第6節 鴨草足村の人々(1)
村の外へ初めて冒険に出た次の日、私は高熱で寝込んでしまいました。こんな田舎ですから、大きな病院なんてどこにもなく、町の隅に小さな診療所が一つあるくらいです。鼻のあたりがむずむずして喉も痛く、その日は布団の中に潜り込んでボーっとしていました。時々浅い眠りに入り、夢を見るのです。あの町の寂しく、息苦しい灰色の雰囲気がずっと忘れられません。
しかし、その次の日には何事もなかったかのように私は家の廊下を走り回っていました。
「薫。病み上がりなんだからじっとしてなさい。」
「もう大丈夫だってば。」
母が洗濯を干しながら心配そうに叫びますが、私は気にせずにモップを持って洗面台から窓辺へと往復します。今日はお掃除デイなのです。
「ふんふふーん。」
「……もう。」
私がご機嫌に鼻歌を口ずさみながら高い位置にある小窓にモップを伸ばします。その姿を見て言っても聞かない頑固者だと判断したのか、母は仕方なさげに笑ってハンガーに青い衣服をかけました。
確かに母の言う通り、今日も安静にしていた方がいいのかもしれません。しかし、言いつけを破った罪悪感がずっと心の中に残り、一刻も早く清算したいと真面目な私が囃し立てるのです。もし、トンネルの向こう側が私や子供たちが想像していたような夢に溢れる鏡の国の世界だとしたらこんな風には思わなかったんでしょうけどね。
「薫ー!」
「なーに?」
「玄関先にお客さんが来てるわよ。」
こんな朝早くから一体誰でしょうか?
私はスリッパを履いてバルコニーに出ると、手すりに手をかけて下を見下ろしました。すると、家の正面から顔だけトーテムポールのように突き出した可愛らしい少年たちが見えました。
「行ってらっしゃい。」
「うん。」
今日はお手伝いの日にしようかと思っていましたが、来客が待っているとなると話は別です。それに彼らはVIP。仮に気分を慨するようなことがあれば容易に隊長に反逆するのですから扱いは慎重にならねばなりません。
「おはよう。今日はどうしたの?」
昨日の冒険のことを聞きたいのでしょう。妙にそわそわとした兄弟に私は白々しく微笑むと、一郎は年上らしく順序を踏んで、次郎は子供らしく無邪気に私に尋ねます。
「薫姉、今日忙しい?」
「不治の病で死んじゃった?」
「忙しくないし死んでないよ。」
次郎……時々ごく自然と恐ろしい発言をする子です。
さて、私はこの好奇心溢れる小さな少年たちの求めるがままに真実を伝えてもいいものなのか迷ってしまいました。あのトンネルの向こう側にあったのは私や少年たちが期待するものではなかったのです。
無数にヒビが入った地面。生臭い匂い。倒れた支柱。誰もいない町はここよりもずっと気温が高く、むしむしして気持ちが悪かった。
「えっと……実は行けなかったんだ。途中でトンネルが崩れててさ。あははは。」
「えー。」
「えー。」
私は咄嗟に嘘をついてしまいました。
この子たちの夢を壊してはいけない、そう感じたのです。
一郎も次郎もがっかりしてふらふらと地面に倒れ込みました。でも、きっと私が夢なんて信じない冷徹非常な人間だったとしても同じように嘘をついたと思います。
ふと思いました。
ひょっとして大人たちがトンネルの向こう側に何があるのか教えてくれなかったのは、私の夢を壊したくなかったからなんでしょうか。そう思うとそんな気もしますし、何だか違う気もしました。
「残念。」
「ごめんね。」
そっと一郎と次郎の頭に手を乗せて頭を撫でました。さらっとした一郎の髪とぼさぼさ寝癖のままの次郎の髪は対照的で少し温かく感じました。
そろそろ聞いてみましょうか。私の回答を聞いて彼らがそんなに落胆しきっていない理由を。
「何だか少し嬉しそうだね。」
「うん。」
「あのねあのね!」
子供というのは単純なもので、次々に興味の対象が移ります。どうやら私が熱で寝込んでいる間に次のターゲットを見つけたようです。一体今度はどんなことに白羽の矢が立ったのでしょう?
