シーン1:白昼の騒動
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【2223/04/14 PM01:12 T都S区アサギ商店街前】
「――イイから、さっさとカネとクルマをモってきやがれ!!」
錆びた金属片を擦るような甲高い叫び声が、壊れたラジオから発せられたような不安定な音律でもって、周囲一帯に響き渡った。
白昼堂々の駅前近く。人と車が活発に行き交う、統一性のない喧騒と猥雑な電子公告に塗れた繁華街での出来事だ。鈍色に沈んだ薄曇りの空の下、とある雑居ビルの玄関前付近が、黒山の人だかりでごった返している。
ビジネススーツ姿で簡易栄養食のパウチを持ったまま茫然とする男性や、買い物袋を吊り下げた小型ドローンを側に伴う中年女性。空間投影式のARディスプレイをバイザーめいて目元に貼り付けた若者グループや、乳白色の丸っこい旧世代知覚補助機を目と耳に付けた老人……。
老若男女問わず、また出で立ちも多種多様な群衆の視線は、こればかりは皆一様に、雑居ビルの三階部分へと向けられていた。正確には、大通りに面したその窓際で繰り広げられている騒動の様子へと。
「おるぁああッ!! ナめてんじゃねぇぞ、クソがッ!!」
窓枠から身を乗り出しているのは、おそらく若い男性だ。
痩せた体格をけばけばしい蛍光色のスポーツウェアで覆い、脱色した髪を鶏冠のように逆立て、顔全体に爬虫類の鱗めいた涙滴型のプラ素材を埋め込んでいる。
これは少し前に一部のストリート・ギャングの間で流行った自己表現なのだが、彼の場合は明らかにやりすぎだ。結果としてその顔面は蜥蜴人間とでも呼ぶべき奇怪な状態に成り果て、外見から実年齢を窺い知ることすら困難になっていた。
右手には拳銃。火薬式の六連装回転式だ。高熱閃光銃や荷電粒子銃が実用化された現代では、もはや博物館入りクラスの代物である。が、それが人を殺傷せしめるのに十分な威力を秘めた武器である事実は、依然として変わりない。
蜥蜴面の男は、その骨董品を駄々っ子のようにぶんぶんと振り回しながら、もう一度声を荒らげる。
「もうジュップンもタってんだぞ!! カップラーメンがミっつもツクれるじゃねぇか、ええおい、おマワりさんよ、てめぇらクソども!!」
ヒステリックな喚きに続いて、一発の銃声が空気を揺らした。
「……ヒトジチ、サンニンくらいノウテンぶちマけてミせなきゃ、オレがホンキだってことワからねぇか!? ああ!?」
乾いた発砲音と過激な発言内容に群衆はどよめくが、一方でこの場から立ち去ろうとはしない。むしろカメラ機能を起動した携帯電話を掲げる始末。誰ひとり、目の前にある危機感を、我がものとして捉えていなかった。
そして、そんな迷惑な野次馬たちを遠ざけようと必死に声を張り上げているのが、物々しい防護装備に身を固めた男たちだ。紺地の特殊防弾繊維の背中側、大きく染め抜かれた白の太字は「POLICE」。
つまるところ、これは立てこもり事件と呼ぶべきものであった。
「おい、要求された物の用意はまだなのか!?」「現在、本庁が手配中です! あと一時間もあれば……」「それじゃあ遅すぎる! だいたい特戦班の連中はどうした!?」「急行中ですが、渋滞に巻き込まれて……」「クソッ!」「野次馬どもをはやく遠ざけろ! 流れ弾が当たりかねん!」「立てこもり犯の身元照合はまだか!?」「周辺道路の封鎖、まだかかりそうです!」
HMD付きのスマートヘルメットの下で表情を緊迫させ軽量合金製の盾を構える機動隊員の間隙を、背広姿の刑事たちが慌ただしく駆け回りながら叫ぶように情報を交わし合う。現場は紛糾していた。事件発生からまだ間もなく、その状況推移が突発的であるため、完全に統制がとれていないのだ。
「立てこもり犯の身元、確認取れました!」
そんなとき、一人の制服警官が声を張り上げた。周囲の刑事たちが一斉に詰め寄り、彼が持つ電子端末に表示された情報を食い入るように見る。
「都内在住の無職、……違法麻薬の売人か!?」「道理でさっきから発言がイカれてるはずだ、なにが釈迦の生まれ変わりだよ!」「警邏中の職員から職務質問を受けた際に逃走、そのまま現場に突入して立てこもりを始めたようです」「誰だ、ンなヘマをしでかした馬鹿は!!」
雑多な情報は増えたが、肝心な部分はここからだ。刑事たちはさらに問う。
「それで、人質の数は!?」
