シーン3:打ちのめされて、走り出す
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【2223/05/03 AM01:45 T都C区カワラケ通り交番】
今日は間違いなく人生最悪の日だ。空になったプラスチック容器を前に項垂れながら、セルジアは本日一番の大きな嘆息を吐き出した。
「……なんで、こんなことになっちゃったのかな」
蚊が鳴くような弱々しい声が畳敷きの室内に響く。
セルジアは今、交番内の仮泊設備にいた。
部屋の隅には畳まれた布団と小型の電子ロッカー、そして非常呼び出し用のベルが置かれているだけの、極めて簡素な誂えの空間だ。
こんな殺風景な所に寝泊りしなくてはならないのだから、さぞかし警察官とは大変な仕事なのだろうと少しぼやけた頭で考えつつ、セルジアは路地裏を脱出してからの出来事を思い出す。
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……思いもよらぬ幸運のおかげで、ならず者たちの魔の手から逃れたその後、セルジアはどうにか手近な交番にまで辿り着くことができた。
驚きと憐れみの視線を注ぐ人々を押し退けながら、息せき切って市街を駆け抜けたセルジアが、奇麗に磨かれた自動ドアを突き破るような勢いでくぐったとき、受付カウンターの奥に腰掛けていた初老の警察官はひどく驚いた様子を見せた。
無論、髪を振り乱し涙で顔中を濡らした裸足の女性が、意味不明な言葉を喚きながら突然飛び込んできたのだから無理もないのだが。
しかしそこは流石に職掌柄、セルジアがなんらかの事件に巻き込まれたのだと即座に理解した彼は、決して慌てることなく急いで対応を始めてくれた。
セルジアは勧められた椅子へ崩れ落ちるように腰を下ろし、そこから数分間ほとんどパニック状態で過ごした。見かねた初老の警察官が鎮静剤を打ち込んでくれなければ、恐らくずっとそのままだったろう。
ようやくある程度まともな受け答えが可能になったセルジアは、初老の警察官が呼んできた若い婦人警官に、しどろもどろになりながらこれまでの出来事を説明した。そして、かのならず者たちに正当な法の裁きと、自身が受けた精神面および肉体面における傷の補償をさせたい旨を必死に訴えた。
しかし、セルジアの要領を得ない話を辛抱強く聞き終えた若い婦人警官は、気の毒そうな顔つきでこう言ったのだ。
「残念ですが、我々にはどうすることもできません」
セルジアは素早く「どういうことか」と若い婦人警官を問い詰めた。
鎮静剤の作用のため興奮状態に陥るようなことはなかったものの、必ずやなんらかの救済を得られると考えていた彼女は、その期待を裏切られた驚愕と混乱に顔を引きつらせていた。
対し、若い婦人警官は至って冷静に応じた。
「今回、三納代さまが被害に遭われたのは、いわゆる“裏社会”が支配する領域内です。そこでは我々が普段用いている法律が通用しない秩序がすでに築かれており、警察といえども不用意に踏み込むには大変な危険と労力が伴うのですよ」
「秩序ですって? そんな馬鹿なことがある? 奴らは卑劣な犯罪者なのよ、それを裁けないのならば、いったい何のための法律と警察なの?」
「その点について、我々も大変心苦しく感じていますが、現実はそう容易にはいかないのです。まず三納代さまにご理解いただきたいのは、あの場所が一種の“治外法権”にあるということ。そして、その仕組みを強引に変えたり破壊しようとすれば、我々が普段暮らす側の社会に必ずや多大な被害がもたらされることです」
若い婦人警官はあくまで淡々と、むしろ聞き分けのない子供を諭すような口調で、現代社会に対してあまりにも無知なセルジアへと言い聞かせる。
「よろしいですか、三納代さま。あそこはもはや日本国であって日本国ではないのです。我々の良識や価値観が一切通じないどころか、むしろその思い違いを餌にして生きる魑魅魍魎の類が身を潜める藪の中なのです。もしそれを下手に突いてしまえば、怒り狂ったならず者たちが後先も考えずに暴れ回るでしょう。故に我々にできることは、その境界線が破られぬように保つことだけなのです」
一息を挟み、続ける。
「ましてや、本日は遊説に訪れる萱月潤三氏の周辺警戒のため、ほとんどの人員が出払っている状態です。そのため誠に申し訳ないのですが、三納代さまを襲撃した者たちの追跡および捕縛に対して、人員を割くことは難しいとお伝えしなければなりません。お力添えができないことを、心よりお詫び申し上げます」