「猫がいたんだっ!」
「……え?」
猫……彼がそう呼ぶ生き物はこの鴨足草村には生息していません。それはすでに絶滅したとされている生き物でした。ただ、私はその存在をつい最近確認しました。
翼のない空猫はいつの間にか私の後をつけてきたようです。
こうして、少年たちと私による猫の探索が始まりました。
「ここにいたの?」
「うん!」
「うん!」
少年たちが指差した場所は町の発電所でした。
鴨草足村の東の山沿いには巨大な発電施設があります。黒い長方形の板が太陽に向かって気持ちよさそうに日向ぼっこをしているのです。すると彼らは植物の光合成のように電気を作り出します。不思議な仕組みなのですが、説明を聞いても私には難しくて分かりませんでした。
猫はその黒い板の影になっている場所で静かに一郎たちを睨んでいたそうです。
「やあ、君たちどうしたんだい?」
私たちが柵の向こうの発電施設をじーっと食い入るように眺めていると、丁度ここの管理者がやってきました。鼻の下に無性髭を生やした三十代くらいのその男性の名前は宇田川清彦さんといい、私たちは電さんと呼んでいます。
「電さん、猫見なかった?」
一郎がわしゃわしゃと手を振りながらそう聞くと、電さんは頭に被っていたヘルメットを外し、発電施設の方をぼんやりと眺めます。
「猫がいたのかい?」
「うん!」
電さんは一郎の元気な返事に顎に手を当てて考え込みました。それほど猫という生き物は私たちにとっては幻染みた存在なのです。これは幽霊を見たと言っているのと何にも変わらないくらいなんですよ。
この巨大な発電所は電さんがたった一人で管理しています。この町の電気の全てを賄っているのですから、電さんは本当にこの町にとってはなくてはならない存在です。普段は発電施設のすぐ脇にある小さな古民家の縁側で昼寝をしていることが多いのですが、定期的にヘルメットと工具を装備してこの辺りを巡回するのです。
電さんが管理しているものはもう一つあります。それは発電施設を挟んで、電さんの家の向かい側にある、山の斜面に聳え立っている不思議な形をした塔です。六角錘台で雨の日も、風の日も、晴れ渡った青空の日もこの塔は歪なほど真っ黒です。周囲は柵で覆われていて入れないのですが、近づくと掃除機のように風が吸い込まれているのが分かるんですよ。どういう目的で建てられたのかは一切分かりません。
ええ、そうです。私が昔選んだ七不思議の一つですよ。
「よく分からないなー。」
じっと塔の方を眺めていると、やはり電さんはそんな結論を下したようです。子供たちはがっかり凹んでしまいましたが、宝探しは紆余曲折を経て見つけた時が一番楽しいので慰めるのは止めましょう。
「そうだ。」
ふと電さんは何かを思い出したかのように手を叩きます。
「ウェンディに聞いてみたらどうだ? あいつはそういうの詳しいだろう。」
「分かった!」
何だか嫌な予感がします。ひょっとして今日は色々な人のところを巡ることになるのでしょうか。そうなると最終的にはあの勘の鋭い釣り目のお爺さんに行き当たりそうで少し気が引けます。そこまで頭が回らない子供たちは無邪気に私の手を引っ張りました。
ウェンディさんはここから更に南に進んだ場所にいます。私が忍び込んだトンネルの入り口から数分北に歩いた場所です。どうせ今日も長くなりそうですし、お弁当を作ってもらうことにしましょうか。
トンネルの向こう側にいた喋らぬ猫。
一郎たちが見かけた不思議な猫。
果たして、同じ猫なんでしょうかね?