「六人です!! ビルに入居してた歯医者、……今現場になってる場所ですが、そこに勤務してた歯科医と助手、診療中だった患者を合わせて計六人!!」
一呼吸をおいて、苦々しい声が続けた。
「……うち、小学生の女の子が一人!!」
「クソッ、なんてこった」
刑事たちが悪態を吐いた。
それが事実ならば、犯人確保の難易度は跳ね上がる。子供の体重は軽いので盾代わりには最適だし、万が一この現場から犯人が逃亡した場合は、そのまま引き続いて人質にされかねない。
「これで、ますます奴さんの要求を呑むわけにはいかなくなったな……。金はともかく逃走車両なんて与えてみろ、状況はさらに悪くなるぞ……」
切羽詰まった犯罪者は容易く倫理観をかなぐり捨てる。首尾よく逃走手段を手に入れた犯人は、間違いなく手土産に女の子を抱えていくだろう。
そうなれば迂闊な攻撃ができなくなる。直接的な射撃はもってのほか、例えばタイヤを狙撃しての逃走阻止すら、人質の安全を考えれば難しくなるのだ。
「説得が通じるような相手じゃねぇぞ、もう奴は激発寸前だ!」「どうします、一か八か狙撃を試みますか?」「手持ちの電撃拳銃でか? 馬鹿言ってんじゃねぇ」「だいたい向かいのビルから狙ったら一瞬でバレるっての」
この場に居合わせた警官たちは、付近の交番や警察署から駆け付けてきた一般職員が大半であり、こういった立てこもり事件は不慣れだった。専門の対応チームはいまだ現着しておらず、機動隊員は野次馬を流れ弾の危険から守るだけでほぼ手一杯になりつつある。
「……だが、やれるだけのことをやるしかねぇぞ」
警官たちが覚悟を決めつつあるなか、膠着状態に陥った現場で、さらに差し迫った問題が発生した。蜥蜴面の男が突然苛立たしげに頭を掻き毟ると、声を荒らげながら部屋の奥へ引っ込んだのだ。
「……あああああッ!! さっきからクソガキが、ナきワメいてうるっせぇんだよッ!! アタマにヒビくんだよ、ダマらせろよおい、ババア!! ちゃんとシツケろってんだよ!!」
直後、女性のくぐもった悲鳴が響いた。それと同時に、女の子の泣き声も。
現場が一気に緊迫する。女性の声は不明瞭ながらも「子供には手を出さないで」と聞き取るには十分であった。悪い予感が警官たちの脳裡を過る。
そして案の定、再び姿を現した立てこもり犯の腕には、まだ幼い女の子が抱えられていた。苦悶と驚愕に満ちた呻きが警官たちの口から漏れる。対し、蜥蜴面の男は女の子をこれ見よがしに衆目へ晒してから、一方的に言った。
「コケにしやがって!! もういい、もうマたねぇ!! イマすぐに、オレがヨウキュウしたモノをモってこい!! さもなきゃ、……このガキをぶっコロす!!」
事態は最悪の状況へと、急速に転がり落ちようとしていた。
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「……あれ、不味いかな」
現場からやや離れた路地の片隅にて、その呟きは発せられた。
無責任な熱狂に酔う野次馬の群れから、距離を置いて立つ一人の少女がいる。
歳の頃は十代後半。暗褐色のぱっちりと開いた瞳に、純血の日本人らしいやや幼い印象の顔立ちを、肩口までのウルフカットが覆っている。風にさらりと揺れた艶のある漆黒は、その裏側に鮮烈な真紅を潜ませていた。
服装は、幾何学模様が背に彫り込まれた黒のスタジャンに、白いブラウスと赤黒チェックのミニスカートを上下に着込み、腰後ろには座った猫のシルエットがプリントされた小型のポーチ。
取り立てて特徴のない出で立ちの中で唯一、鉢金めいて額当てした無骨なゴーグルだけがやけに目立っている。軽量薄型の複合式視覚装置だ。コンパクトな外見とは裏腹、多数の機能がその内部に詰め込まれている。
「不味いよね、どうにかしないと」
少女は確かめるように言うと、ゴーグルをおもむろに目元まで下げ、側面にある小さな丸ボタンを白く細やかな人差し指で押し込んだ。
すると、カメラレンズを絞り込むような微かな機動音が鳴り、ゴーグルの内側に淡い燐光が灯る。拡張された視覚情報を得た少女は「よし」と頷いた。
その様子を傍らで眺めていた恰幅のいい中年男性が、ふと興味深そうな表情になって少女に声をかける。
「おお、珍しいもの使ってるね、君」
「えっ、ああ、えっと、はい……」
横合いから突然そう言われ、少女は戸惑い気味に応じた。対し、中年男性は好奇心の方が勝っているのか、少女の迷惑そうな反応に構わず言葉を続ける。
