プロローグ:かつての日常
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【2214/10/11 AM07:48 C県N市某通学路】
ふと、か細い鳴き声を聞いたような気がして、私は足を止めた。
「……猫?」
呟いた直後、再び鳴き声が聞こえた。蚊の羽音よりも小さな「みゃう」という可愛らしい声。間違いない、猫だ。さっきのは、気のせいではなかったのだ。
私は耳を澄ませて周囲を見回す。そう遠くはないはずだが、どこだろう。
道路標識、ごみ捨て場、立て看板……。陰になりそうな場所をあらかた探し終えたところで、ようやく私は鳴き声の出処に見当をつけた。
「あそこかな……、いた!」
道端に立てられた金網フェンスの付近。ぼうぼうと生い茂る雑草の群れに混じって、ゆらゆらと揺れている細長く黒いものがちらりと見えた。尻尾だ。
さっそく駆け寄り、身を屈めて間近に状況を確認してみれば、案の定小さなお尻がフェンスと地面の隙間に挟まっているのを発見することができた。
「あちゃー……、引っかかっちゃったのか」
どうやら、フェンスの下を潜り抜けようとして失敗したらしい。
黒猫は焦ったように鳴きながら身を捩ってもがくが、妙な具合にぴったりと身体が嵌ってしまったようで脱出は難しそうだ。必死に砂を掻く小さな前足がいじましい。よくよく見れば、黒猫はまだ子供のようだった。
「……かわいそうに」
助けよう。私がそう結論するまで、数秒もなかったように思う。
私は視線を巡らせ、通りがかる者がいないか探す。が、まだ朝早いこともあって周囲に人影はなく、表通りの方でときおり車の通行音がする程度。
つまり、誰かが道端に蹲っている私を見咎める可能性は低い。そう判断した私は自然と微笑んでいた。まったくもって、都合がいい。
何故ならば、私が求めたのは黒猫の窮状に手助けをしてくれる親切な大人ではなく、これから私がすることを誰にも目撃されないことであったから。
「ちょっと待ってね。今、助けてあげるから」
私は黒猫に一声をかけてから、フェンスが彼――もしくは彼女――の身体を挟み込んでいる部分に目を向けた。
狙うのは黒猫の身体から数センチほど離れた箇所だ。あまり遠すぎると後で目立って困るし、逆に近すぎると黒猫を傷付けかねない。大事なのは塩梅の見極めであり、また精密な力加減だった。
もっとも、私にとってはどちらもさほど難しいことではない。せいぜい、箸で豆粒をひとつ摘まむくらいの難易度だ。それでも気を抜かず、一点を見つめ、意識を集中し――
「…………、」
――私は力を使った。
途端、ぴん、と小さな音が鳴る。それと同時、フェンスの一部が切断された。私が注視していた箇所だ、寸分違わず狙い通り。私は頷き、次に取り掛かる。
「ほらほら、動かないでねー」
安心させるため黒猫の尻を撫でてやりながら、私はアーチ状の軌跡でフェンスを切り取っていく。その断面は極めて滑らかだ。まるで最初からそう成形されていたかのように。
やがて、数分もかからずに作業は終わる。フェンスは奇麗に切断され、黒猫が軽く身動ぎしただけでぽとりと地面に落ちた。直後、自分の身体が解放されたと知った黒猫は、私の手元をするりと抜け出して走り去っていく。
「あ」
と思ったら一度だけ振り返り、私を金色の瞳で見つめると、一声「みゃあ」と鳴いた。礼のつもりだろうか、律儀な猫だ。私が笑って手を振り返すと、黒猫は再び走り出し、そのままフェンスの先にあった公民館の植え込みへと姿を消した。
「いやあ、よかったよかった」
ともあれ、一件落着。よって次にすべきは証拠隠滅だ。
私は切り取られたフェンスを拾い上げ、背負っていたランドセルの中に仕舞い込む。後でプラスチックごみに混ぜて捨ててしまおう。フェンス本体の欠けた箇所は、草むらに紛れて人目にはつかないだろうからこのままでいい。今後は猫たち専用のトンネルとして大いに活用されることだろう。
「二次災害も防げるし、なによりだね」
独り言ちつつ立ち上がる。
幸い、作業をしている間に通りかかる者はなかった。私はほっとする。もしもフェンスを切断しているところを目撃されていたら、理解のない人には子供の悪戯として怒られていただろうし、それが仮に目端の利く人であったら……、
(気味悪がられてただろうから、ね)
苦笑。だってそれはそうだろう。手も触れず道具も使わないのに、ひとりでにフェンスが切断されていく様子など、傍目に見れば不気味でしかない。少なくとも、それが当たり前ではない人々にとってはなおさらに。
そう。私はほんのちょっとだけ、他の人たちとは違う。ほんのちょっとだけ、世間一般的な「当たり前」からは逸脱した力を身に付けている。
まあ、といっても、それは――
(……目で見たものに、ほんの小さな切れ込みを入れられる)
――言葉にすればこの程度の、まったく単純で、取るに足らないほど矮小なものでしかない。切れ込みの長さを定規で図ってみればたったの三センチだ。しかも、頭痛がするくらいに一生懸命に力んでも、それが限界なのである。
(……はっきりいって、しょぼいなあ)
しかし例えば「高層ビルを根元から圧し折れる」だとか「山を吹っ飛ばすような大嵐を起こせる」だとか「新幹線や飛行機よりも速く走ったり空を飛べる」だとか、そんなとんでもない力が欲しいわけではない。持て余すのが目に見えているし、だいいち恐ろしくってしょうがないからだ。
だから私はこれで十分。
漫画やアニメのキャラクターがするような、血沸き肉躍るような超能力バトルに対する憧れめいた感情がないわけではないけれど、やっぱり人には分不相応というものがある。なにより、この力が原因で“異常”として排斥されるのも嫌だった。
だから私はこの力を、友達はおろか親にさえ話したことがない。誰も知らない自分だけの“特別”として、ずっと秘密にし続けている。
(……さっきみたいな、小さな善いことをする以外では、だけど)
この力が誰かに与えられた“特別”なのだとしたら、私にはそれを正しく使う義務がある。そんな少しばかり格好つけた想いは、ヒーローや魔法少女の類には絶対になれない私の譲れないこだわりだ。運動も勉強も容姿にすら目立つ取り柄のない私が誰かの助けになれるなら、それはきっと素晴らしいことに違いないのだから。
(今日の人助け第一号は、子猫だったけどね)
人助けならぬ猫助け。いやいや、これだって立派な善行だ。あのままでは餓死したりカラスに襲われたり、そう考えると尊い命を救ったのかもしれないのだから、存分に胸を張るべきだろう。命に軽いも重いもないのだから。
……そんなことを考えていたら、キンコンカンコンと耳に馴染んだチャイムが聞こえた。慌ててポケットから児童用携帯端末を取り出し、時刻を確認してみれば、読み間違えようもないデジタル表示で午前八時。
「うわあ、遅刻だ!」
あれこれと物思いに耽っている間に随分と時間が過ぎてしまったようだ。
私は血相を変えて地を蹴り駆け出す。毎朝校門前に立っている生徒指導の先生は絵に描いたような堅物だ、猫を助けていたと釈明しても赦してくれないだろう。
「ひええ~~」
情けない声を漏らしながら、私はひたすらに走る。このときばかりは“テレポート”が身に付いていたら、とそんな益体もない願いを抱かずにはいられなかった。
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