四年目の秋に舞い降りた天使
「隼、そろそろ時間じゃない?」
池辺紗和が朝食の食器を片付けながら、背広を羽織りネクタイを整えている隼に声をかけた。
「おう、そうだな」
隼がスマホで時間を確認し、返事を返す。
「行ってくるよ。紗和」
「行ってらっしゃい」
玄関口で軽いキスを交わし、紗和は隼を見送った。
それは、甘い新婚夫婦の朝の風景。
紗和と隼は会社の同期だった。
就職二年目に同じプロジェクトで仕事をする内に恋仲になり、二十五歳の時に、紗和は結婚退職。以来、この約半年、目立った喧嘩もなく過ごしている。
「あ。隼、お弁当……」
その時、紗和は隼が紗和手作りの弁当を忘れているのに気がついた。
(今から追いかけたら間に合うわね)
そう思い、紗和は慌てて隼の後を追った。
「隼!」
隼の背中を横断歩道の向こう側に見つけた紗和は、青の点滅中に横断歩道の中に飛び出した。
まだ、確かに信号は辛うじて青だったのだ。
しかし。
キキキーーーーッ!!!
車の急ブレーキの音が響いた。
その瞬間。
紗和の体は宙に飛んだ。
「おい! 事故だぞ!!」
誰かが、大声で叫んでいる。
その声を遠くで聞きながら、紗和は意識を失った。
◇◆◇
隼…… 隼……
どこにいるの?
どうしてそんな瞳をするの?
何故、私から目を逸らすの?
隼……
うっすらと目を開けると、白い部屋の中。
「お、母…さん……」
紗和は傍らにいる自分の母親・多佳子の姿に気付き、呟いた
「さ、紗和……。気付いたの?!」
「気付く、て……」
「せ、先生。先生を呼んで……ああ、ナースコールね」
多佳子は急いで、ベッドサイドのナースコールを押した。
◇◆◇
「つまり、私は十日間、意識を失っていただけでなく、もう一生歩けないんですね……」
暗い口調で紗和は言った。
「一生とは言っていません。意識を失っていたのは頭を打ったせいで池辺さんの場合、完全麻痺ではなく、不全麻痺と言ってリハビリ次第で歩けるようにもなる可能性はあります」
紗和はベッドの上で動けないまま、医師の説明を聞いた。
脊髄損傷により、紗和はほとんど下半身麻痺の状態に陥っていた。
「容態がもう少し安定したら、当院でリハビリを始めましょう」
医師はそう言ったが、紗和は身動きも出来ず、回復しても車椅子という現実に凍り付くような思いだった。
医師の診察が終わると、紗和は
「隼はどうしてるの?」
と、多佳子に尋ねた。
「え、ええ……。身の回りのことがあるから、ご実家に戻ってられているみたいよ」
「実家?」
歯切れの悪い多佳子の物言いに紗和は、言った。
「私のスマホ。どこ?」
「今、ここにはないわ」
「持ってきて!」
紗和は不安げに叫んだ。
◇◆◇
トゥルルルル…… トゥルルルル……
「あ、隼」
『紗和……気付いたのか?!』
「ええ。さっき。ねえ、今から病室に来て」
『無理だよ。まだ勤務中だ』
「そんな……。半休を使えばいいじゃない」
『紗和もわかってるだろ。そんなに簡単に休める職場じゃないことは』
そう言う隼の言葉は冷たかった。
『とにかく、今は時間ないから』
そう隼は一方的に言うと、電話を切った。
「隼……」
紗和の心は暗澹たる思いで一杯になった。
それからも、隼はろくに見舞いにも来なかった。
LINEを送っても返信は遅いし、電話もほとんどない。
紗和は極端に無口になり、そんな娘に多佳子も手を焼いた。
いたずらに日々だけが過ぎていった。
◇◆◇
紗和の意識が戻って暫く、紗和の体調もようやく安定してきた頃。隼が病室に現れた。
「隼……!」
ベッドの上で、紗和は縋るような目で隼を見た。
しかし。
隼は口を開かない。顎に手を当て何かを考えている。紗和がドクドクと脈打つ悪い予感に怯えていると、隼が紗和の目を見据えて言った。
「紗和。別れよう」
「別れる……?」
紗和は耳を疑った。
「紗和、一生車椅子生活になるんだろ。俺、介護なんてやっぱり無理だ。紗和は実家に帰って、お袋さんと一緒に暮らせよ。その方がお互い幸せだ」
「そんな……困ってるときに助け合うのが夫婦じゃないの?」
「そんなの理想論さ」
絶句している紗和に隼は一枚の紙切れを突きつけた。
「俺の署名捺印はしてあるから」
じゃ……と、短くそれだけ言うと、隼は紗和に一瞥もくれることなく足早に病室を出て行った。
紗和が『離婚届』をただ呆然と見つめる。
「わああああああ……!!!」