「ちょっと古いけどそれ、軍の流出品だろ? 確か“MSG-3900”だ。通称“アウルⅢ”。よく手に入ったね、結構なレア物じゃないの?」
「……随分、詳しいんですね?」
「いやなに、ちょっとしたマニアでね、僕は」
中年男性は気恥ずかしそうに笑うと、どこか自慢げな口ぶりで“アウルⅢ”の性能について懇切丁寧な講釈を開始。それに適当な相槌を打ちつつ右から左へと聞き流し、少女は雑居ビルの三階部分――即ち、立てこもり事件の現場――を拡大した。
「うげっ」
視界いっぱいに大写しされた蜥蜴面の男に、思わず少女は声を漏らす。
ただでさえ人間離れした顔立ちは、薬物乱用の影響で血走った目と口端から垂れ流される泡立ったよだれも加わって、直視に堪えない凄まじい形相と化していた。
背筋を毛虫が這い上がるような嫌悪感を一呼吸で振り払い、少女は少しだけ視角を広げる。改めて確認した状況は、まさに一触即発の様相を呈していた。
「――おら、おらァ!? どうすんだよ、てめぇらがちんたらしてるから、このガキがシんじまうぜ!? それともミたいかよ、このアメダマみてぇなズガイコツがばらばらにハジけトんで、ノウミソぶちマけるところを!!」
蜥蜴面の男は正気を失いかけていた。彼は人質にとった女の子のこめかみに銃口を突き付けている。引き金にはすでに指がかかっていた。そこへわずかにでも力が加われば最後、幼い命が無残なかたちで奪われることになる。
一方、人質の女の子はぴくりとも身動ぎしない。
否、よく見ればその全身は小刻みに震えていた。
あどけない顔はいまや石のように強張って蒼白となり、見開かれた眼には絶望と恐怖の色がありありと滲んでいる。
色を失った小さな唇が紡ぐ言葉を読めば「おかあさん」であった。
「…………」
ゴーグルの奥、少女の双眸がわずかに細くなる。
警官たちは懸命に自制を呼びかけているが、極度の興奮状態にある蜥蜴面の男はまるで聞く耳をもたない。それどころかますますいきり立って、わけのわからない戯言を喚き散らすばかりだ。破滅は時間の問題であろう。
「ああ、あれ! 見てごらんよ、ほら!」
そこで不意に肩を揺すられ、少女は眉をひそめる。煩わしいので視線も返事も向けずにいると、傍らの中年男性は声を抑えて言った。
「ビルの四階、窓の辺り……」
わざわざ教えられるまでもなく、そこに数人の機動隊員がいつの間にか辿り着いている事実を、少女は認識していた。
そう、警官たちとてただ手を拱いていたわけではない。彼らは機動隊員から有志を募り強行突入の準備を整えていたのだ。
そして状況が抜き差しならぬものへ至ったことを悟り、立てこもり犯の注意が逸れている隙を突いて、慎重に接近したのである。
「あの男を確保するつもりなんだ……。上手く行くといいけれど……」
その危惧だけは、少女も同感だった。
蜥蜴面の男はまだ忍び寄る機動隊員の存在に気付いていないが、野次馬たちの視線がどこに向いているかを悟った瞬間、敵の接近を知るだろう。そうなれば一巻の終わり、人質の女の子は間違いなく殺される。
そうでなくとも、蜥蜴面の男がただ気まぐれに上を向いただけで作戦は呆気なく破綻する。制限時間は乏しく、勝算は限りなく低い。分が悪すぎる賭けだった。
そして衆人環視の最中、腰にロープを巻き付けた機動隊員が、とうとう意を決したように窓枠へと足を掛ける。空気が張り詰め、ほんの一瞬だけ、周辺一帯が不自然な静寂に包み込まれる。
「……なんだ、キュウにシズかになりやがった――」
それが、悪かった。
蜥蜴面の男の精神は薬物中毒と興奮で錯乱寸前まで至っていたが、危機察知能力を鈍らせるほど破綻してもいなかったのだ。彼はゆっくりと頭上を仰ぎ、そこに紺色の色彩を認めるが否や、喜悦と殺意で濁り切った叫びを迸らせた。
「――オレをダしヌけるとでもオモったのか、オオマヌけヤロウどもがッ!!」
蜥蜴面の男は、一切の躊躇なく、引き金を引き絞る。
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弾は、出なかった。
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「…………、は?」
呆けた声が漏れた。
「おい、……ンだよ、これ!?」
蜥蜴面の男は慌てて二度三度と繰り返し引き金を引くが、拳銃が作動する気配はなかった。