セルジアは茫然としてその言葉を聞き、ややあってから問うた。
「……つまりアタシは、そんな危険地帯にのこのこ迷い込んだ馬鹿女で、そこで起きたことも自業自得でしかないって、貴女はそう言いたいのね?」
刺々しい台詞を真正面から浴びせられた若い婦人警官は、肯定と否定のいずれも返すことはなく、ただ黙って浅く目を伏せた。そこでセルジアは気付いた。目の前にいる存在が精巧に造られた人形である事実に。
「貴女、自立人形?」
「はい、三納代さま」
返答にはわずかな間さえなかった。若い婦人警官の形をした自立人形は、極めて滑らかな表情と口調で以てセルジアを欺いていたのだ。
否、よくよく見れば無機質な光を湛えるその目元には、彼女が人工物である証拠の製造番号のバーコードがくっきりと印字されている。人間に近い姿をしたロボットは、このような記号の表示が法律で義務付けられている。それを見落としたのはセルジア側の問題であろう。
「……そう、分かったわ」
セルジアは了解した。これ以上の助けを彼らから得るのが、どうやら不可能らしいということを。そんな落胆を自立人形は読み取ったのか、聴き心地だけは良い落ち着いた声を発した。
「この一件に関しては必ず本部へと報告し、市街警邏の回数および密度を強化すると約束致します。また、今回三納代さまが遭われました被害に関しても、できる限りのサポートをさせていただきたいと思います」
サポート。ひどく空々しい響きを伴ったその言葉に、セルジアは苦い笑みを零した。すべてはとっくに終わってしまったことだ。今更になって取り返しのつくようなものは、もうなにひとつとして残されていない。
それでも一応、いつの間にか失くしてしまった手提げ鞄を探せるかどうかを訊ねてみれば、忠実なる人間の僕は「捜索には全力を尽くします」と宣った。
「市街を巡回中のロボットが、条件に該当する物品を発見しているかどうか、まずはこれから問い合わせてみます。少々お待ちください」
「別にいいわ、急がなくても。どうせ、化粧品とか生理用品くらいしか入れてなかったし、後で買い直せば済むから」
どこかへと向かおうとする自立人形を、セルジアはそう言って止めた。
実際、あの手提げ鞄は「あの男」にプレゼントされたそこそこの高級品だったし、私物の他には今日渡そうと思っていたプレゼントも入れてあったのだが、もはやそれらは価値を失ったものだ。惜しいとは微塵も思わない。
「……電子通貨や身分証明書、交通パスとかは全部スマホに入ってるし」
スマホを手提げ鞄には入れずにいたのは、まさしく不幸中の幸いと言うべきだろう。都市部を歩くときの用心として、財布やスマホは他人の目に付かない場所に忍ばせておいたほうが良いという父親からのアドバイスをセルジアは守り、太腿に巻いた専用のホルダーに収納していたのだ。
カジュアルドレスのスリットから手を差し込み、感触を確かめてから引き抜いてみれば、あれだけ激しく動いた後にも関わらずスマホは傷ひとつなかった。
「そうね、もしも見つかったら、報せてくれればそれでいいわ」
「了解しました。ご自宅に郵送することも可能ですが」
「そこまでしなくていいわよ。なんなら、そっちで処分してもらっても構わないくらい。あんなの、正直に言えば、もう二度と見たくないし」
自立人形は訝しげに首を傾げた。セルジアが経験した最悪の失恋劇について、彼女が知る由もないのだから、当然の反応というべきだろうが。
それからセルジアは交番内のトイレを借りようと思い、自立人形に肩を支えられて洗面所まで来たところで耐え切れずに吐いた。
「大丈夫ですか、三納代さま」
洗面台にぶちまけられた――ほとんど胃液だけの――吐瀉物に自立人形は些かの動揺も見せず、むしろセルジアを気遣った。酔漢の対応にも慣れているのだろう。
背中を優しく擦られながら、セルジアは鏡に映る自分の無様な姿を見る。ひどく乱れた髪と、血の気を失った青白い顔に、死人めいて淀んだ瞳。メイクは涙で溶けて斑模様を作り、せっかくの衣服はあちこちが千切れ解れている。
敗残者。そんな形容詞が脳裡を過り、セルジアは引き笑いを漏らしながら、その場にへたり込んで泣いた。哀れな女に、自立人形は黙って寄り添い続けた。
しばらくして、セルジアがある程度の落ち着きを取り戻した頃、コンビニ袋を両手に提げた初老の警察官が戻ってきた。セルジアの対応を自立人形に任せ、自分は昼食を買いに行っていたらしい。
なんて無責任な警察官だ。そう思いかけたセルジアはしかし、彼が気まずそうな顔でコンビニ袋を差し出したとき、それが邪推であったことを知った。