泣いても泣いても涙は尽きなかった。
(どうして。隼。
あんなに上手くやっていたのに、私が厄介者になったから? 私がもう歩けないから……)
死にたい……そう思っても、今の紗和には満足に動くことさえ出来ない。
絶望のどん底に陥っていたその時。
「失礼します」
病室のドアを叩き、誰かが入室してきた。
「今日から池辺さんの────……やっぱり!? もしかして新庄? 新庄紗和か?」
「え……?」
その驚いたような声に顔を上げると
「俺だよ、俺! 植田だよ、新庄」
「植田君……?」
それは、紗和が高校時代、マネージャーをやっていたサッカー部の植田隆之だった。
「下の名前と誕生日が同じだから、ひょっとしてと思ったけど、まさかなあ」
「植田君……どうしてここに……」
「俺、ここの整形外科の理学療法士やってるんだ。今日から新庄の担当」
隆之は高校時代と同じように、爽やかに笑んだ。
しかし。
「……私。リハビリなんかやらない」
紗和は低く呟いていた。
「リハビリなんかやったって、どうせ歩けるようになんかならないんでしょ? 私は一生車椅子なんでしょ?!」
「そんなのお前の頑張り次第だよ。やってみなきゃわからない」
「私、やらないわ」
「どうして」
「私……、事故のせいで、こんな体になったせいで離婚されたのよ。生きている価値なんてないのよ!」
そう言って、紗和はまた声高に泣き出した。
「新庄」
隆之は紗和のベッドの端に座った。
「お前が自暴自棄になる気はわかるよ。でも、本当に頑張り次第でお前はまた歩けるようになるんだ。元の生活にも戻れるようになる」
「元の生活には戻れない……。隼は……私を見限って、私を捨てたんだもの」
「そいつがどんな奴かは知らないけど、そんな旦那のことなんか忘れて、新しい人生を生きろよ」
隆之の言葉はあくまで穏やかだった。
彼は右手を紗和の頭に当て、ポンポンと優しく叩く。
そんな隆之の態度に紗和はただ泣けた。
◇◆◇
それから───────
紗和の苦難の日々が始まった。
リハビリは単調にして、苦痛以外の何物でもない。
それでも、隆之は紗和に根気よく付き添い指導した。
そんな隆之に紗和はリハビリの苦しさから時に悪態をつき、時に弱音を吐いた。
「もうこんなの無理……! 歩けるどころか、ちっとも動けるようにならないじゃないっ!」
紗和がリハビリテーション室でヒステリックに叫ぶ。
「ちっともってことないよ。入院してきた頃はベッドから起き上がることも出来なかったじゃないか。それが今じゃ足もこれだけ動くようになった」
「そんな気休めは沢山! もう歩くどころか立ち上がることさえできないんだわ」
紗和が床に座り込んだまましゃくりあげながら、言った。
「もういいの……。仮に歩けるようになったとしたって、隼はもういないし。元の生活には戻れないんだから……」
「新庄……」
「もういいの」
ぽつりと呟いた紗和を隆之が穏やかに見つめた。
「じゃあ、新庄」
その時。
隆之はしゃがみ込み、紗和の目線の高さに合わせて言った。
「俺と結婚しろよ。してくれよ、新庄」
「え……?」
紗和は耳を疑った。
(今、なんて……。
なんて植田君は私に言ったの……)
「俺、高校時代、クラブのマネだったお前のこと本当は好きだったんだ。でも、あの頃は告白する勇気がなくて……。でも、大学も出て、ちゃんとした仕事も持って、家族を持てるくらいの甲斐性がある今なら言える。新庄、俺と結婚してくれ」
「で、でも植田君……。私、バツイチよ。それに働くことも家事をすることもできないどころか、あなたに迷惑をかけることしか……」
「小さくてもバリアフリーの家を建てるよ。車椅子で出来る家事をやってくれればいいし、迷惑なんかじゃない。それに新庄、いずれ歩けるようになるさ、絶対に」
隆之はやはり爽やかに笑う。
「それに新庄だったら。俺はいいんだ」
それはにわかには信じられない言葉だったけれど、隆之の瞳は優しく、紗和にとって不思議な確かさ、温かさを持っていた。
◇◆◇
院内でのリハビリ全般を終了し、退院して半年後の暖かい春の日。
紗和は隆之と再婚した。
赤いヴァージンロードの上を紗和の父・光男が紗和の車椅子を押す。神父の祭壇の前に来て、光男が隆之に一礼し退くと、隆之は紗和の隣に立った。
紗和は、ちゃんと紗和自身が選びに選んだ光沢のある生成色の長袖で控えめなAラインのシンプルなドレスを着て、涙ぐんでいる。
