がない。客でないならさっさとあっちに行けと言わんばかりだ。
「金は……ない」
ポケットを探っても、もちろん何もない。まさか言葉が通じるなんて思っていなかった。
「なら、帰んな」
そう言って屋台の男は犬を追い払うようにしっしっと手を振った。
「ま、待ってくれ」
慌てて私は何か金目のものがないか探した。物々交換してもらおう、と思ったのだ。あちこちポケットを探るために下を向いたら、ぐらりと地面が揺れた。急なめまい。
いや違う。これは。
ぐわわあんぐわあん。揺れだす視界の正体を私はもう知っている。
「おい大丈夫か?!」
耳鳴りのように遠くで声が響いた。
タイムオーバーだ。
次の瞬間、掃除機に吸い込まれるように体は強引に引き寄せられていく。
いつもの夢が終わるときの慣れ親しんだ感覚だ。ぐるんぐるんと螺旋を描きながら全ての景色が回り消え、気づけば自分のベッドの中だった。
「やはり夢だったか」
もう少しで食べられそうだったのにな、という残念さと同時にもしかしたらという若干の期待が産まれる。
もし次にこの夢を見たら私はどうなるのだろうか? あの屋台の肉を食べることが出来るのだろうか? いつか私はあの街にずっといることが出来るのだろうか?
何度も同じ夢を見るようになってから私はなぜだろうとずっと考えていた。
鮮やかな異国の街並みにそこに生きる人々。決して触れられない幻の街。
あの街はもしかしたら私が失った若さや冒険心の象徴なのかもしれない。だからこそ狂おしいほど求めてしまい、自分が築いてきた現在の幸せを甘受して穏やかに過ごしたい自分と、何もかもぶち壊して気ままに冒険したい自分がせめぎ合う。
矛盾するのは若くも無くかといってまだ枯れたくもない中年のあがきか。
「そうだな、指輪でもつけて寝ようか」
仕事柄、結婚指輪ですら外しているのに寝ているときだけ指輪を付ける自分。
そんな、バカみたいな自分の姿を想像して一人笑った。