プロローグ:夜の静寂と波の音
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この力が誰かに与えられた“特別”なのだとしたら、私にはそれを正しく使う義務がある。その想いだけは今も変わっていないと信じている。
そう。例えばこの手がすでに滴り落ちるほどの血に塗れ、その匂いがどれだけ洗っても落ちないほど、骨の髄にまで染みついてしまっているのだとしても。
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【2220/06/21 PM11:37 S県M市ウスベニ埠頭跡地】
今、私の目の前には死体がある。
辺りはほぼ完全な暗闇に沈んでいた。
光源といえばひどく古びた照明器具のみ。
羽虫と甲虫がぶんぶん集る寿命間近の蛍光灯――LED照明が主流となった現代では絶滅危惧種に等しい――の頼りない光が明滅し、私が立っている場所とその周囲だけをスポットライトのように丸く切り取って明々と浮き上がらせている。
まるで舞台演出だ。そんなことをぼんやり考えた。悪趣味だな、とも。
左手側には海がある。
かつて日本海と呼ばれ、二十二世紀の中頃に激化した大陸戦線の煽りを受けて生じた数々の領土問題によって、幾度もその名称を変えてきた海だ。
が、それを今肉眼で見ることはできない。濃密な夜の闇が視界を遮っている。
重々しい漆黒に塗り込められた巨大な壁が聳え立ち、あちらとこちらを隔絶しているのだ。まるで人との関りを阻もうとするかのように。
故に大海原の存在を感じられるのは、嗅覚と味覚と聴覚だけ。
舌を出せば塩辛く金属的な味を感じるほどの粘るような潮風が沖合からやってきて、それに合わせて深い波の音が規則正しいテンポで夜の静寂を揺らす。
そして、そのすべてに対して無縁とばかり線を引くように、長年放置されてすっかり枯れ果てた船渠の脇に取り残された赤錆だらけの倉庫前で、私は死体を前に立ち尽くしている。
死体は中年の男だ。
両の目はとっくに光を失って白く濁り、半開きのまま固まった口の中は乾ききっている。鼓動と脈拍は途絶え、肌は温度と張りと水気をなくし、全身を糸の切れた人形のように脱力させて、ざらりとしたコンクリートの上に横たわっていた。
死体。つい十分ほど前までは生きて立って喋っていた、人間の成れの果て。私が殺したことで生まれた、ものいわぬ物体。……いやいや、死体が生まれるという表現は、諧謔としても少しばかり趣味が悪すぎやしないか。
「ねえ、どう思う?」
問いかけに応えはない。まあ、当然といえば当然だった。
死の間際に浮かべていた驚愕と恐怖の表情をそのままに、死体は微動だにせず仰向けで、潮の匂いが濃い夜風に吹かれている。
なんとなく、目を合わせてみようかと思ったが、やめておいた。万が一にでもその濁った瞳に写り込む自分の姿を見てしまったら、明日の朝食を食べるときに、あまり愉快ではないことを色々と思い出してしまうだろうから。
(……もうどこにも逃げ場がないって理解した人間が最期にどんな表情をするのか、まさかこんなところで知るなんてね)
皮肉と言えばこれ以上のものはないだろう。きっとそれは、私自身があの時に浮かべていた表情なのだろうから。だとすれば、私はある意味でもう一人の私というべき可能性を、殺したのだろうか。
(……いやいや、流石にこんな脂ぎってないって、私)
嘆息。考えれば考えるほど不毛だ。殺した相手と自分の共通点を探るなんて、手遅れを通り越して終わっている。文字通り、生産性がない。
なので、代わりに彼の身体を見ることにする。
見る限り、どこにも傷はない。外見上は奇麗なものだ。せいぜい、一目で上等なブランド物と分かるスーツの裾が僅かに擦れている程度。地面に倒れ込んだときについたものだろう。しかしカフスボタンのひとつさえ、失われてはいないのだ。
すべてが揃っている。
命だけが欠けている。
私が、それを奪った。