「なるべく胃に優しそうなやつを、選んできたけれど……」
受け取ってみれば、半熟卵が乗ったうどんだった。すでに温められている。湯気と共に立ち昇る出汁の香りに、ようやく空腹を思い出したセルジアはありがたくそれを頂くことにし、仮泊設備の一角を借りてゆっくり時間をかけて食べた。
そうして、今に至る。
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胃が温まり、空腹が解消されれば、自然と感情も穏やかになってくるものだ。短い回想を終えたセルジアは再び溜息を零すが、先ほどに比べると幾分か込められた感情は軽くなっていた。
「これから、どうしよう」
本日何度目かの自問。
とはいえ、答えはほとんど決まっている。
あんな目に遭った以上、これから楽しく街を練り歩こうなどとは到底思えない。さっさと寮に帰って、シャワーを浴びて、そのまま泥のように眠りたかった。
「帰ろう」
口に出してみれば、思考は定まる。セルジアは腰を上げた。
そうして洗面所で可能な限り身なりを整えてから、事件についての簡単な書類記入と改めての事情聴取を済ませ、履き古しのサンダルを借りて交番を出た。
「帰ってから配送してくれれば、それで良いからね」
初老の警察官はそう言ってくれた。世話になった彼と自立人形に深々と頭を下げ、セルジアは交番を後にする。その足取りは決して軽くはないが、少なくとも帰路を辿るだけの体力は戻っていた。
が、そんなセルジアの行く手を阻むように、ここで新たな問題が浮上する。道がひどく混雑しているのだ。数時間前と比較しても、人口密度はおおよそ二倍近くに膨れ上がっているように見える。
「ええ、なんで……」
セルジアは困惑しかけ、ふと原因に思い当たる。萱月潤三の遊説だ。
時刻を確認してみれば、演説が始まるまでは残り五分とない。タイミングとしては最悪だ。これからますます混み合うであろう市街を、人の流れに逆らって突っ切っていくのは、体力的にも精神的にも躊躇われる。
「ほんとツイてないな、アタシ……」
こうなると、選択肢は限られてくる。演説が終わるまでどこかで時間を潰すか、往路とは別のルートを辿って帰宅するかだ。
しかし生憎、手近な喫茶店やファストフード店はすべて満員のようだし、デパートで買い物を楽しむような気分にもなれない。カラオケやゲームセンターは論外だ。元々あまり好きではないし、トラブルに巻き込まれる恐れもある。
かと言って別のルートを探そうにも、周囲は見渡す限り黒山の人だかり。あの中に悪意を孕んだ何者かが潜んでいるのではないかと考えただけで、身が竦んでしまって動けなくなりそうだった。
(……これ、完全にトラウマになってるな、アタシ)
セルジアは身震いする。たった一日で、自分の現代社会に対する認識は大きく変容してしまった。これから夜道を歩くたび、あるいはふと路地裏が視線に入るたび、あの悍ましい記憶が脳裏をチラつくのかと思うと吐き気がした。
「サイアクだよ、もう……」
心細い。人目がなければ、蹲ってしまいそうだった。
一瞬、先ほどの交番に戻ろうかとも考えたが、止めた。
あの二人ならセルジアを邪険にせず、混雑が落ち着くまでいくらでも身を置かせてくれるだろうが、だからこそ居た堪れないという感情もある。
それに、まだしばらく留まっていた方が良いと心配してくれる初老の警察官に「早く帰りたいし、これ以上の迷惑はかけられない」と変な意地を張って出てきてしまった手前、のこのこ戻るのはなんとも気まずい。
こうなったらと一縷の望みを託し、周辺を巡回する無人送迎車を呼び寄せるためのアプリを起動してみるも、生憎ながらそのすべてが「使用中」であった。予約も立て込んでおり、十分やそこらではセルジアの番が巡ってこないのは明らかだ。
「ああ、もう……! 勘弁してよ……!」
八方塞がりな状況に、セルジアは思わず苛立ちを露わにした。
視界を埋め尽くす全員が敵に思える。もしも自分に漫画やアニメのキャラクターのようなスーパーパワーがあるならば、有象無象を片っ端から吹っ飛ばして自分だけが歩ける道を作ってやるのに。
そんな益体もない考えを抱きつつ、通行人を射抜くような視線で睨んでいたセルジアの視線が、不意にある一点で留まる。すると、それまで苛立ちと不安に占められていた彼女の表情が、見る見るうちに新鮮な驚きへと変わっていった。
「あそこに居るのって」
ぽつりと零れた言葉が指す対象。それはスマホを耳に当て、なにやら話し込んでいる、一人の少女だった。