まさか故障か。こんな土壇場で。焦りと困惑に支配されかけた彼は、そこで気付く。トリガープルの感触が、やけに緩い。それどころか、まったく手応えがないのだ。まるで空気でも撫でるかのように。
そのとき、蜥蜴面の男の足元でかちゃりと軽い音が鳴った。
彼が咄嗟に視線を向ければ、小さな金属部品が床に落ちていた。
歪な三日月型をしたそれは、紛れもなく拳銃のトリガーパーツであった。
「おい、どういう……」
「おおォ――ッ!!」
彼が疑問を終いまで発することは赦されなかった。掴んだ窓枠を支点に、大きく空中で身を振りかぶった機動隊員の蹴りが、その無防備な胸部へ強烈な勢いで叩き込まれたために。
「げぅぶッ!?」
「総員、突入――ッ!!」
ヒキガエルが潰れたような声を発し、蜥蜴面の男が身体をくの字に折って吹っ飛ぶ。その直後に玄関ドアをぶち破り、怒りに燃える機動隊員たちが怒涛の勢いで室内へ雪崩れ込んだ。
「「「確保しろ、確保ォ――ッ!!」」」
警官たちは怒声を上げながら、卑劣な立てこもり犯を迅速に取り囲み、手にした電磁警棒を一斉に振り下ろす。大型の肉食獣さえ昏倒させる威力の電撃をまともに喰らった蜥蜴面の男は、悲鳴を上げることすらできずに意識を手放した。
床に頽れた蜥蜴面の男は抑え付けられ、その青白い手首には電子式手錠が掛けられる。この瞬間、勝敗は決した。警官たちが高らかに勝鬨を上げる。
「……犯人、確保ッ!!」
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「皆さん、安心してください! 犯人は確保しました、もう大丈夫です!」
薄暗い室内に響いた機動隊員の声が、これまで最悪の緊張状態に置かれていた人質たちの心に、ようやくの安堵をもたらした。
床にへたり込む中年の歯科医。抱き合って泣きだす白衣の女性たち。機動隊員へと首が千切れんばかりの勢いで頭を下げる青年。そして、何度も何度も娘の名を呼ぶ母と、その腕の中で泣き続ける女の子。
危機は去り、尊い命は欠けることなく守られた。
文句の付けようもない結末に誰もが喜びを噛み締める傍らで、窓際の床に一丁の回転拳銃が転げ落ちたまま放置されている。
それは蜥蜴面の男が、知り合いの伝手を辿って購入した中古品だった。
ただでさえ購入時から品質の怪しかったその拳銃は、これまでロクな点検をされてこなかった事実が明白な代物で、事件後に回収した鑑識も「金属疲労による部品断裂」という鑑定結果を下すことになる。
犯人の怠惰がむしろ幸いしたのだと、最終的には誰もがそう納得した。
しかし、ただ一点。
脱落したトリガーパーツの断裂面が、丁寧にやすり掛けでもしたようにひどく滑らかであったことについては、誰ひとりとして納得のいく理由を見出せなかった。
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「……そうか、人質は全員無事か!! よくやった!!」
地上側。吉報を受け取った刑事たちが、天も割れよとばかりの歓声を上げた。
彼らはさきほどまでの沈痛な面持ちが嘘のように意気揚々と、喜び勇んで現場へ駆け込んでいく。そうして数分後、無事に解放された六人の人質を伴って現れた彼らに、群衆からは惜しみない賞賛の拍手が送られた。
「いや、よかった!! よかったなあ!!」
あのマニア気質の中年男性も、すっかり感動した面持ちで拍手を行っていた。
一時はどうなることかと思ったが、こうして無事に解決してみれば、手に汗握る素晴らしいエンターテインメントのようなものだ。見事なハッピーエンドと言うべきであろう……。
そんなことを考えつつ、彼はこの貴重な体験を語り合おうとあの“アウルⅢ”の少女を探したが、いつの間にか彼女は忽然と姿を消してしまっていた。
「おや、どこに行ったんだろう……」
かすかな残念を感じつつも、結局この中年男性はあまり頓着しなかった。彼の興味はすでに目の前で起きた「奇跡の救出劇」へ移っていたからだ。
そうして、興奮冷めやらぬうちに近場の酒場に入った中年男性は、そこで同じ体験を共有する仲間と意気投合するうち、ほとんど言葉を交わすことのなかった名前すら知らない少女の顔など、すっかり忘れてしまった。
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