式は両家の家族とごく親しい少数の友人のみで祝う簡素なものではあったけれど無事執り行われ、紗和は充分幸せな第二の人生をスタートした。
◇◆◇
「隆くん。お弁当」
「ありがと。あんま無理するなよ」
「大丈夫。レンジでチンしたり楽してるから、このくらい」
紗和は穏やかに笑った。
「じゃあ、行くよ」
「気をつけてね」
車椅子の紗和の頭に軽く手を当てると、隆之は病院へと出かけていった。
それから、紗和は車椅子のまま簡単な家事を済ませ、午後は趣味のパッチワーク作りに励む。
元々手先は器用で、編み物や手芸などが小さい頃から得意だった紗和は、最近ではすっかりオリジナルのパッチワーク作りにのめり込んでいる。
ふとしたきっかけで出来た作品をインスタにあげると、徐々にフォロワーが広がった。
最近では動画収入もかなり入るし、車椅子でのパッチワーク制作活動生活を語る講演の依頼も精力的にこなす。
その一方で、リハビリにも熱心に励んでいた。
ほとんど全く動かなかった下半身も最近では、もう後少しで歩けるようになるまで回復してきていた。
◇◆◇
そんな或る日。
「ただいまー」
「お帰りなさい、隆くん」
車椅子で紗和が満面の笑みで隆之を出迎えた。
「お疲れ様。疲れたでしょ」
「仕事だからね」
そう言いながら、隆之はダイニング・テーブルに並んでいる料理を見て、少し驚いたような声を出した。
「俺の好きなパエリアじゃん。それにこんな手の込んだオードブル、作るの大変だったろ。その上、白のキャンティ? 何かあった?」
その隆之の問いに嬉しそうに紗和が笑んだ時。
紗和の携帯の着信が鳴った。
画面でその番号を見た瞬間、紗和は背中がゾッと震えた。
出るかどうか迷った。出たくはなかった。
しかし鳴り続ける呼び出し音に、とうとう紗和はスマホを取った。
「もしもし……」
『紗和? 俺』
それは、別れた元夫・隼だった。
『あのな。話あるんだ』
「私は話なんてない」
『そんな冷たいこと言うなよ。夫婦だったんだろ、俺達』
「そう、『だった』のよ。今は関係ないわ」
『悪かったよ。紗和」
妙に優しい声で隼は言った。
しかし、次の言葉は紗和には信じがたいものだった。
『やり直そう、俺達』
「やり直す……?」
『俺、考え直したんだ。紗和の面倒、俺が見るよ。だから、復縁しよう』
そのどこか薄っぺらい隼の言葉を、ただ呆れる思いで紗和は聞いていた。
「何、勝手なこと言ってるの? あなた、あの時、私に何て言ったか覚えてる? 車椅子生活の私の介護なんて無理って言ったのよ! 今更何言ってんの?!」
わなわなと紗和が震えていると、
「そうですよ、勝手なこと言わないでくれ」
「隆くん」
紗和の手から携帯を取り上げ、電話に出たのは隆之だった。
「池辺さん。あなた、今、事故で左膝を痛めて、満足に歩けないんでしょう?」
『な、なんでそれを?!』
「職業柄、患者の噂は聞くんですよ。素行の良くないリハビリ患者のね。どうせ、あんたのことだ。紗和がテレビや動画で活躍しているのを見て、当てにしようと思ったんだろう。そんな身勝手なことが通ると思っているのか? 着信拒否にするので、これ以上、紗和につきまとうようなら、ストーカーとして警察にも相談する。もう二度と紗和の目の前に現れるな!」
そう言うと、隆之は一方的に携帯を切った。
「隆くん……」
「そういうことだよ、紗和ちゃん。この番号は着拒にするし、もう心配は要らない」
優しく微笑む隆之に、紗和の目から涙が溢れてくる。
「あのね……隆くん……」
紗和は目をこすりながら、恥ずかしそうに俯いた。
「私、もう少しで歩けるようになると思うの」
「僕もそう思うよ。理学療法士の僕が言うんだから、間違いないよ」
「それでね……」
「何」
紗和は、思い切って車椅子から立ち上がろうとした。
「紗和ちゃん……?!」
隆之が転びそうになった紗和を慌てて抱き寄せる。
「無理はダメだよ、紗和ちゃん」
隆之が紗和を労るように言う。
「このくらい無理でも何でもないの。あのね。隆くん……」
隆之の胸の中で、紗和は幸せにこう告げていた。
”あのね……赤ちゃんができたの”
それは紗和が隆之と結婚して四年目の秋。
二人にとって待ち望んでいた天使だった。
本作は、柴野いずみ様主催「ざまぁ企画」参加作品でした。
参加させてくださった柴野さま、そしてお読みいただいた方、どうもありがとうございました。