額に薄型のゴーグルを当て、背に幾何学模様の彫り込まれたスタジャンを着込み、髪型は深紅のインナーカラーを入れたウルフカット。
セルジアはその少女を知っていた。服装や髪型は記憶にあるものと異なっているが、生来の顔立ちはほとんど変わっていない。
ぱっちりと開いた暗褐色の瞳と、どこか幼さのある頬から顎へかけてのラインは、紛れもなく――
「……閃奈?」
――かつて中学時代、自分の後輩であった裁糸閃奈に違いなかった。
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「なんで、ここに閃奈が……」
セルジアは戸惑いと共に、強烈な懐かしさが胸に込み上がってくるのを感じた。
閃奈は一学年下の後輩だ。付き合いそのものは中学時代の二年間だけだったが、同じく文芸部に入っていたことに加え、家が近いことや読み物の趣味が似ていたことから随分と仲良くしていた。心優しく朗らかで、常に生き生きとした笑顔を浮かべているような、そんな子だったのを強く憶えている。
見間違いではないか。孤独に苛まれた自分の心が生み出した幻想ではないか。そう思ったセルジアは目を皿のようにして件の人物を見つめるが、やはりどこからどう見ても彼女は「閃奈だ」った。
確信が胸に落ちると同時、セルジアが抱いていた懐かしさは、強度はそのままに溢れんばかりの歓喜へと変わった。それは旧友との再会という純粋な喜びが、ろくでもないことばかりの一日に差し込んだ、一筋の希望にも思えたからだ。
(うそ、すごい偶然! うわ、うわ、なんかめちゃくちゃ嬉しい!)
これまでの反動からか、セルジアは躁状態にも等しい興奮を得る。
直後、固く閉ざされていたはずの記憶の扉が開き、彼女との楽しい想い出が奔流となって脳裡を駆け巡った。
初めて文芸部の部室を閃奈が訪ねてきた日、はにかんだ表情で「三納代先輩」と呼んでくれたときのこと。好きな作家の新作を競うように読み合って、その感想を人目も憚らず言い合ったときのこと。帰り道に喫茶店に寄って、一緒にやたらと巨大なパフェを食べたときのこと。部活動の合宿で出かけた小旅行で、一緒に道に迷ってへとへとになったときのこと。
そしてなにより、中学校の卒業式で「絶対に先輩と同じ高校に入る」と涙ながらに送り出してくれた彼女と、再会を誓い合ったときのこと……。
胸中にばら撒かれたセピア色の写真めいた情景は、ひとつひとつを吟味するたびに鮮やかな色を取り戻し、セルジアの心を当時へと誘う。穏やかな感情がささくれ立った心を包み込み癒していくのを彼女は実感した。
もはや居ても立っても居られない。セルジアは喜色を満面に浮かべ、閃奈の元へと駆け寄ろうとした。が、それよりも早く閃奈はスマホを仕舞うと、妙に冷めた顔つきで歩き出した。
否、いっそ「酷薄」とでも評したほうが正しいような、鋭い表情で。
(え……?)
セルジアは狼狽え、思わず足を止めた。
今のはなんだ。あのいつも笑っていた閃奈が、あんな氷像めいた顔をするなんて。記憶の中の彼女と到底結びつかない印象が、セルジアにひどい違和感を与えた。そして、そうこうしているうちに、閃奈はどんどん行ってしまう。
「ま、待って! 閃奈!」
セルジアの放った呼びかけは届かず、喧騒に飲み込まれた。閃奈はこちらに気付かず、雑踏の中へと身を溶け込ませてしまう。去っていく。
セルジアは咄嗟に後輩を追いかけようとするも、立ちはだかる圧倒的な人波を前に逡巡してしまった。路地裏で刻み付けられた恐怖が頭をもたげ、躊躇いが両足を地面に縫い付ける。背中を冷や汗が伝い、意気を挫こうとする。
(……やっぱり)
諦めて、帰ろうか。そんな意気地のなさを、最終的にセルジアは振り払った。粘着くようなアスファルトから足の裏を剥がし、蹴り付け、走り出す。
セルジアにはどうしても閃奈に訊ねたいことがあった。それは彼女が高校進学の直後に姿を消し、あまつさえ音信不通になってしまった、その理由についてだ。
それを訊くまでは帰れない。使命感にも似た、あるいは執着とも呼ぶべき感情が、現実に打ちのめされた彼女を奮い立たせていた。一度は途切れた縁が、濁流に押し流される途中で見つけた、光り輝く蜘蛛の糸であるかのようにさえ思って。
しかし、セルジアはなにも知らない。閃奈の身に起きた事件も、それから彼女がどんな境遇に陥り、果てにどのような生き方を選択したかを。
そして当然ながら、これから彼女が、なにを行おうとしているのかも……。
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