「……駄目だなあ」
ふと、笑う。
「罪悪感とか、全然湧いてこないや」
吐きたくなったり、あるいは泣いてしまうかもと思っていたが、そんなことはまったくなかった。寒々しいほどの空虚さだけが全身を巡るようで、ひどく呆気ない心持ちでしかない。
私はこの死体がどういう人間だったかを知らない。
生前の彼がどんな性格で、どんな趣味嗜好で、どんな人生を歩んできたのかについてもたいして詳しくない。声と表情と職業について、実地で見聞きした程度だ。
(そんな人間を、私は花でも摘み取るように、殺した)
一応、彼が間違いなく「悪人」であったと、私は判断できる。
彼はいわゆるマフィアだ。罪なき人々を数多く暴力と脅迫で苦しめ怯えさせ、麻薬を売ったり武器を売ったり孤児を売ったりして得た利権で豊かな生活を確立していた、正真正銘の外道と呼ぶべき存在だ。
もちろん、それを「私が彼を殺した」という行為の免罪符にはできないだろう。ただ、同情がひとかけらも生まれないというだけのこと。
死ぬべき人間だった。そんな単語がすとんと胸に落ちる。
「初めて、なのになあ……」
言って、苦笑。正確には二度目だった。
もっとも、一度目のそれは衝動的にやってしまった行為なので、記憶としてはだいぶおぼろげだ。当時は諸々の悪因が重なってひどい錯乱状態にも陥っていたし、正直に言うと、相手の顔すらもう憶えていない。
まあ、それも仕方がないだろう。肩を竦め、ふと空を見上げれば、漆黒のキャンバスに散りばめられた数多の瞬きが、視界の端までを埋め尽くしていた。
「おお……」
果てしなく広がる星の海に圧倒され、私は思わず感嘆の吐息を漏らした。こればかりは都会に引きこもっている限りけっして見ることのできない景色だろう。
……もっとも、星明りに見えるものの数割近くは、各国が競って打ち上げた軍事衛星が放つ瞬きであり、それらは監視や攻撃など情緒の欠片もない目的のために使用されているのだが。
宇宙開発競争は激化する地上の争いのために停滞し、数百年前には「人類共通の夢」と語られていた月面開発や火星のテラフォーミングも、結局は遅々として進まぬままだ。それを可能とするだけの高度な科学技術はすべて他者を蹴落とし葬るために転用されているのが昨今の世界情勢の現実である。
ただそれでも、広い世界にひとりきり、のような気分は悪くない。
「すぅ、……げっほ!? うぇっ!?」
解放的な雰囲気につられて深呼吸をすると、喉奥に強烈ないがらっぽさを感じて嘔吐いてしまう。というかひどく生臭い。当たり前だが、海が近いせいだ。迂闊なことをしてしまった。
「生命の大いなる母は生臭かった、と」
涙目になりながら私は呟く。それとも、それが生きるということなのだろうか。
「生臭かったもんな、この人」
思う。私も彼と同じように、生臭いのだろうか、と。
ちょっとだけ不安になって服の袖を嗅いでみる。
洗剤の淡い匂いと、汗の饐えた匂いがした。
血の匂いは、しなかった。
「……帰ったらすぐ、お風呂入ろう」
予定は決まった。あとは迎えを待つだけだ。私はエゴと偽りに浸食された満天の星空の下、死体を前に立ち尽くす。
相変わらず風は生臭い。この星が宇宙の片隅に誕生して以来、変わらず在り続けた海という場が、あらゆる生命が垂れ流してきた汚濁を溶かし込み蓄えてきたことを証明するかのように。あまり長居すると匂いが染みついてしまいそうだ。
「磯臭いのは嫌だなあ……」
独り言ちたとき、波の音に交じって、微かな駆動音が聞こえた。
そちらを向けば、控えめなヘッドライトの明かりが近づいてくる。
迎えの車だ。私は頷き歩き出す。それに乗り込んで、家に帰るため。
明日はいい日に、せめて奇麗な青空に晴れるといいな、と祈りながら。
……ちなみに申し遅れたが、私の職業は「殺し屋」だ。
この日、少し前に、そうなった。
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